革命と挫折
さて、18世紀は反抗の世紀でした。 農場から逃亡した奴隷(マルーン)たちは山に籠もり、 白人たちへの攻撃を展開。 フランス革命から2年後の1791年8月14日、 カイマン森に集まった黒人たちはマンボ(ブードゥーにおける女性のシャーマン) を中心に儀式を行い、 黒豚の犠牲を捧げて蜂起の成功を祈りました。 ブークマン、ピアッソン、ジャン=フランソワらが指導して戦いが始まります。
ちなみに、ブードゥーの女性シャーマンを表す「マンボ」 という語はメレンゲやサルサでもよく使われる多義語です。 多くのサルサダンサにとってはニューヨークで踊られる on2 スタイルのダンスのことであり、 音楽ジャンル名としてはニューヨークで流行した Machito や Tito Puente らのマンボと、 世界的にヒットを飛ばした Pérez Prado のマンボがあります。 さらにサルサやメレンゲのホーンセクションの掛け合いの部分も「マンボ」と呼ばれます。 なぜブードゥーの女性シャーマンを表す言葉が 音楽やダンスの用語として残っているのか。 この問いにはあとでまた帰ってくることにしましょう。
ともあれ、この蜂起は成功し、1804年にハイチは独立を果たします。 人類史上初の黒人共和国の誕生、 そして人類史上で唯一の成功した奴隷革命でもありました。 おそらくこれがエスパニョーラ島の「歴史」における頂点の瞬間です。
ただ、ここから先の島の政治は混乱を極めます。 戦いの中で捕えられたトゥーサン・ルヴェルチュールはフランスで獄中死し、 デサリーヌはかつての仲間に殺され、 国王となったクリストフは自殺します。 その後、何人かの大統領が暗殺され、 10を超える革命が起こり、 いくつかの王国が建国されたり倒されたりし、 隣国であるドミニカと戦争したり、合州国に占領されたりしました。 20世紀以降も独裁者が秘密警察を作り、 軍事クーデタが続き、 大地震の被害を受けたり、 大統領が暗殺されたりして、 アメリカで最も貧しい国になっています。
島のもう一方、東側のサント=ドミンゴはハイチと戦った後、 独立し、 再びスペインに占領を懇願し、 また独立し、 いくつかの独裁と占領を経験し、 ようやく民主的な政権が出来たと思ったら合州国に転覆させられ、 再び独裁の中で貧困に喘ぐことになりました。
どうしてこうなるのか、何がまずいのか。 どれだけ血を流しても希求しても平和や安定や循環する経済は手に入らないのか。
キューバ音楽の源泉
さて、ハイチ革命はエスパニョーラ島北部からキューバの東側への 大量の亡命者を生みだしました。 白人たちや奴隷たちがフランス・ブルジョア風の文化と共にキューバにやってきます。 キューバもエスパニョーラ島と同様にスペインの植民地でしたが、 金鉱を掘り尽くした後はあまり大きくは開発されていませんでした。 ここでハイチ由来のコントルダンスとソンが融合し、 コントラダンサ、すなわちダンサ・ハバネーラが誕生します。 これがキューバ音楽にとって決定的な出来事となりました。
ハバネーラのリズムといえばバチャータのベースのリズム。 ターンタタンタン・ターンタタンタンですね。 このリズムはクラーベのフィールを多分に含んでいることが理解できると思います。 これはバチャータのみならず、 キューバ島やエスパニョーラ島の様々な音楽のエッセンスとなっていきます。
余談ですが、 アルゼンチンの音楽であるタンゴもこのハバネーラのリズムが原型です。 ハバネーラの変化であるシンコパと フォービートの変化であるジュンバがモダンなタンゴのリズムで、 カリブ海音楽だけでなく広くラテン世界の音楽とも関係するのは、 やはりクラーベというリズムがあらゆるアフロ由来の音楽の奥底に 必ず流れているということの証左でもあります。
ともあれ、このダンサ・ハバネーラはキューバでは単にダンサと呼ばれ、 のちの様々なジャンルに展開していきます。 ダンサからダンソンが生まれ、ダンソンチャ、チャチャになる系譜は、 まさにハイチ経由のフランス貴族趣味を伴った優雅な音楽となりました。
明日に続きます!