踊らせる人
ところで、 ダンスの領域で最もよく口にされる箴言のひとつに 「誰も見ていないかのように踊れ」というのがあります。 これまでの文脈でいえば「狂う」ためには人の目を気にしてはならぬ、 ということで、 ここでも「狂う」ことがダンスの快楽であることが諒解されていると同時に、 逆説的にこの箴言が必要なほど今では「狂う」ことが困難であることも示唆しています。 自我意識の発達した文明人には「神との合一」 というような神秘主義的な快楽はなんとなく想像くらいは出来るものの、 そして運がよい人はその端っこくらいに触れることはあるにしても、 いつも体験できるわけでもいつまでも持続できるわけでもない、 と感じる人が多数派だろうと思います。
ここで、踊る人がひとり自由に忘我の世界と行き来するのが難しいのなら、 様々な道具や環境やサポートによってそこへ至るようにすればよい、 というのは必然の発想です。 事実、多くの伝統舞踊では踊る人の内的状態を準備するための様々な仕掛けがあります。
例えば、 能ではシテ(舞う人)が神さまや精霊に成りますが、 そのために橋掛りのような舞台装置や仮面が重要な役割を果たしています。
さらに、能というのはどうみてもシテの単独舞踊(=ソロダンス)ですが、 それにも関わらずシテを呼び出し、その舞いと謡いを引き出す重要な役として、 ワキが必ず必要とされています。
ワキとリード
能におけるワキというのは諸国一見の旅の僧かそれに類する中年男の役で、 イントロで状況設定を説明する役割を了えると、 ひたすらワキ柱の側に座ってシテの舞いを眺めているだけという不思議な役どころです。 神と合一して舞うシテと異なり、 面をかけない直面で演じられます。 しかしこのワキこそがシテが謡い舞うことを可能にしている、 というのが能における重要なポイントだといわれます。 このワキのやっていること、リード・アンド・フォローにおける リードの役割にどこか似ていると思いませんか。
旅の途中で不思議な精霊や亡霊に出遭い、 恨みや未練のある者たちを呼び出し、 彼らの思いの丈を存分に「ワキ」出させ、 物語らせ舞い遊ばせる呼び水となるのがワキであり、 この役割なしにはシテのダンスを現前させることはできないのです。 一度きっかけを作ったらあとは座ってみるだけでいいのですが、 これはまさにリードの理想に通じます。
リードとはフォローという主演出に対する副演出であり、 ときどきちょっかいを出したり説明したりする役回りであり、 「才の男」の仕事であると考えると非常に腑に落ちるのですがいかがでしょうか。
このアナロジを用いるとリード・アンド・フォローの関係に 能楽論の議論を様々に応用でき、 その相違点を点検するだけで非常にスリリングな指摘が数多く可能なのですが、 ここでは措くことにします。
いずれにしても、この世とあの世、人と神、男と女、現実と幻想、川下と川上、 右と左といった二元的断絶を乗り越えるために別の二元的構造を用いる、 というのは古典藝能の枠を越えて普遍的なやり方なのかもしれませんね。
"Among School Children"
能舞台の構造的呪力とワキの喚起力によって死者の世界との往還を可能にする 複式夢幻能は異界との断絶を軽く跳び越えてしまいますが、 西洋においても同じような跳躍をまったく別の方法でやってのけた人がいました。 しかも、その作品はパートナダンスにおいて相手をダンスに誘い、 1曲を踊り了えるまでの過程に酷似した流れを示しているとも解釈できるものなのです。
それがアイルランドの詩人 William Butler Yeats の "Among School Children" という有名な詩です。 1連8行が8連、都合64行からなる幻想的で美しい詩で、 老人期と幼年期、死と生、現実と幻想といった越えられないふたつの世界、 二元的な世界の断絶と融合を描いたマスタピースです。
Duck Duck Go で William Butler Yeats の "Among School Children" を検索(外部リンク)
この詩は老人が小学校を視察するシーンの描写から始まり、 断絶された世界をイメジの力を使って重なり合わせ、 行き来し、最終的に両者の融解を夢見るものです。 ヨーロッパ現代詩人の最高峰に名を連ねる Yeats の、 この大変な詩をパートナダンスに引き付けて解釈するとどうなるか。
明日に続きます!