不完全なカベセオを
フロアは多くの人が共有する場所ですから一定のマナーは必要です。 とはいえ、それがルールとしてではなくマナーとしてしか定義できないのは、 ダンスフロアへの関心や目的もバックグラウンドも人によって全くバラバラだからです。 言葉が通じることを前提にできないダンスフロアにおいて、 意味には力がなく、形式だけが人々を結びつけます。
ですからパートナアップの方法としてのカベセオは優れたオススメの方法ではありますが、 メレンゲ・サルサ界隈で強制できるものではないし、 タンゴのように定着することもきっとないだろうと考えています。
というのもカリブ海的音楽・ダンス文化の持つ突き抜けた素頓狂、 素頓狂が失礼ならば確信的な混沌指向、はカベセオと上手くマッチしないからです。 カベセオはスマートでちょっと気取ったパートナアップ方法ですから、 もっと直接的なアプローチの方が手っ取り早いと考える「ラテン的」な 気分の強い人々が採用することはないでしょう。 フロアの「鳶」がいなくなることもなく、 後ろから肩を叩かれることがなくなることもありません。
とはいえ、カベセオだけで成立する無菌室的なダンスフロアを望む必要もまたないのです。 純粋さや完全とはどうにも相容れないのがカリブ海ダンスのコミュニティですから、 カベセオを理解し、用いる人の割合がもう少し増えればよい、 そのくらいの構えで充分ではないでしょうか。 カベセオ受けを希求するダンサにとっても、 ときには後ろから肩を叩かれることを覚悟しておかねばなりません。
実際、カベセオは人に教えられずとも 音楽への反応として自然に発動されるものだということは先にも議論しましたが、 知識としてのカベセオを普及することよりも、 敬意を持って音楽を聴くダンサが増えれば 自然にカベセオの機会は増えるのかもしれません。 カベセオを薦める立場としては変な言い方ですが、 不完全なカベセオ空間こそメレンゲ的・サルサ的といえるのではないでしょうか。
大事なことはフロアの多様性を包摂することであり、 混沌と多重性を許容することを皆が共有できることだと考えています。
フロアクラフト
さて、パートナアップの手続き以上に大事なマナーがフロアクラフト。 もちろんお互いに怪我をしない・させないという観点でとても大事ですが、 これはマナーの範疇であると同時に技術的な問題も大きく影響します。 コネクションの扱いが一定水準を越える者同士のペアで踊っている場合だと、 あえて "threading the needle" を楽しむようなケースもあるのですが、 どちらかあるいは両方が初心者や初級者の場合、 不可避的に周囲との接触が増えてしまいます。 しかも本人たちはダンスに必死ですからほとんど周りへの影響に気付いていません。 一方、フロアクラフトについては上級者を自認する人やインストラクタの中にも なかなかひどい人があり、すべての人の問題と考えるべきでしょう。
技量が未熟なペアが隣にいたら別の場所に移動してあげるとか、 縦のラインが揃っているときは横を少しずらしてあげるということは、 ある程度踊れるリードならコントロールすることは可能です。 隣接するペア同士の即興的な合意でスペースの融通があったり、 スロット方向を転換したりする場合もあります。 お互いに少しずつ譲り合えばほとんど問題にはならないはずなのですが、 自分のことで精一杯の人はまったく周りを見ることがありません。
周りに配慮して小さく踊ると余計にスペースを侵食されるので 狭いときほど大きく踊る、という人もいます。 ぶつかったことにも足を踏んだことにも気付かない人もいます。 相手はむっとして呼吸が乱れますが、 当人たちには支障がありません。
踊っていなくても平気で人の正面に立てる人が見ている世界も、 満員電車のようなフロアにさらに割って入って踊ろうとする人が見ている世界も、 はたまた絶対にぶつけない・ぶつからないと慎重になっている人が見ている世界も、 どんなに混んでいても派手な乱舞を止められない人が見ている世界も、 それらは同じダンスフロアであり、 同時にそれぞれ異なったダンスフロアでもあります。
新鮮な食卓作法
フロアはひとつではなく、 無数の風景であり、 数十人が共有するフロアは一晩の間に千通り万通りのリアリティを見せます。 その秩序はルールを作って縛れるものではなく、 そのときそのときに立ち上がる「即興的な形式」、 ダンスフロアの「食卓作法」の律するところに任せるべきでしょう。 そういえば、意味よりも形式の方が重視されるのは 宮中舞踊以来のソーシャルダンスの「デントウ」なのでした。
自分と異なる景色を見ている人やマナー違反者を締め出して 独善的なルールと意味領域に引き込もることは 一見快適な同質空間を作るようにみえますが、 結果的に、 メレンゲやサルサが本質的に抱える混沌と素頓狂と諧謔への通路をも閉ざすことになり、 パートナダンスを単なる暇潰しや趣味的運動の次元に貶めることにしかなりません。
複数の時空が内在するダンスフロアだからこそ 均質化された日常を相対化する思考の拠点になりうるのだし、 動きまわる反意味が充満するフロアに接続して放電するからこそ、 日々の現実を生き抜くための新しいエナジィを充電することも可能なのでした。
既に神話時代の食卓作法から切れてしまっている多くの近代人にとって、 ダンスフロアが魅力的なのはそれが混在郷(ヘテロトピア) である限りにおいてであり、 苦味や酸味もまた美味しい料理に欠かせないサボールであって、 甘美な「遭遇」には苦く酸っぱいソースが沿えられているものであることを 肝に銘じておくべきでしょう。
そもそもソーシャルダンスは、 お互いに異なるスタイル・技量・モティヴェーションのフォローとリードが、 ふたりのコネクションを作る中間地点を探り合う模索のプロセスです。 その混ざり方の技法をパートナ間に拡大したものがフロアクアフトであり、 パーティ全体に拡大すればダンスフロアの食卓作法になるのでした。
味のない香りもしない「意味」から離れ、 美味しい無時間を味わうのがパートナダンスの醍醐味。 ダンスフロアでダンサたちが一生懸命やっていることの実際というのは、 反意味のご馳走を食べるために必要な「形式」的なマナー、 個々の利害調整を越えたところで 時の到来を占うための食卓作法の再構築に過ぎないのかもしれません。
明日はまた別のテーマです!