Merengue Panic



Advent Calendar 2022 20日目の記事

ダンスフロアの食卓作法(3)

ダンスフロアは肌の色・年齢・職業・価値観・宗教・国籍など、 バックグラウンドを異にする多様な人々が集まる場所。 普段触れ合うことのないような相手とも踊りを通じて会話できるというのが魅力ですね。 逆にいえば、お互いが気持ちよく過ごせるようマナーが重視される場所でもあります。 今回はダンスフロアに固有のちょっと不思議な「テーブルマナー」を取り上げてみます。 4回シリーズの3話目です!

視線を感じること

カベセオによるパートナアップが成立するには人には他者の視線を感じる能力がある、 という前提が必要です。 まだ目線が合っていない段階で視線を認識できるからこそ、 目を合わせて諾とするか、逸らしたまま否とするかの選択ができるというものです。 ところで、目が合っていない段階で人の視線を感じる能力 とはどのように説明できるものでしょうか。

他者の視線を認知する能力は視覚以外にないというのが学問的な定説のようです。 素朴な直感としては第六感的な感覚で他者の視線を感じたことのある人も多いと思いますが、 単なる勘違いやたまたま目が合ったときの印象を記憶のメカニズムが増幅しているだけ、 とされるそうです。 視線に気付くためには視線を送っている人を視覚的に見る必要があり、 斜め後ろからの目線に気付くことは偶然以外で説明することができないといわれます。

このことを理由にカベセオは上手くいかないと教える人もいますが、 そういうことではありません。

カベセオは真後ろから見つめる人にも気付け、というのではなく、 あくまでも周辺視野の中で見つめている誰かに焦点を合わせるか、 焦点を逸らすかという話なのです。 ですからカベセオでよくある間違いは相手の視界に入らずに 一生懸命相手を睨んでしまうことで、 これで気付いてもらえることは、普通ありません。 距離は遠くてもいいのですが、とにかく相手が視界に入ってから見つめましょう。

逆にいえばカベセオを受ける心構えがある人は、 周辺視野に入っているダンス相手候補に注意を払っています。 横を向いたり下を向いたりしている限り、 正面方向の人の視線に気付くことは出来ませんから、 フロアでお喋りしたりルービックキューブをいじっていたりするというのは、 そもそもダンスを受けるタイミングではない、 ということを周囲に示す効果を持ちます。 ですから、カベセオ受けを期待する人は顔を上げていなければならず、 周囲のダンサにとっても顔をフロアに向けて上げている人だけが誘う候補になります。

とはいえ、実際のソーシャルでは、 目が合わない人とどうしても踊りたいときがあり、 直接声を掛けるとか、手を伸ばすなどしなければならない場合もあります。 特に混んでいるフロアや顔見知りばかりの日常的なローカルシーン ではそれも仕方ない場合が多いかもしれません。 ただ、見知らぬ人が多く集まるコングレスのような場所では フロア全体がカベセオを中心としたパートナアップになると、 心地よく負担の少ないパーティになると考える人は多いようです。

誘い誘われあやつられ

ところで、カベセオの実践を続けていると、 先に見たのはどちらでうなずいたのがどちらか分からない、 という清々しいパートナアップが立ち上がる場合があります。

ほとんど同時にお互いを見合い、 その瞬間にダンスの合意が形成されるのですが、 これはよく見知った人との間でも起こりますし、 たまたま旅先で訪れた異邦のローカルフロアの初見の相手との間でも起こります。

祈る手
from Wikimedia.org

これが起こるのはおそらく両者が曲のイントロに反応しているからなのでしょう。 つまり、ある種の「ドレミファドン」でそのトラックが自分の好きな曲だと認識し、 その曲を踊れる誰かをフロアを見回して探していると、 相手もまさに同じことをしていて視線がぶつかる。 この反応の時間がだいたい同じ人同士だとぴったりタイミングが合う訳です。 同じ曲に同じような反応をした者という同好の気分もあって、 ダンスの始まりがとてもスムースかつ気持ちよくスタートできるのです。

1曲のパートナダンスがよいものであるための条件は 様々な因子が複雑に絡みあって一筋縄ではいかないのですが、 このスムースなパートナアップというのは数少ない必須条件のひとつかもしれません。 通常のダンスなら平歌の間中かけて調整しなければならない お互いのエナジィレヴェルやコネクションが、 ダンスに入る一瞬で出来上がってしまうのですから。 本サイトではお互いが誘ったのか誘われたのか分からない、 一言も交わさずに一瞬でダンスの合意が形成されるようなこのカベセオを、 「遭遇」と呼んでいます。

古い食卓作法が神への供物を下げ頂く神事の形式を反映していたように、 お互いが気持ちよくパートナアップするためとされるカベセオには、 どこか亀卜や星見が時の到来を告げるように、 「遭遇」を引き出すもっと古い呪力があるようにも感じられます。

ところで、リードがフォローを誘うべし、 というのはダンスを通じてリードがイニシアティヴを独占しつづけることへの 無邪気な肯定です。 スタイルやタイミングやフィギュアを決定するのはリードであり、 パートナアップもリードが率先して行うべしというやや古いアイデアは、 伝統的なジェンダロールとして男性がリードで女性がフォローという観念と通じた、 無自覚なマチスモの反映であると指摘できるでしょう。

ところが、この「遭遇」の場合、 どちらに主導権があるのか最初から決定不可能です。 ふたりの間のやり取りでダンスが成立したというよりも、 どこか別のところからダンスが立ち上がってきたという感じで、 まったくリードとしてもコントロールしている感覚がないのです。 こういうダンスの場合、リード・アンド・フォローは 「アンド・ドリヴン」 (過去の記事 を参照) な感覚に近付き、 文法破壊の謗りを恐れずにいえば 「アンド・フォロー・リード」とでも呼びたくなるような パートナワークが成立してきます。

この「遭遇」から始まるダンスでは、 リードとフォローの関係は支配・服従関係ではなく、 より高次の法としての「アンド」に従う同僚関係である、 そう感じる1曲を踊れる可能性が開かれてくるように感じるのです。

このことは、パートナダンスはジェンダロールの固定化を促進するのでけしからん、 というよく知られたイデオロジカルな批判に対する パートナダンサからの応答のひとつのヴァージョンになるかもしれません。

明日に続きます!

posted at: 2022-12-20 (Tue) 12:00 +0900