ラテン音楽は歌謡曲
ラテンのダンスナンバは原則的に歌謡曲です。 ラテンジャズやデスカルガのような曲でインストゥルメンタルのものも一定数ありますが、 メレンゲやバチャータだと歌詞がないものはほとんどありません。
歌って踊れるのがラテンダンスの楽曲ということなんですね。 音楽的にもサルサやメレンゲではコロの掛け合いというのが 山場を作る重要な機能を持ちますから、 ほとんどインストの曲でもコロだけは入っている、 というパタンもよくあります。
では実際の歌詞では何が歌われているかというと、 その2大ジャンルは 「リズムがいいゼ楽しいゼ」というパタンと 「ふられて悲しいゼ」というパタン。 つまり、パーティソングとラヴソングです。 8割くらいはこのどちらかにあてはまりますが、ほかのテーマ、 庶民の知恵や人類知に関わる歌や、 政治的・社会的な歌もそれなりに存在します。
もともとソンやルンバやメレンゲのようなジャンルは民衆歌謡、 近所の出来事や社会ニュースを伝える吟遊詩人たちの音楽でした。 基本的なフォーマットとしてはラヴソングの中に、 ダブルミーニングやトリプルミーニングで様々な情報が即興的に込められ、 歌われてきた伝統があります。
逆にパーティソングは商業的なラテン音楽のジャンルイメジを作ってきた楽曲群で、 より洗練され、世界中の多くの人に受け入れられやすい歌詞を持つ傾向があります。 ただし、ハッピーゴーラッキーな雰囲気の歌詞の中でも不思議な哲学的表現があったり、 鋭い社会批評が隠されている場合もあってハッとさせられることもあります。 例えば El Gran Combo の代表曲のひとつ "Sin Salsa No Hay Paraiso" では次のように歌われています。
皆さん、私はサルセーロです
うちの神さまがそう望み給うたのでサルセーロになりました
クラーベに合わせて歌うように言われました
そして、サボール(味)と共にシチューに入るように言われましたねえ、みんな、サルサを踊るよ
パパが教えてくれたサルサを踊るよ
天まで届くように歌うよ
だってサルサがなけりゃ天国はないのだから天国なんてない
だってサルサがなけりゃ天国はないのだから
もしクラーベがないならシチューもない
だってサルサがなけりゃ天国はないのだから(抄訳)
いろんな解釈ができる歌詞だとは思いますが、 まず、サルサの頻出語彙として「サボール」を説明しておきましょう。 サボールとは直訳すれば「味」のこと。 サルサはもともとソースという意味でしたね。 したがって「サルサの味」というのはそのサルサの楽曲がもつフィールのメタファで、 甘いサルサや酸っぱいサルサがあるということです。 味がいいサルサ、 つまり「サルサ・コン・サボール」というのは決まった表現で、 端的にいえば「美味しいサルサ」という意味です。
ここではサボールの本来の意味である「味」から、 「シチュー」が呼び出されている訳ですね。 美味しい食べ物の象徴であり、 ラテン世界の庶民にはなかなか満足に供給されないものでもあります。
さて、この歌詞には信心があるのかないのかよく分からないところがあります。 神さまの思し召しでサルセーロになったといっておきながら、 天国なんかない、と断定している根拠が「サルサがなけりゃ天国はないのだから」 という確信だけなのです。 これ自体はサルサへの信仰告白だとしても、 天の上まで届くように歌ってあげないといけない、 といっているのだとするとこれは天国にはサルサがないということになり、 結局、天国なんて存在しないと主張しているようにも読めます。 この場合はなかなか衝撃的な歌詞ですね。
そもそも天国というのは安寧の場所、 涅槃の境地であって昂奮したり踊り出したりするような場所なのか、 という問題があります。 地上世界で経済的な充足も平和も政治的安定もなく、 およそ「幸せ」から隔離された貧しいラテン世界に生きる人々にとって、 音楽やダンスは刹那的快楽を求める活動です。 決して手に入れられない天国的幸福あるいは宗教的救済に対して ダンスフロア的快楽を希求することにアフロラテン文化の方向性が感じられるでしょうか。
いずれにしても、このように多面的な読みが可能になるように書かれていますし、 庶民的幸福論の哲学とも読みうる、味わい深い歌詞になっています。 一見、明るく楽しいだけに思える歌詞にもラテン世界の庶民の知恵や 世界に対する見方が反映されていて面白いですね。
意味不明の言葉たち
このように深い歌詞がさらっと歌われているケースも多いサルサやメレンゲですが、 いろんな曲を聴いているとなんだか意味不明な歌詞が多いことにも気付きます。
例えば Celia Cruz がいつも叫んでいる "Azucar" とは普通の意味では「砂糖」ですが、 なぜ彼女は砂糖、砂糖と連呼しているのか。 "Quimbara" や "Cucala" といった有名曲のタイトルも意味が分かりません。 "sun sun babae" とは何なのか、 Luis Guerra がラテングラミー賞をとったバチャータ曲 "Kitipun" とはどういう意味か。 鬼才メレンゲーロ Toño Rosario の曲 "Kulikitaca" は何を叫んでいるのか。
こうしたほとんど字引に載っていない単語や用法が多用されるのがラテン音楽の歌詞。 こうした不可解な表現が頻出するのは、 ひとつにはこれらが単なるスペイン語ではなく、クレオールやアフリカ由来の語彙、 またタイノ語といった複雑な言語的な混淆を背景としているため、 そして詩的な修辞や表現になっているため、 あるいは政治的・文化的・宗教的にハイコンテクストな表現やジャーゴンが 使用されているためなどと考えられます。
ただでさえスペイン語でも理解が難しい日本語話者のサルセーロとして、 こうした意味が理解できない歌詞とどう向き合えばよいでしょうか。
明日に続きます!