Merengue Panic



Advent Calendar 2022 10日目の記事

舞い・踊り・ダンス(2)

ダンスは文化より古く、 ひと口にダンスといっても世界には様々なダンスの考え方やスタイルがあります。 特にパートナダンスは近代ヨーロッパでのみ生まれた特殊な背景のダンス。 それが数百年の時間の中で他の地域の音楽・ダンスと混淆し、世界中に拡がりました。 人はどうしてパートナダンスを踊るのか。 その謎に満ちた動機を探究する試論の6回シリーズ、2話目です!

舞いと踊り

パートナダンス以前にそもそもなぜ人は踊るのかという問いは、 とても大きい問いですからこのエセーの範囲を越えてしまいますが、 ごく基本的な部分で踊りとは何かという点を少しだけ整理しておきましょう。

明治の頃に西洋から "dance" に類する語が入ってきたとき、 日本語にはそれに相当する語はなかったようです。 古い日本語では「舞い」と「踊り」はかなり違う意味の言葉で、 西洋風のダンス、とりわけボールルームダンスは日本語でいう「舞い」の要素と 「踊り」の要素の両方を持っていたため、 訳語として「舞踊」とか「舞踏」という語が用いられるようになったといいます。

日本語の「舞い」は「まい」ですから「まわる」という言葉と同根です。 くるくる回る動きに象徴される、洗練された動きです。 能楽をはじめ神楽舞や幸若舞などですね。 一方の踊りは「おどる」で「おどす」とか「おどろかす」などと同じ言葉のようです。 踏み鳴らしと跳躍を基本とする動きでより激しい荒々しい運動です。 伊勢踊りや八月踊り、歌舞伎踊りなどのイメジです。

舞踊はもともと宗教行事としての神懸かりですから、 身体に神を降ろして物狂いになる状態です。 神さまによっては静かにくるくる舞うし、 もっと荒々しい神さまが降りてくる場合には足を踏み鳴らして踊るということです。 神さまの遊び方にも大きく2種類あるということですね。

ちなみに「舞」という字はもともと「無」と同じ字で、 舞うことは自分自身を空っぽにすることでした。 空っぽにしないと神さまが入ってこれないからです。 「明鏡止水」とか「無時間の感覚」とか「フロー」と呼ばれるような精神状態も、 こうした感覚と関係しているかもしれません。 何か考えたり意識したりしているうちは本当には舞えてはいないということですね。 一方「踊」という字は「足」に「桶」で、 桶を置いてその上で踏み鳴らすということです。 つまりステップの音を鳴り響かせるという下半身を中心とした鉛直方向の激しい運動です。

歴史的には舞いと踊りはそれぞれ異なる歩みをしてきましたが、 現代では舞いと踊りは互いに習合しあい、技術的にはそれほど大きな差がなくなってもいます。 ターン(=舞い)とステップ(=踊り)を基本技能とする 「ナチュラルウォークダンス」であるパートナダンスの場合、 まさに舞踊の両方のエッセンスを持っていると考えることができます。

舞=無の困難

白色尉
from Wikimedia.org

自らを空っぽにして神さまや精霊を降ろすことがダンスの本来的あり方なのは、 洋の東西を問わず普遍的なことです。 少し集中してダンスを踊っていると、 リズムとシンクロして踏み鳴らし、メロディに合わせて回転しているうちに、 自分がそこから消えてなくなる感覚を味わうことが稀にあるかもしれません。 ダンスにはまるきっかけとしてこういう体験を挙げる人もいますが、 もっとも素朴な原ダンスの経験といえます。 能の『花筐』にある「面白う狂うて舞いあそび候へ」という台詞は 端的に人がダンスする理由を言い当てているのでしょう。

このように本来のダンスは宗教的・オカルティックな意味が強いもので、 それがだんだんと娯楽や藝術の成分を強めてきたということです。 欠乏を満たすために踊るというよりも神を降ろすためにすすんで欠乏に至る、 というのがダンスのより古い作法でした。

このような理解を前提とすると『饗宴』の寓話のように、 自らの原的喪失を癒やすというのはせいぜい性愛の動機になることはあっても、 パートナダンスの動機になるかどうかは余計に疑問になってきますね。 どうもダンスについて考えてみても、 そこにパートナダンスの登場する余地がないように思えてきます。 「面白う狂うて舞いあそ」ぶというのは陶酔・没入・忘我の状態ですが、 合一を目指す相手は神さまであって目の前のパートナではないのですから……。

明日に続きます!

posted at: 2022-12-10 (Sat) 12:00 +0900