上書きされる名前
意図的に名前を隠すとか名前を捨てるということとは別に、 幾重にも上書きされた結果の無名という場合があります。 その例を「トールの樫」という小話にみてみましょう。
8世紀頃の話、現在のドイツのガイスマー村というところに立派な樫の大樹があり、 トールという雷の神に捧げられて祭られていました。 この頃のヨーロッパではまだアニミスティックな信仰を持つ人が多くおり、 高い樹には雷が落ちることから、 この巨木がトール崇拝の対象となっていたのですね。

そこへキリスト教の宣教にやってきた聖ボニファティウスは、 「トールよ、我に雷を落としてみせよ」 と叫んでこの神木を伐り倒してしまったのです。 まさにキリスト教による異教の神の討伐ですが、 雷は落ちなかったため、その村の人々はキリスト教に改宗したと言われます。 見事布教を果たした聖ボニファティウスはドイツの守護聖人になりました。
宣教師はこの伐り倒した巨木の跡に礼拝堂を立てました。 すると樫のあった場所からモミの樹が生えてきて、 人々は樫の代わりにこのモミの樹を崇拝するようになります。 これがクリスマスツリーの起源といわれているお話です。
ここで肝腎なのはトールの名が忘れられても、 古い大樹信仰はその形式を変えて残ったということ。
このように古い信仰は新しい教えや権力がやってくると滅ぼされますが、 まったく別のものに置き替わるのではなく、 むしろ、同じ場所が新しい信仰の聖地として上書き使用されます。 たとえば、沖縄や奄美の古い聖地や御嶽は、 神道が入ってくると神社になり、 キリスト教が入ってくると教会になりました。 いまでも複数の宗教の跡が一箇所にあるような場所はたくさん残っています。
ある土地を征服するということは、 その土地の旧来の神を新しい外来の神で上書くこと。 ただ、このとき、すっかり上書きすることはできず、 古いものが何らかの形で習合していくという経緯を辿ります。
チャンゴとトール
カリブ海の宗教にもこうした習合を見ることができます。 キューバで信仰されるサンテリアは、 それ自体ルクーミと呼ばれるヨルバに由来する伝統宗教が 支配階級の宗教であるキリスト教と習合したものです。
サンテリアはその名の由来の通り、 アニミズム的な神々をセイント(聖人)に マッピングして同一視するというユニークな信仰です。 キューバ音楽・ダンスの源泉のひとつでもあり、 ラテンパートナダンスを踊る人には耳馴染もあるこの宗教ですが、 イスパニョーラ島のヴードゥーやブラジルのカンドンブレとも関係して、 ラテンアメリカ全体の民間信仰の世界観をよく反映してます。
興味深いのは、 異なる宗教の神々や聖人を同一視して考えるという発想が、 キリスト教に対してだけでなく他の宗教に対しても行われること。
サンテリアには様々な神が登場しますが、 その中のダンスと音楽の神さまといえばチャンゴ/シャンゴと呼ばれる神です。
ヨルバの神としては残虐な暴君として描かれることが多いチャンゴは、 アメリカではもっと愛らしい神になっています。 太鼓とダンスが得意、博奕好きの嘘つきで、 数多の女神と浮名を流す、 まさにサンテリア界のカサノヴァとでもいうべき神さまですが、 実は雷の神さまでもあるのです。 こうした諸々の性格から、 聖バルバラあるいは聖ヒエロニムスと混同され、 サンテリアの一部ではチャンゴはギリシャ神話のアポロン、 北欧神話ではトールに同一視する考え方もあります。
チャンゴとトールはともに雷の神であるとともに、 短気で喧嘩っ早いキャラクタが似ていますね。

少し参照先を広げてみると、 古代中国の神話にもチャンゴやトールと性格を同じくする神獣を発見することができます。 「夔 Kui」と呼ばれる一本足の水牛の獣ですが、 その革で作った太鼓を雷獣の骨で叩くと 五百里先までその音が響き渡ったという伝説があります。 そして、この太鼓を作ったのは、 後の世の黄老思想で老子と習合して崇められた黄帝その人。 音楽の神にして雷の神、 俗世の権力にも無味無臭な意味の世界にも興味を示さず、 ただ即興的な遊びと五官的快楽を称揚する埒外者の系譜に、 神格化された老子まで接続するのはやりすぎでしょうか。
ほかいびとたち
ところで、古い信仰が新しい信仰に上書きされるとき、 古い神に仕えた神官たちは国を追われて放浪せざるをえません。 彼ら彼女らは新しい社会で身分を持たず、 古い言葉、古い神の名前を伝えて歩きますが、 現行権力との衝突を避けるため、 その伝承は藝術や見せ物のかたちでカモフラージュする必要があります。 この古い語り部たちの扱う藝は、 埒外者として糊口を凌ぐための術でもあり、 多くの人が喜び、面白がる要素も追加される過程で演劇や藝能が成立していきます。
名前を奪われてはいるが、 その名前を使わずに空っぽのフォーマットの中に古い内容を隠し持つ人々。 あちこち接ぎ木され、 不完全な上書き更新を繰り返すうちにもう起源も根っこも分からなくなった無宿人。 言葉も文章も畸形になって、 なお読み違いと改竄と黒塗りで汚染され続ける歴史物語。
文化から切れ、 故郷も家族も持たず、 身分も権力も金もない人々だけが伝えられる名前のない物語は パートナダンスの動機のひとつなのかもしれません。
こうした継ぎ接ぎの文化をまるっと抱えて日常の世界に生きる人々の 表現が「新しい原ダンス」であり、 植民地主義と奴隷制と独裁制の酷薄の中から生まれた アフロ=カリビアン音楽がパートナダンスとして踊られる奇蹟を思うとき、 確かにこの無意味の楽園には、 チャンゴとトールと名なきほかいびとたちの精神が織り込まれていると確信できます。
無名のフロア
一本足の幻獣・夔が聖バーバラにグランデをかけ、 チャンゴとトールが放電しながらメレンゲを踊っている隣で、 老子がアメノウズメに手を引かれてバチャータを踊る姿を想像してみる。 あまりのカオスぶりが痛快で、すがすがしい気持ちになりませんか。
こんなフロア、馬鹿馬鹿しくて名付けようがありませんね。 ダンサの無意識の知性が「名前」を徹底的に遠ざけているのは、 フロアの地下から深海まで通じるこの無名の楽園への共感からかもしれません。 あるいは神々と踊ることから隔絶された現代人にも、 ほかいびとや愚者として踊る希求はまだ残されています。 無名のフロアでは、無名の人たちが、 無名のスタイルと無名のパタンを味わいたっぷりに踊るでしょう。
それは高貴と粗野、右と左、夢幻と浮世、白と黒、西と東、 賢者と愚者、北と南、ダンディと隠者、 男性と女性、大と小、川上と川下、あらゆる二項対立が入り交じった混沌のフロア。 区別が溶け、名前は消え、エナジィのフローと歓喜と快楽だけが充満する時空間。 リードとフォロー、音楽とフロアの間のエナジィの循環と共振の全てを溶かした ダンスの根本原理を老子にならって「タオ」あるいは「グランデ」と呼ぶならば、 フロアに立って音楽やヴァイブスや他者と和光同塵に踊ることは、 まさにメレンゲ的・サルサ的なヘテロトピアの快哉です。
Advent Calendar 2022 はここまで! 2023年もメレンゲパニックをどうぞよろしくお願いします。 よい年を!