Merengue Panic



Advent Calendar 2023 8日目の記事

500年後のメレンゲ(4)

コロンブス以来激動の時を生きてきたカリブ海の人々。 島々の物語はメレンゲやサルサの音楽=ダンスとどう関係するのか。 過去でも未来でもなく「今」をしたたかに歌い踊ってきた カリブ海の人々の驚くべき人間力の一端を見ていきます。 4回シリーズの4話目!

パートナダンスの夢幻

さて、サルサやメレンゲのパートナダンスは5分間のアクティヴィティですが、 踊っている人にとってどのような時間といえるでしょうか。

コール・アンド・レスポンスとポリリズムを2大特長とするアフロ由来の音楽は、 1曲を延々と演奏し続けることができます。 そのために必要な能力が「近未来の音を同時に感じる力」です。 過去の膨大なリスニングの成果として、 近未来の音を現在の音と同時に聴き、 近未来のパートナの動きを数拍前に感じることができる能力です。 これがある一定水準まで身に付いた人はその流れをストレートに使う方法でも、 あえて裏切る方法でも曲を展開していくことができ、 自由に即興的にパフォーマンスできるのです。

この能力を獲得するには繰り返し音楽を聴くことと、 繰り返し即興的なパフォーマンスを実践することが必要です。 いわゆる「100曲を知れば10,000曲踊れる」という箴言ですね。

これが機械学習によるパタン認識や線形予測などと異なるのは、 考慮する必要がない動きを体得していく学習だという点です。 つまり、未来の可能性を予測するのための学習ではなく、 未来の不可能性を判断するための学習だということ。 どうなるかは分からないが、 こうならないことは分かっているので考える手間が省けるようになる、 そういう感覚といえるでしょうか。

例えば大規模言語モデルの学習には数千億語もの例文が必要で、 その計算は総あたりを回避するテクニックを駆使しても膨大な計算量を必要とするのに対し、 音楽やダンスのフィールを人間が理解し、 感覚的に表現できるようになるまでに必要な情報量はそれほど大量ではありません。 これは外部から入力される情報以上に身体の中に既にそうしたフィールを解釈できる 既存の暗黙知がなんらかの形で刻まれていることを示唆します。

sun sun
sun sun / © Charles J. Sharp (CC BY-SA 4.0)

赤子が母語を習得するのに必要な情報量がごく少なくて済むのは、 身体そのものの構造の中に最初から言語のエッセンスが刻まれてるからです。 チョムスキーならそれを「言語獲得装置」と呼ぶでしょうし、 イエイツなら「前世の記憶」 と呼ぶかもしれません。

すなわち、「ザマニ」として「音楽/ダンス獲得装置」 が人間の身体の形状のどこかに保持されているということ。 もし、完全に白紙の状態から学習するのだとすれば、 クラーベのフィールやパートナワークの流れを理解するのは至難の技といえるでしょう。

ここにラテンダンスへの動機のひとつを見出すことができないでしょうか。 カリブ海の混血児たちのみならず、 広く近代人が失ってしまったはずの「ザマニ」の痕跡が確かに身体の内部にあること。 これを確認する作業がラテン音楽でありラテンパートナダンスなのです。 それは流れていないはずのラテンの血を体内に感じる儀式といえるかもしれません。 ダンスのトレーニングは身体への信頼を取り戻す過程そのものです。

サルサやメレンゲをパートナと踊るときの最大の快楽は 「一体感」であると多くのダンサがいうとき、 それはただ目の前にいる別の個人との一体感のみではないのかもしれません。 個人主義に徹底的に貫かれた現代人が、 自分たちの身体の奥底に「ザマニ」を感じ、 それとの合一を経験する。 それは時計の時間で5分持続しているということになりますが、 内的な実感としては一瞬のようでもあり永遠のようでもある時間です。 クロノス(時計の時間)ではなくカイロス(夢幻の時間)、 聖なる無時間としてのダンスタイムがあると考えることができます。 フロアで「ザマニ」のメディアとなっているのは 踊っているふたりの身体と音楽の身体です。 さらにダンスが展開しているフロア全体にも「ザマニ」が感じられます。 したがってここでは4つのエージェント、 フォローとリード、音楽とフロアが持つそれぞれの「ザマニ」 が一筋縄ではない関係性の中で反応を起こすのだと考えることができます。 直観力のあるダンサたちはこれを「一体感」と感じているのかもしれません。

人によっては、 この「ザマニ」を通じて大西洋の海の底に投げ込まれたドレクシアの人々と交感することも、 椰子の樹に吊るされたアナカオーナの無念と共振することもできます。 あるいは、 ハーレムの路地裏で不条理に暴力を振るわれるニューヨリカンの記憶や、 井戸に毒を入れつづけたマッカンダルの記憶が呼び出されることもあるかもしれません。

タマフリとしてのダンス

歴史的に世界を把握するのではなく神話的知性によって共鳴しなおすこと。 土地から引き離され、古い言葉も忘れて全くの根無し草になってしまったとき、 自らの身体こそ、失った土地との関係や忘れてしまった言葉の痕跡をあちこちに隠した、 「自然の半分」としての「自分」の根拠であり、 その身体の発する響きや触覚を頼りに、 失われた「ザマニ」をツギハギする材料となるのではないか。 大西洋を渡りながら、あるいは奴隷として酷使されるサトウキビ畑でも、 彼らが執拗に踊り続けたのはその内側に秘めた「ザマニ」を活性化させ続けようとする タマフリであったのではないか。

ハイチには「コンビット」と呼ばれるダンスを伴った共同農耕のリズムがあり、 これが仕事の効率を高めたので統治者たちは許してきたという経緯があります。 音楽やダンスは言語以前のコミュニケーションの手段であり、 根(ルーツ)を失ったかれらの経路(ルーツ)を刻んだ記憶装置でもあったはずです。 その情報は簡単には取り出せませんし、 論理の言葉に翻訳することは困難ですが、それでも彼らの経路を確かに伝える、 神話的メディアとして機能しています。

近代化の中で失われた「ザマニ」を求めてダンスを踊るという場合、 何かを身に付けるというよりも「ザマニ」 への回路を遮断している夾雑物を払い落とすトレーニングが必要ということになるでしょう。 速く動くことよりはゆっくり動くための、 意識するよりはしないための、 付け加えるよりは捨て去るための技術。 サルサやメレンゲで大切にされる「一回性」「即興性」「創造性」は、 確かに誰の中にも刻まれた「ザマニ」ではあるのですが、 それを磨き出すためにはある程度の身体的な稽古が必要ということです。

もっといえば、この稽古は同時に癒やしでもある。 「生の虚無」とか「退屈な人生」 といった未来にだけ依存している近代の病に対する治療としてのダンス。 そういえばアフリカでは(ハイチでも)音楽やダンスは医療行為なのでした。 これは上手くなるために練習するというのとは少し違う態度です。 「明日世界が滅びると分かっていても樹を植える」、 という感覚に近いダンス練習というものがあります。

500年後のメレンゲ

さて、カリブ海の苛烈な「歴史」を共有していない東アジアのダンサにとっても、 この「神話」には共鳴することはできます。 例えば惨殺されたタイノ人の無念、 奴隷船から大西洋に投げ込まれた落伍者たちの怨嗟、 駄目にされ尊厳を破られた奴隷たちの嗚咽、 希望が裏切りに裂かれた革命家たちの憤怒、 これらは近代を生きる人々にとっては誰でも共振できる物語だからです。 同じような構造のもとで同じような抑圧や同じような酷薄が繰り返されていればこそ、 似たように傷つき、似たようにホームレスになり、 似たようなタマフリを求めて踊る人々が世界中にいるのではないでしょうか。

レイシズムもセクシズムも克服できない人類なんて全部サイボーグにしてやろうとか、 メタヴァースと宇宙主義とトランスヒューマニズムこそが人類の未来だ、 と能天気に言挙げする一部の人達に対し、 一回性と地上性と身体性をこそ称揚し、 その拠点となる不具の身体を愛で、揺らし、動かして踊る。 自分の身体を他者に動かされる、という経験は、 独りで踊るのと異なり、 自己の身体の持つ非決定性を確認させるアクティヴィティです。

「ザマニ」がかすかな残り香を漂わせているパーティの時間は、 過去と未来がコンデンスした「いま」を生の実感として感じられる エフェメラルな快楽なのかもしれません。

明日は新しいテーマです!

posted at: 2023-12-08 (Fri) 12:00 +0900