Merengue Panic



Advent Calendar 2023 10日目の記事

ハナモゲラサルサ(2)

サルサやメレンゲを聴いていると、 意味不明で不思議な表現がよく出てくることに気付きます。 これは何なのか。 その意味にこだわるよりも音に戻して共鳴してみようとすると 違った歌詞世界との向き合い方があるかもしれませんよ。 4回シリーズの2話目!

意味のないコロ

サルサ・メレンゲには 英語で歌われる曲もそれなりの数ありますし、 他の言語で歌われるものもあります。 ただ、圧倒的大多数の楽曲は今も昔もスペイン語ですね。

とはいえ、70年代の時点でさえ、 ニューヨークあたりのサルサミュージシャンの多くは2世・3世でしたし、 スペイン語よりも英語を母語としているケースも多かったでしょう。 そして90年台後半以降のダンスシーンでラテン音楽を消費している人は世界中に拡がっており、 スペイン語を解さない人の方が圧倒的に多数派です。 ラテン音楽はその混淆性ゆえに平気でどんな場所へも浸透していき、 それぞれの地で独自のローカライゼーションが誕生しています。

こうしてみると、 トランスカルチャとしてのラテン音楽は、 必ずしもスペイン語で歌われる理由はさしてないように思えるのですが 世界中のサルサバンドは現在でも主にスペイン語で歌い続けています。 普通に考えれば英語で歌った方が伝達力はありますし、 ビジネス上のメリットも大きいはずですが、なかなかそうはしない。 ちょっと Tito Nieves が英語で歌ったら、 "Tito 'I always love you' Nieves" などと揶揄される雰囲気さえある。

加えて、ラテン音楽の歌詞には、 ジャーゴンや修辞的ダブルミーニング・宗教的モティーフなどが多用されますから、 結果的に伝わりやすさや分かりやすさをわざと排除しているようにさえ見える。 不思議ですね。 でもラテン音楽にとって意味から降りる態度、 というのは何か大事なことのようです。 とりわけ曲中何度も繰り返される歌詞の中心はコロのフレーズですが、 チンプンカンプンなものがとても多い。

nonsense resonates
nonsense resonates

先にも挙げたように例えば最も有名なサルサの曲である "Quimbara" ですが、 これはどういう意味でしょうか。 "Cucala" も "Kitipun" も "Kulikitaka" も訳が分かりません。 ただし、こうした語彙が曲中でリフレインされると耳に心地良く魅惑的に響き、 つい一緒に叫びたくなる力を持っていることはすぐに共感できるでしょう。

つまり、ここで確認しておくべきはことばの意味はそれほど重要ではない、 ということなんですね。

極端にいえば歌っている本人だってスペイン語ネイティヴだって理解できないんです。 そう、 "Quimbara" とか "Kulikitaka" の「意味」は誰にも理解できない。 むしろ、理解できないことばであるからこそ訴求力がある。 場合によってはタイノ語由来だとかルクーミィ由来の語源があるものもありますが、 それにしたって歌っている本人にとっても違和感のある言語です。

ついスペイン語を解さない我々には歌詞の意味が理解できないのだ、 と考えてしまいますが、そういうことではないんです。 もちろん、複雑な修辞やダブルミーニングの謎解きには ローカルなレアリアともいうべき知識や文脈も必要ですが、 それよりも意図的に仕込まれた言語的な攪乱や過剰や無意味化がある、 ということが肝腎です。 どうしてそうなるのか。

ラテン音楽において意味の次元で解釈することが困難なことばが多用される理由を 「ハナモゲラ」 という観点から考えてみましょう。

ハナモゲラ運動

ハナモゲラとは1970年代後半に山下洋輔トリオ関連人脈を中心に流行した言葉遊びです。 ハナモゲラとは何かを定義すること自体がハナモゲラ研究の重要な議論のひとつですから、 厳密にいうのは難しいのですが、 ここではごく単純に、辞書的に意味を定義して解することのできない遊び言葉、 くらいにしておきましょう。

ハナモゲラの先駆例としてしばしば引かれる 「みじかびの きゃぷりてぃとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ」 は有名ですね。 大橋巨泉がコマーシャルで詠んだこのハナモゲラ和歌によって パイロットの万年筆が爆発的に売れたといいます。 これだけでもハナモゲラには経済的なあるいは社会的な力があることが確認できます。 全く何の意味も力もないということではありません。

ただ、一応断わっておくべきは、 ハナモゲラ運動の中心人物たちにとっても ハナモゲラに意味があるのかどうかの解釈はそれぞれ違うということ。 文脈や場合によっても捉え方に差があるようです。 単に通用範囲が極端に限定された社会言語をハナモゲラと呼ぶ人もいるし、 客観的な意味が生じた時点でそれをハナモゲラから除外するような厳密な定義もあるようです。 劇画作家の岡崎英生は後者の立場で、 「ハナモゲラ語には、自らが網の目となって覆うべき世界が欠けているのだ。 ハナモゲラ語は、何ものも意味しない、透明な、意味から独立した言語なのである。」 と明瞭に定義しています。

言語が意味を作り出す仕組みは複雑ですが、 意図的に意味のない言葉を作る方法にはいくつかのやり方があります。

まずは、ハナモゲラ和歌の名手、山章太こと小山彰太が体系的に技法化したように、 既存言語の語彙や統語や範列関係を変形・転回・置換・移行して 破壊していくという手法。 例えばことばをぐにゃりと歪ませる「ひしゃげんの法」や、 音節を転回する「てんごろんの法」などが挙げられています。

あるいは初期の筒井康隆がインドネシア語の料理名を用いたように、 耳馴染みの薄い外国語の単語を借用する方法。 SF 作家として地球外言語を創作する際に活用したそうです。

この両者の方法は机の前で時間をかけて創作する方法ですが、 逆にリアルタイムで生成する場合の最も極端なやり方が 異言やお筆先のような宗教的恍惚状態でのうわごとを音声言語化する方法です。 これは原ハナモゲラともいえるプリミティヴなものですが、 神懸かりは誰にでも真似できる術ではありません。

おそらく最も一般的で汎用性が高いのは、 フリージャズの演奏やスキャットのように、 即興性・一回性・偶発性・身体性を頼りに、 意識と無意識とをランダムに混ぜながら音声を紡ぐ方法です。 この方法ならパフォーマティヴに生成できるし、 訓練と経験によってその質をどんどん高めていくこともできます。

そもそもハナモゲラがフリージャズの界隈から登場していること、 その起源はサッチモやフィッツジェラルドが得意とした スキャットの技法によることを考えても、 スウィングジャズ時代の黒人ヴォーカルの身体性に依存していることが示唆されます。

さて、ようやくこの辺りでラテン音楽のハナモゲラ性というテーマが見えてきましたね。 ハナモゲラ的なコロが多用されるということはラテン音楽は、 先行するジャズと同様、 ハナモゲラ的指向性を持つということです。 ですから、意味不明なコロを聴くとき、 我々はまさにそれをスペイン語の歌詞としてではなく、 国際補助語ならぬ万国共通ハナモゲラとして理解することが出来るのです。

そしてサルサやメレンゲが単一言語の枠を超え、 ハナモゲラを指向するということを突き詰めて考えてみると、 パートナダンスによるコミュニケーションが、 実はハナモゲラ的性格を持つことが明らかにできるかもしれません。

明日に続きます!

posted at: 2023-12-10 (Sun) 12:00 +0900