Yeats の幻視する身体
それでは最初に Yeats の "Among School Children" の大まかな流れを抑えておきましょう。
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第1連では Yeats 自身と思われる老人が尼僧が教える小学校を査察に訪れる様子が描かれます。 案内役の尼僧とお喋りしながら学校を歩き、 子供たちが様々な科目を学んでいるのを見ている、 そんな光景が描かれています。
少しだけ背景を述べておくと、 晩年の Yeats は建国間もないアイルランドの上院議員に選出されており、 教育問題に取り組んでいました。 当時アイルランドの南部には伝統的な尼僧が行う学校があり、 それを視察したときの経験がこの詩の源泉になっています。
第2連から第5連では 小学校の少女たちの上に女神や神話的な存在たちが重ねて幻視され、 また自身の生涯の恋慕の対象であった Maud Gonne を女神に重ね、 自らの失われた半身であると信じる彼女の少女時代の記憶、 現在の老いた姿の想念が流れていきます。
第6連と第7連に至って哲学者たちの言葉にも超越者にも 生まれることの苦しみを癒やす力はないと嘆くのです。
その上で第8連では目的のための手段や部分の統合としての全体ではなく、 「今ここ」を越えた大樹、 あるいはダンサと区別できないダンスにこそ希望を見出して締められます。
このように圧倒的なイマジネーションと神話からの引用、 想像力と思考の飛躍を伴う詩ですから、 その意味を逐語的に解説することは無謀です。 多様な解釈がある詩でもありますし、どのように読むこともできます。
そこで、今回はあえて蛮勇を奮い、 ソーシャルでパートナダンスを踊る場面における ひとりの老人の内面の問題としてこの詩を解釈してみようと思います。
老人リードの妄想
まず、老人(≒リード)が教室(≒フロア)に入ってきて、 そこにいる学校の子供たち(≒フォローたち)を観察しています。 その視線に気付いたフォローの方はいぶかしげに老人を見返します。
そこにいるのは一般の初心者だったり初中級者だったり中級者だったりするのですが、 彼女たちを眺めていた老人は突然、 レダあるいはその娘のヘレネのような神々しいフォローを幻視します。 ただし、それは観念的に理想化されすぎて決してこの世には存在しえないようなフォロー、 たとえば、 古代インドの舞踊書『アビナヤダルパナ』 が説明するような完全無欠のダンサという意味ではありません。
スレンダで美しく、若く、丸い胸を持ち、自信があり、 機智に富み、気持ちの良い態度であり、 いつダンスを始めるか、そして止めるかをよくわかっており、 大きい瞳を持ち、楽器と歌と共に演じることができ、 リズムをしっかりと観察し、 華麗なドレスを持ち、幸福な顔つきを備えているべきである。 それら全てのクオリティを兼ね備えた女性をダンサと呼ぶ。 (『アビナヤダルパナ』より)
こうしたルッキズム・エイジズム・エリーティズムを多分に含んだ意味での理想主義ではなく、 むしろ、自分がどういう訳か惹かれざるをえないようなフォロー、 「自らの失われた半身」であるようなフォロー、 Yeats にとっての Maud Gonne のような存在としての理想的フォローのことです。 つまり、プラトンの『饗宴』にいう二体一身のイメジ、 ひとつの卵の中の黄身と白身であるような相手を幻視したのです。
この理想的フォローが幼年期に経験したある小さなトラウマ、 それは老人も共感できる痛々しい発作的なフラッシュバックであり、 目の前にいる多くの普通のフォローたちにも共有されるものかもしれない、 そんな悲しみか怒りの感情を思い起こします。 フロアのフォローたちは幻視のフォローとは異なりますが、 幻視のフォローの成分をいくらか分け持った者たちとしても見えてくる、 そういう心境に老人はなってきます。
一方で、現実には理想のフォローは存在しえないこともちゃんと分かっており、 目の前のフォローが微笑みかけて踊りに誘ってくれるとき、 気安い老いぼれた案山子のリードとして微笑みを返すのみであることも知っているのです。
老人は決して触れることのない理想のフォローとの断絶を思いながら この相手と平歌を踊ります。 その間に心に去来する断片的な思索、たとえば、 生まれてくることの業、 現実世界は不完全で理想世界の幻影に過ぎないとする思想、 アリストテレスに尻を叩かれていた大王、 どうやってもずれてしまう2対3の比(ピタゴラスのコンマ)が生み出す美しい旋律、 心地よいポリリズムことば(タコスミカケギワクダモノ)。 これらはどれも所詮案山子の古い棒切れに掛けたボロ布に過ぎないとする暗澹が、 フロアを充満していくのを感じます。
曲がマンボに差し掛かるとき、 目の前の直立する銅像に祈っても 決して魂は振り起こされぬことを悟っている老人は、 過去千年に渡って踊ってきたパートナダンサたちの偉大な記憶(el grande) と踊ろうと決意するのでした。
相手を歓ばせようとして親切に踊るのではなく、 やけっぱちを発散しようとして踊り狂うのでもなく、 灯油にかすんだ目で編み出した派手なテクニックを自慢して踊るのでもない。 深く根を下ろし花を咲かせるマロニエの大樹は葉ではなく、 花ではなく幹でもないのだ。 リズムに揺れる身体、一瞬の目合い、 どうしてダンサをダンス以外のものと見做せようか。
このように Yeats の詩を1曲のパートナダンスにおけるリードの心境に 沿って対応させてみるとき、 ダンスに関わる文章にしばしば引用されるこの詩の最後のパート、
O body swayed to music, O brightening glance,
How can we know the dancer from the dance?
の意味がここで全くパートナダンス固有に意味に横滑りしていることに気付くでしょう。 フォローとリードの間の個的な関係性を全く度外視した 大胆なパートナダンス観が湧き上がってきます。
では、上の文脈で「偉大な記憶」とは何か、「案山子」とは何か。 あるいは「ダンスからダンサを分ける」とはどういうことなのか。 もう少し丁寧に考えてみましょう。
明日に続きます!