コロンブス以後
まずごく簡単にコロンブス以降のカリブ海の「歴史」をおさらいしてみましょう。
古くはキスケージャあるいはアイティと呼ばれ、 先住民族タイノ人たちが素朴な焼畑農業を営んでいた島にコロンブスたちがやってきたのは、 1492年12月のこと。 黄金探索の目的のもと、彼らスペイン人の征服者たちは、 タイノ人を虐殺し、奴隷化し、欲望のために使用しました。 ヨーロッパから持ち込まれた様々な疫病による死者も多く、 わずかの間に先住民はほとんど絶滅してしまいます。
スペイン人によってエスパニョーラ島と改名されたキスケージャでは当初よく金が採れました。 年2トンもの生産量があったということで、 現地の人を徴用し徹底的に金を搾取しました。
一方、「まれびと」であった白人たちを歓待し、 食べ物や宿を与え、進んで金を提供したというタイノ人たち。 ところがスペイン人にとって彼らは搾取の対象でしかありえませんでした。 タイノの酋長(カシーケ)たちが蜂起するもあえなく失敗、制圧されてしまいます。
Cheo Feliciano の曲で有名なアナカオーナは 酋長の一族に連なる最後のカシーケで、タイノの女王とも呼ばれます。 征服者(コンキスタドール)たちに恭順し、 もてなしの宴を開いていたところをニコラス・デ・オバンドによって惨殺されます。
タイノ人がいなくなって不足した労働力を補うため、 スペイン人はアフリカから大勢の黒人を「輸入」し、 奴隷労働に従事させました。 いわゆる大西洋三角貿易です。 ただし、島での金の産出はそれほど長くは続かなかったため、 征服者たちの関心はより豊潤なメキシコやペルーへと逸れていきます。 以後カリブ海域は大きな開発もなく、 16世紀半ば以降はほとんど放置された状態になりました。
17世紀に入り、この権力の空白や過疎地に侵入してきたのはヨーロッパ諸国、 とりわけ新興のイギリス・フランス・オランダでした。 コロンブス以来、 新世界は教皇子午線によってスペインとポルトガルの2国のみで分割されていましたが、 参入の機会を狙っていた新興国は、次々にスペイン領やポルトガル領をかすめ、 エスパニョーラ島の西側もフランスの海賊や私掠船によって実質的に占拠されてしまいます。 ついに1697年には大同盟戦争の講和条約でこの占拠状態がスペイン側にも公認され、 サン=ドマングとしてフランスに割譲されました。 これが現在のハイチにあたるエリアです。
エスパニョーラ島はカリブ海支配の要衝であり、 スペインにとって重要な拠点なはずでしたが、 既に分別も防衛力も欠いていたスペインはこれを許してしまいました。
こうして、18世紀になる頃にはカリブ海のスペイン領はキューバ、プエルト・リコ、 エスパニョーラ島東部(サント=ドミンゴ)だけになってしまいました。 これが今のカリブ海におけるサルサの版図にちょうど重なっていますね。
ちなみにこのとき、新しく手に入れた植民地の人口を増やしたいフランス本国は 現地の男たちの配偶者要員として本国から白人女性を送ります。 ただ、彼女たちは当時世界最大の病院だった サルペトリエール病院に収容されていた娼婦たちでした。 彼女たちが持ってくる病気を恐れた男たちは、 違法と知りつつも奴隷女を妻に選んだといいます。
かように荒んでいた当時のサン=ドマングでしたが、 ナントの勅令以来、本国で没落しかけていたフランスの貴族たちにとって、 新世界での成功は一発逆転の夢であり、多くのブルジョア階級がやってきたことで、 一気に文化的な洗練が進みました。 今も昔も植民地における文化というのは 支配階級に追従してわずかの間に劇的に変化します。
ダンサ・フランセサ
フランス本国風のブルジョア趣味は食事・音楽・ファッション・印刷をはじめ、 生活全般に至るまで浸透していきます。 18世紀を通じて展開されたサトウキビ・プランテーションは成功し、 白人たちに多くの富をもたらしました。 まさにサン=ドマングが「カリブの真珠」となった時代です。 この時代以降、エスパニョーラ島では西側の方が遥かに文明的に発展していきます。 今では信じられませんが、 この頃のサント=ドミンゴやハバナはカプ(ハイチ北部の街) に比べればまったくの田舎でした。
ところで、ダンスの文脈で重要なのは、 この流れの中で現在のサルサの祖先のひとつであるコントルダンスが持ち込まれたこと。 パートナダンスという近代ヨーロッパにしか誕生しなかったダンスの形式が、 カリブ海にやってきた瞬間でした。
コントルダンスはもともとイギリスのカントリィ・ダンス、すなわち田園舞踊のことで、 17世紀のヨーロッパ全土で大流行したダンスです。 一種のフォーメーションダンスで、 決められたコレオを数組のペアのグループで踊ります。 1651年には教則本が出版されており、 有名なバロックダンスの教則本フイエ本も1700年の出版ですから この頃にはヨーロッパの上流階級ではパートナダンスが一般的な認知度を得ていたといえます。
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