Merengue Panic



Advent Calendar 2023 11日目の記事

ハナモゲラサルサ(3)

サルサやメレンゲを聴いていると、 意味不明で不思議な表現がよく出てくることに気付きます。 これは何なのか。 その意味にこだわるよりも音に戻して共鳴してみようとすると 違った歌詞世界との向き合い方があるかもしれませんよ。 4回シリーズの3話目!

溶け出す意味

「スペイン語」で歌いながらスペイン語ならざるハナモゲラをその中心に据える、 これがサルサやメレンゲの歌詞の特徴です。 しかも、必ずしも歌っている人にとって「ネイティヴ」でなくとも 「スペイン語」で歌うことが選択されるということ。

ヴィレッジ・ヴォイスの記者だった Pablo Guzmán は次のようにこの心性を説明しています。

ニューヨークの冬はいまだ寒い。 ラティーノたちはいまだ三等市民だ。 プエルトリコはいまだ植民地のままである。 そうであればこそ、 裕福な資本家やメディアの連中がその露出を邪魔していても、 サルサは死なない。 サルサは俺たちを暖めてくれる。 そしてソウルやカントリィやロックやジャズと同じように、 サルサは、 アメリカ大陸に生きる偉大なクソ野郎たちのための音楽のひとつなんだ。

("¡Siemple Salsa!", The Village Voice, 1979)

Guzmán は1950年ブロンクス生まれ、 プエルトリコ系とキューバ系のルーツを持ちます。 バリオの中心でニューヨリカン文化の最盛期とその凋落を目の当たりにした世代でした。 これは彼が1979年に書いた文章ですが、 ちょうど熱狂的なファニアブームが去って、 ニューヨークがサルサを忘れてしまいつつある頃です。 このサルサに対する信仰告白ともいえることばに彼らが「ラティーノ」として、 プライドを持って「三等市民」を生きる決意を感じます。 上層言語であり、裕福な金持ちたちのことばである英語には染まり切らないのだという意志。

Pablo Guzmán
Pablo Guzmán / from Twitter of Pablo Guzmán

2世世代は家庭内ではスペイン語、 学校や外ではどちらかといえば英語という生活ですから、 実際にはどっちの言語が得意かというと一概にはいえません。 しかも「スペイン語」だって植民地主義の帰結としての混血言語ですから、 自らのルーツを支える「先祖代々の純正の言語」などという幻想からは最初から切れています。

60年代にマンボブームを置き替えるようにブーガルーが流行ったのは「スペイン語」 という基層言語ではなく、より「クールな」英語で歌われる音楽・ダンスだったからでした。 バリオのある者は自分のラティーノ性をできるだけ棄てて 「アメリカ人」にならんと努力し、 別の者は自らのラティーノ性を深く自覚し刻み込むことで生きる力としました。

スペイン語からハナモゲラ語へと意味が溶解していくのは、 なんとか彼ら自身の言語を作ろうとする無意識が働いてのことといえるかもしれません。 ジャズ界隈でもそうですが、ミュージシャンはジャーゴンを多用します。 そもそも「ジャズ」や「サルサ」ということば自体がまったくハナモゲラ語なのです。 意味が分かりません。 「メレンゲ」だって「バチャータ」だって「パチャンガ」だって、 意味のよく分からない名称です。

例えばサルサの語源を考えても、 それはいくつもの悪ふざけと諧謔と意味の横滑りの結果であり、偶然の産物でした。 アフロ=カリビアン由来の音楽の総称として「サルサ」という語が選択されていること自体に、 ハナモゲラ的精神を見て取ることができます。

意味を破壊することで「意味」を獲得すること。 何も指し示さない言語こそがすべてを指し示しうることを面白がるのは、 アフロ=アメリカの音楽家たちの皮膚感覚といえるでしょう。

ハナモゲラで歌おう

ここまでの議論で、 我々はサルサやメレンゲを必ずしも「スペイン語」として理解しなければならない、 というドグマから解放されたといっていいでしょうか。 サルサやメレンゲの曲を大声で、カタカナで、ハナモゲラで歌うことができます。 「キンバラキンバラキンバキンバンバン」 「エーマーマー・エ・エーマーマー」 と歌ったところで、 「お前はスペイン語を分かっていない」と怒られる理由はありません。

そもそもサルサのモントゥーノやメレンゲのジャレオというのは コール・アンド・レスポンスの構造になっていますから、 コロを歌う人のパートは意味が分からなくても歌えるのです。 スキャットが肉声の器楽化であるように、 コロは音として声で演奏すればよいのでした。

多くのダンサはこの感覚を直観的に理解しているため、 世界中のどこへいっても、 そのフロアで大合唱になる曲というのがあったりします。 その意味ではコロの歌詞=音が簡単にカタカナ語で拾える曲、 というのはダンスフロアのヘヴィロテ曲になりやすいです。 例えば "Llorara" や "Amor Y Contorl" 、 "Como Yo" などの曲は、 バイラブレであると同時にみんなで歌いたい、という気分を盛り上げてくれます。

実際の歌詞の内容を考えてみると、 例えば "Amor Y Contorl" などはなかなか深刻な内容で、 家出少年などには耳に痛そうでさえあるのですが、 ダンスフロアではこれが問題なく通用します。 ステップを踏んでいるとどこかで歌詞の意味を棚上げにできる感覚があるからでしょうか。 自宅で独り「熟聴」しているときとは全く異なる聴こえ方をするから不思議です。

いずれにしてもダンスを踊ることと歌を歌うこと、 太鼓を叩くことにはある共感覚があります。 アフロ由来の音楽ではこれらは三位一体なのでしたね。

フロアで太鼓を叩くのは周りの迷惑になることが多いので抑制を利かせたいところですが、 歌いながら踊るのは極端に大きな声でなければヴァイブスを上げる効果もあるので、 大いに励行してよかろうと考えます。 このとき、歌詞を歌おうと構えると大変なのですが、 ハナモゲラでよい、と割り切ってしまえば楽しいダンス=歌唱になるはずです。

非言語コミュニケーションであるパートナダンスには、 そもそもハナモゲラ的な要素、つまり内容を欠いた表現としての側面があります。 アンダアームターンやクロスバディ・リードに明示的な意味はありません。 しかし、その連なりの中で何らかの「意味」が共有できる不思議があります。 ダンスがハナモゲラの原型であるとするならば、 パートナダンスはハナモゲラによる会話、 意味の伝達を度外視した交感の回路ということもできます。

そして、さらに遊び心がある人ならここで 「ソラミミ」 のテクニックを上手に導入することもできるでしょう。 というのも「ソラミミ」とは言語間の距離を霊感源としたハナモゲラに他ならないからです。 この場合は出鱈目な日本語の意味がまとわりつくため、 ただのハナモゲラ以上に悪ふざけの度合いが増しますので、 ダンスフロアで実践すると踊りそのものも過剰にコミカルになる点だけは 意識しておきましょう。 それが上手くいく場合もあればそうでない場合もあります。

ちなみに、ソラミミやハナモゲラによって歌詞を楽しむという観点からすると、 スペイン語およびクレオールによって歌われるアフロ=カリビアン音楽というのは 日本語話者にとって優れた素材であることが分かります。 単母音が5つである点やストレスの位置が日本語にマッピングされやすい 音韻構造をしていること、 また、これまで見てきたように、 そもそものオリジナルの意味がハナモゲラ的に溶解していることがあるからです。

この証左として、 ハナモゲラの顔ことタモリのデビューアルバムにしてハナモゲラ運動の嚆矢 『タモリ』には、 キューバン・ポピュラ音楽の代表曲 "Quizás, Quizás, Quizás" のソラミミヴァージョンが収録されています。 すでにこの時点でラテン音楽とソラミミの親和性が意識されていたことが確認できますね。

ハナモゲラの差別性

ところで、ラテン音楽に高度のハナモゲラ性が確認できるということは、 歌詞に関する別の問題を説明するのにも役立ちます。

すなわち、一部のラテン音楽、 とりわけメレンゲやトラップ・ラティーノ、レゲトンなどに特徴的に見られる下品な歌詞、 差別的な歌詞についての問題です。 メレンゲが敬遠される理由のひとつにこの不快感が そのイメジとして共有されているという問題があります。 がらっぱち感あるいは猥雑感が拭えないということですね。

一方で、ハナモゲラ語が差別やポルノと親和性が高い点は 多くの論客によって指摘されるところです。 メレンゲを議論する上で避けては通れないレイシズムやセクシズムの問題を、 ハナモゲラを補助線にすることで考えることができるかもしれません。

明日に続きます!

posted at: 2023-12-11 (Mon) 12:00 +0900