ダンスの記録
ここで「ダンスとダンサとの一致」の問題は、 ダンスを記録することやダンスを記憶することの難しさ という別の側面から議論することもできます。
ダンスの振付を記譜する方法は古くから様々な試みがあり、 文字や単語による素朴な方法から汎用的な ラバノーテーションまでヴァリエーションがありますが、 詳細をきちんと書き込むのは相当な手間がかかります。
現在では手軽にヴィデオで撮ることもできますが、 その場合も3次元空間で動いているものを2次元で撮影するのが限界ですから、 身体の向こう側で動いている部分を収めることはできません。 複数視点のカメラを組み合わせれば ある程度は動きの全体像を収録することはできそうですが、 それでも完全に死角なしとはいきませんし、 そもそも視覚的に捕捉できる要素を写したに過ぎません。
コレオグラフィはコンセプトやプロトタイプというべきで、 演舞の実践の一例よりも一段メタな情報です。 音楽の演奏に対する楽譜、実際の調理に対するレシピ、 製造作業に対する設計図の関係にあるような意味で ダンスに対する舞踊譜を書くというのはなかなか厄介な作業です。
これを指して「ダンサはダンスから切り離せない」という Yeats の詩の意味を考えることもできます。 つまりあるダンスを保存できるのはそのダンスを踊るダンサの身体だけで、 紙や磁気テープなどの別のメディアへの書き写しは困難だというごく単純な意味です。 仮にやってもかなりの情報量が失われてしまいますし、 最も精確に伝達するには直接誰かに振り落とすことですが、 それでさえも別の身体の流れの中で、 どこか別物になってしまう、という実感も踊る人なら共感できるでしょう。 ダンサの身体だけが実質的な評価に耐えうるダンスのメディア、 ダンスの保管庫というわけです。
ソーシャルダンスの記憶
ところで、あるソーシャルダンスの1曲がとても素晴らしかったと感じたとしても、 その記憶を維持することはほとんどできません。 まるで夢のように思い出そうとする端から溢れ落ちていってしまいます。 「よかった」という印象だけは残るのですが、 いくら思い出そうとしてもそれを実感を伴ったかたちで 脳内再生することはとても難しい。 そのときの曲や相手や場所を覚えておくことはできても、 肝腎のダンス体験のリアリティそのものははっきりと追体験できません。
というのも、ダンスの経験は言語化しづらい、 つまり、文字や記号や電子信号に変換しづらいということがあります。 言語的にではなく身体的にしか体感できないことは身体的にしか記憶できず、 触覚的・嗅覚的・味覚的なものを含むトータルな五官の経験は 全体としてそれを外部メディアに書き込む方法がありません。
Yeats も "Among School Children" の中で、 赤ん坊を動かすものは記憶 recollection かドラッグかと問うていますが、 ここでの記憶とは前世の記憶のことを指しています。 この前世の記憶もまた、まだ言葉を知らない赤子の身体に刻まれた記憶であり、 その記憶によって眠ったり叫んだり逃げだそうとしたりするのだと書きました。
しかもパートナダンスの場合は先にみたように、 フォローと音楽とフロアとリードの全体からなる即興のダンスであり、 それを記憶できる身体はリードやフォローのそれを超えて、 そのときの時空間そのものしかないということになります。 踊っている間は夜通し続くようにも思える「偉大な記憶」の持続はその曲限り、 その身体はたちまち消えてしまうのですから記憶のしようがありません。
言語という道具
この言語化しづらいという特徴はパートナダンスの中毒性・依存性を説明します。
人は言語という道具を用いることで伝達を容易にしてきました。 記憶を外在化させ、石や紙や音によって(感動や情動を含む)「情報」 を媒介する技術を発達させてたのです。 ところが、人が得る「情報」は本来外部メディアに記述可能なかたちとは無関係なので、 人が表現を行うときには書き付ける媒体に対応した加工が必要になります。 つまり、彫刻家が石像を刻むとき、 刻まれるのは大理石だけでなく彫刻家自身でもある訳です。 彫刻家は彫刻家として表現するために経験自体を彫刻可能なものに「彫刻」してしまうのです。 あるいは彫刻家は前提なしに世界を経験できるのではなく、 彫刻家としてしか経験できないのだ、という言い方もできます。 彫刻のみをメディアとする彫刻家は彫刻できないものを感じることはできないし、 記憶するすることもできません。
言語の場合も同様で、発話不可能な情報は発話可能なかたちに変形されてしまいます。 発話できない情報は感じたり記憶したりできない。 結果として音声言語にも記述言語にもなりにくいダンスの経験は 記憶することも思い出すことも困難ということになります。
作品にならないダンス
ではあるソーシャルダンスが印象に残ると感じるとき、 何が起きているのでしょうか。 パートナダンスを構成する身体の全体が経験する記憶は、 リードとフォローの身体のどこかに壊れたかたちで保存されます。 大理石に刻む代わりにお互いの身体のどこかに刻み合った訳ですが、 彼らの身体の書き込み領域はダンスを経験した身体よりも領域が小さいので すべての情報をアロケートできません。
記憶することや記録することができないので、 ソーシャルダンスは藝術や作品にはなりません。 伝達も比較も批評もできず、あとから賞賛することも表彰することもできないからです。 せいぜいヴィデオに収録可能な外見上の特徴だけなら保存することも可能ですが、 それは石像の写真のようなもので石像そのものではありません。
よきソーシャルダンスとは優美で、至福で、美味で、 なんとなく恍惚に包まれたような感覚ですが、 記憶には残らない。 ふと現れてその場で消えてしまうのに、 不完全な印象だけを置いていく欺きであり、 擬態であり、変色する皮膚であり、 液化する内蔵のような感触です。 まるで白鳥に化けたゼウスがレダに授けた卵のような、 身体の中のどこにそれが保存されるのか不明な青白い夢幻としてしか残りません。 何度反復しても掴まえ切れない後味を残す、 だからこそ何度も反復したくなるというのがソーシャルダンスの罠でしょうか。
どこの誰だかわかりませんが、 最初にパートナダンスを始めた人々というのは、 このエフェメラルなメディアの楽しみを 千年前に先取りしていたということかもしれませんね。
明日はまた別のテーマです!