求めざれば与えられず
ダンスフロアでのマナーはダンスコミュニティによって、 地域によって、スタイルによって、そして個々の箱ごとによって異なります。 その中でも誘い方/誘われ方、いわゆるパートナアップの手続きには、 微妙で繊細なマナーがあり、それが場所によって異なるのが面白いところです。
ダンスの始まり、ダンスの誘い方というのはボールルームダンス以来の伝統で これまで男性(リード)が女性(フォロー)を誘うべし、 と教えられることが多かったのですが、 最近ではむしろフォローがリードを誘うことを推奨する意見を多く見るようになりました。 いわゆる "Don't ask, don't get" 「求めざれば与えられず」 ということです。 これは合州国のボールルーム界隈では慢性的にリードが不足しており、 フォローは自分から誘わなければ一晩中「壁の華」に甘んじなければならぬ、 という状況の打開策という側面があるようです。
また、パートナダンスでは、 誘われる側よりも誘う側が満足するダンスになる傾向があり、 よりパーティを楽しみたいと思うなら待つよりは誘う方がよい、 と考えられるようになってきたということもあるかもしれません。 現代のサルサやメレンゲのフロアでも当たり前のように男女問わず、 リード/フォロー問わずにお互いに誘い合っています。
誘い方と断わり方
さて、パーティにおいて相手をダンスに誘う際のマナーとしては 以下のような項目がよく指摘されます。
- 誰かを断わったらその曲は他の人と踊ってはいけない
- 他の人と話している人は誘うときは話し相手に断ってから
- 後ろから肩を叩いて誘うのは NG
- 同意を得ずに強引に誘うのは駄目
これらはほぼ常識の範囲内という感じがありますが、 誘い方以上に難しいのは断り方で、 相手にも気を遣いつつ、きちんと主張しなければいけません。
曲がよくない、フロアが混んでいる、疲れて休憩している、 トイレに行きたい、タバコに行きたい、 他の人とお喋りしている、ドリンクを飲みたい、 この曲は別の人と踊りたい、などなど 誘われたダンスを断わる理由は無数にあります。 したがって、断られた方はそれほど気にする必要もないのですが、 言い方にだけは気をつけないと相手の気分を害してしまいます。 もっと単純に踊りたい人ではない、 苦手な相手という場合もありますが、 それでも無作法に断る訳にはいきません。
断るのに理由を伝える必要はない、理由を聞いてもいけない、 というのも暗黙のマナーですが、 これは不必要な気まずさを避けるための知恵でもあります。 どんな理由であれ、誘いを断わることは自由ですし、 断られた方も食い下がってはいけません。 また、何らかの事情で断わった相手には、後で自分の方から誘いなおすべし、 というのも相手の立場に配慮したマナーです。
ただ、こうしたマナーはマナーであるがゆえに、 その応用は文脈や状況によって変化しますし、 当然マナー違反する人も一定数います。 ラテンクラブはカジュアルな集まりなので、 場所によってはマナーを守らない人の方が多いというケースもあります。
さらに「マナー違反を指摘するのが最大のマナー違反」 であることを知っている人は彼らにもそれなりに寛容に対応することになり、 場の空気を守るため、 不愉快な状況をを飲み込まねばならぬ場合も多々あります。 「誘いたい」と「誘われたくない」が衝突するとき、 どちらかが引かなければなりませんが、 これが常に一方の側の負担になるというのはフェアではないでしょう。
カベセオのススメ
こうした複雑な心理の網目の交錯によって不快な思いをする人を防ぐために、 大変有益とされるパートナアップの方法が「カベセオ」です。
タンゴのコミュニティではよく知られている方法ですが、 これは通常の意味でのマナーとして自分にも他の人にも不快な思いをさせずに パートナアップできるというメリットがあるのみならず、 パートナダンスの食卓作法、 それも神話的食卓作法としての観点で見たときにも大変興味深い点があります。
カベセオはタンゴのソーシャルパーティであるミロンガにおける 一般的なパートナの誘い方で、スペイン語で「うなずき」という意味。

まず、誰かを誘う人は、 相手に視線を送り目が合うのを待ちます。 この時点で相手が他の人とお喋りしたり、 何か別のものを見ている場合にはその関心を優先してあげることができます。 アイコンタクトがとれない場合、 それはダンスへの意志がないとしてその曲はその相手と踊るのを諦めます。
一方、誰かの視線を感じた場合、 その人と踊るなら目線を返して軽く「うなずく」ことでダンスに応じることができますし、 踊るのを避けたい場合は目を合わせないだけで充分です。 お互いに露骨に誘うのでも断わるのでもないため、 カベセオに薄々気付きながら目線を外し、 その後別の人と踊り始めても先の人に失礼にならないという利点があります。 つまり、断わる側の負担が少ないのですね。
たとえば、曲と相手の組み合わせに特別の嗜好がある人にとっては、 この曲はこの人ではなくあの人、 という場合があります。 先に別の人から誘われてしまったという理由で望まない相手と踊ることになるか、 断わってその曲を休まなければならないという状況がしばしば生じますが、 カベセオならこの状況を避けることができます。
もうひとつのカベセオの利点は、 かなりの距離があっても目的の相手までの直線が空いていれば使える技術ということです。 おかげで遠くに陣取っている人ともパートナアップ可能で、 少し広いフロアや混んでいる場所では有用な方法です。
このように誘う側にも誘われる側にも負担の少ないカベセオはいいことづくめなので、 ぜひラテンクラブでももう少し広まって欲しいと思うのですが、 課題がないでもありません。
カベセオが成立してふたりの間でダンスの合意が成ったとしても、 この瞬間の両者の距離はある程度離れていますし、 この合意形成は第三者からは認識しづらいものです。 このため、カベセオの後ふたりが近づく前の段階で他の誰かが割って入り、 どちらかを明示的な言葉や仕草を用いて誘ってしまうというケースがあります。
これを一部界隈では「カベセオ鳶」とも揶揄するようですが、 明確な意志表示で誘われた場合にそれを断わることを習慣としない人にとっては、 絶妙な呼吸で成立したカベセオの合意があったとしても、 後からきたこの「鳶」の誘いの方を反射的に受けてしまうことがあります。 踊ろうとしていた両者は既にあったカベセオを破棄することになって残念なのですが、 一方、割って入った「鳶」の方はカベセオがあったこと自体に気付いていないのですから、 相手が複雑な思いをしていることにも気付きません。 本当なら、「先にあちらの方と踊るアイコンタクトがありましたので」 といってカベセオを優先できればスマートですが、 瞬発的な判断力が要求される局面といえます。
時の到来を告げるカベセオ
ところで、 普通カベセオは先にどちらかが相手を見つめることから始まると説明されますが、 必ずしもそうではないカベセオがときどきあります。 どちらが誘ってどちらが誘われているのか決定できないようなパートナアップ。 カベセオの最大の魅力はそのパーティで最も深い印象をもたらすダンスの到来を 告げるようなアイコンタクトを引き出すことにこそあるのです。
明日に続きます!