アンド・ドリヴン
Yeats は断絶する現世と常世を繋ぐ想像力として、 生命の樹とも思えるマロニエの樹の全存在を感得し、 一瞬に永遠を切り取るダンサ=ダンスを希求します。
ソーシャルダンサの老人のケースでいえば、 フォロー相手ではなくマロニエの樹の化身と踊るということかもしれません。 こう考えるとフォローの資質というのはスタイルや技術を超えたところで、 この神的なるものを受け止められる身体を持っていることともいえます。 能におけるシテが柳の精や梅の精を降ろして舞い遊ばしめるように、 本当に幸運なリードは個的な人格や技術やスタイルに優れたフォローではなく、 音楽の「性根」とも「精霊」ともいうべきエナジィをすっかり降ろせる 無(=舞)の身体を持つフォローと踊るのだということになります。

程度は様々ながら、こうした性質を自然に持っているフォローもわずかにいますが、 多数派ではありません。 したがって老人リードはまさに諸国一見の旅の僧の心持ちで、 できるだけ目の前のフォローの中を空っぽにし、 音楽の精霊を「湧き出させる」ための技量を磨かねばならぬということになります。
これが上手くいく場合、リードは一個のフォローと踊っている、 というよりは音楽そのもの、ダンスそのもの、 「偉大な記憶」そのものと踊っているという感じになり、 フォロワ自体の能力やスタイルとは別の次元で詩情に溢れた1曲を踊ることができるのです。
同時にリードしている自分自身については、 まったく何らかの作用をダンスに付け加えている実感がなくなり、 ただぼうっと突っ立っているだけの、 まさに無能な案山子であるような気持ちになってくるのです。
このとき、「リード・アンド・フォロー」は「リード」の仕掛けで動くのでも、 「フォロー」の身体能力で展開するのでもなく、 変な言い方ですが「アンド」のところが自律的に動いて、 ほとんど空っぽの「リード」と「フォロー」は この「アンド」についていくだけになっていきます。 いわば「鐘がなるのか撞木がなるか、鐘と撞木の間(あい)で鳴る」といった境地です。
パートナダンスの快楽
Yeats のような天才的想像力の持主や能楽師のように伝統の叡智に導かれた人達でもない限り、 こうした精神の水準に自力で到達することはなかなか困難です。 しかし、パートナダンスは形式的な運動に習熟するための反復的な営みであるがゆえに、 ただ懸命に練習しさえすれば、 ほとんど思考力を必要とせずに遠い地点へと人々を搬んでくれる力があります。 この「ダンス三昧」の果実はソーシャルダンスのフロアでは様々な名前で呼ばれていますが、 その一部を挙げれば 「ケミストリ」、 「共鳴」、「サルサガスム」、「フロー」、「一体感」 などがあります。 つまりこれだけ多くの表現が存在するということは、 それだけ多くのダンサがこの境地を共有できてもいるということで、 実に驚くべきことです。
もちろん、パートナダンスにはあらゆる遊び・喜びの要素がありますから、 こうした感覚だけが唯一の快楽ではありません。 競争・くじ引き・物真似・演技などの楽しみや駆け引き、ふざけ合いの楽しみ、 軽い運動の心地良さ、触覚的な気持ちよさなど様々です。 もちろん、これらだけでも充分にダンスは楽しめるものです。
あるいは性愛的な感情とパラレルな、 関係性の親密さや互いの好意に基づく快楽を伴う要素もありますが、 そうした吝嗇で排他的な志向性とは別に、 Yeats 老人がマロニエの樹に見出したような、 世界との合一の感覚に至る深い体験こそが特筆すべき快楽としてあるのです。 この意味でもパートナダンスはクローズドな密室でふたりきりで行われるのではなく、 ダンスフロアというパブリックな場所でしか成立しないものなのでしょう。
ただ、なかなか難しいのは、滅多にこんな風に踊れるわけでなく、 涸れた『鷹の井戸』に水が湧くのを切望する老人のように時の到来を待つ以外にないのですが。 若く威勢のよいクーフーリンだと待ち切れないかもしれません。
離見の見
ところで、この体験の感じ方はもしかするとリードとフォローでは異なるのかもしれません。 相対的にリードはフォローよりも観察者としての冷静な視点を持つ必要がありますから、 単なる没入状態ということではありません。 あるいは世阿弥の言葉でいえば「離見の見」に近いかもしれませんが、 没入した自分を冷静に見る別の複数の自分が、 リードをする時間、フォローのフィードバックを待つ時間、1小節向こう側の時間、 といった複数のタイムラインを同時に動いているという感覚があります。
このわずかにずれている複数のタイムラインの間の微妙な間、 時計で数えれば秒針の数分の一の時間ですが、 この間にふと時間軸から降りているように感じている自分を感じることがあります。 永遠とも思えるようなこの一瞬、 たとえばメレンゲでブレイクをヒットしようと少しだけステップを強める一瞬や、 サルサでクロスバディ=リードで送り出す瞬間、 どこか無時間の彼方にいるような感覚を覚えるのです。
あるいは音楽のしかるべきタイミングで実施されたグランデ (360 や whip とも呼ばれるサルサの基本テクニック)の往路と復路の間で、 まさに "brightening glance" を感じるとき、 まったくフォローと音楽・ダンスの区別が出来ない無時間に落ちてしまう感覚です。
O body swayed to music, O brightening glance,
How can we know the dancer from the dance?
跳躍と旋回による断絶の融解、 幻想的心地を表現した言葉として Yeats のこの2行は端的かつ見事で、 付け加えるべき解説が何もありません。 この特別な地点にあるときのリードにとって、 フォローとダンスを区別することは不可能であり、 フォローと音楽とフロアはリード自身を含めて弁別不可能な一回性の連続世界となるのです。 この全体を「ダンス」と呼ぶより仕方ありません。
一般にこの Yeats の詩句はパートナダンスの話に限定して解釈されるものではありませんが、 本サイトのこの文脈においては、 まさにパートナダンスの核心を射貫いた表現として受け止めざるをえないでしょう。
明日に続きます!