ハナモゲラの反社会性
言語は伝達のための意味作用を持ちます。 それこそが言語の中核的機能ですが、 ハナモゲラはそれを放棄してしまう。 意味を宙吊りにし破壊してしまうハナモゲラにはアナーキィな側面があります。 考えようによってはちょっと恐ろしいことかもしれません。
平歌はスペイン語で歌っているのに歌詞の一番重要な部分、 コロのところでほとんどオノマトペや異言としか思えないハナモゲラを歌う。 耳慣れない音なので不思議な印象や可笑しみを生みますが、 それだけに留まりません。 体系的な言語を内側から食い破り、 スペイン語そのものを挑発している感じがあるのです。 結果としてこれが素頓狂とか奇天烈とか下品とかいう印象を作る場合がありますが、 それは何か下品なことを言っているから下品な印象になっているというよりも、 むしろ、何だか分からないことを言っているために生じる薄気味悪さ、 アルカイックな破壊力を伴う野蛮というべきでしょうか。
ここでは深く立ち入りませんが、 この破壊傾向には現実あるいは過去の全否定という感じもあって、 もしかするとアフロフューチャリズムやイタリアの未来派などに通じる 恐しさがあると指摘したくなる人もいるかもしれません。 ただ、ひとつだけ重要な点を確認しておくと、 ハナモゲラ的衝動には宇宙的想像力、飛翔への欲望との親和性は低いように思います。 というのも即興的ハナモゲラは身体性・地上性に依存して成立する技藝だからです。 むしろ身体的制約や重力による制限を楽しむ機知にそのココロがあります。
カウディーヨとマチスモ
一方で、レゲトンやデンボウ、トラップ・ラティーノに特有の俗悪さは、 いわゆるマチスモ、ラテン世界に拡がる男性優位的感情の露出ともいわれますが、 性差別や男尊女卑はラテン世界だけのものではないし、 ラテン音楽にみるそれがどれだけ特別なことであるかは評価が難しいところです。 確かに暴力的だし、女性をモノ化する視線、行き過ぎた悪ノリ表現が散見され、 面白くもないのにただ過剰にセンシュアリティだけを押し出す、 という側面があるのは明白。 ただ、この流儀の本家ともいうべきヒップホップにも似たような部分はあるし、 一部のメレンゲやバチャータでも見られる傾向です。
ちなみに、老婆心から指摘しておくとレゲトンや トラップ・ラティーノの全部が全部浅薄ということではもちろんありません。 女性やトランスのアーティストもいますし、 むしろそうした偏見と戦おうとする動きもみられます。 また、軽薄の中にも庶民の知性がきらりと光る作品もあって侮れません。
ただ、ここでいっている露骨な卑俗さとは ハナモゲラ的な野蛮との比較でいえば底の浅い、幼稚なギラつきのようなもの。
あえてラテンアメリカのマチスモが他の性差別とやや異なる点を強調するなら、 それが必ずしもネガティヴに語られるばかりでないということ。 つまり、マチスモは割とポジティヴに理解されることもあるということです。 これにはカウディーヨ以来の「男らしさ」に対する肯定的感情があるといわれます。
カウディーヨとは19世紀にラテン世界で群雄割拠した私的な徒党を抱えたドンたちのこと。 多数の子分を従え、家父長的な権威を持ち、 まったく政治的・法的な裏打ちなしに声の大きさと腕っぷしと人情で 政治を行った領袖たちです。 カリスマのある抜け目のない豪傑で、 身内はきっちり守るが敵に回れば容赦しない。 なんとなく清水の次郎長とか国定忠治、 コルレオーネ・ファミリィや平安期末から戦国時代のお武家さんを想像すればいいでしょうか。 そういう人がラテン世界のあちこちに割拠して統治したのが19世紀のラテンアメリカでした。 権力基盤は脆いので、下剋上とか御家騒動みたいなこともしばしば起こります。
カウディーヨは人情味のある親分という側面も持つと同時に、 手向かう者は虐殺し、暗殺や密告を用い、 あらゆる決定権を掌握する独裁者でもあります。 もちろん、彼らの統治にデュープロセスとか意義申し立ての機会なんてありません。 子分たちは忠誠を誓う代わりに土地や権益を分け与えられたという格好です。
所詮独裁者ですから、独善的ですし、強権的ですし、自分勝手ですし、 徒党を組んで暴力をふるうし、政治は不正や横領や汚職だらけになるのですが、 一方で安定した独裁者がいることで治安はよくなりますし、 学校とか病院のような仕組みが整備されるという側面もあります。 我々に身近なケースでも、自然災害が起きたとき、 ナントカ組が炊き出しをしてくれた、みたいな武勇伝はよくありますが、 かえってそのギャップで貧しい人の心をぐっと掴む場合があります。
こうして「ヤクザの親分ってかっこいい!」 というメンタリティに共感する少年たちが育ちます。 勇敢、無鉄砲、女性に対する支配的な振る舞い、家父長的権威、騎士道精神、 レディ・ファースト、気前のよさ、プライドを守ること、 性的能力、家族を守ること、 自信に満ちた態度などが彼らにとっての重要な価値。 軍事オタクで筋トレやキャットコーリングに精を出すマッチョなラティーノの出来上がりです。
ふたつの野蛮さは異なる
さて、ラテン音楽(の一部)は品がない、というとき、 この両者の違いを指摘しておくことは大切です。 一方は、言語の解体と再構築を企図する詩的方法としてのハナモゲラ、 もう一方は大衆的な悪ノリの延長線上にあるマチスモ。 両者の差が曖昧になる領域もあるように思いますが、 一旦ここでは両者の出自と動機を別々に分けて考えておきたいと思います。
大衆音楽・ダンスは社会に対する意義申し立てという側面もありますし、 日々の抑圧からの解放というセラピィ的な側面もありますから、 その核心として「反社会性」を帯びるものです。 それは単にハメを外してバカ騒ぎするという次元から、 批評的水準まで様々なレイヤを多重に含む概念です。 「ジャズ」や「パチャンガ」ということばがどちらもオノマトペ由来で なんとなく「バカ騒ぎ」という意味を持つことにも現れているように、 そもそもバカ騒ぎ自体にこうした突破力があるのでした。
その意味ではマチスモ的俗悪さもハナモゲラも、同じバカ騒ぎ。 ただ、その水準ないし方向性が異なるとはいえるでしょう。 同じように差別やポルノや「負の連帯」をも呼び出しますが、 現実世界で既に反復されている暴力的な記号をさらにエコーしていく方向のマチスモ的俗悪と、 記号性を徹底的に排除して言語以前の意味の世界に戻ろうとするハナモゲラ。 差別を強化する方向と区別さえ解体してしまう方向。 このように比較すれば両者の違いは一目瞭然ながら、 似て非なるモノ同士、 直観力や技量に劣る凡庸なミュージシャンが ハナモゲラ的な世界を真似しようとしたらただの悪ノリ以上にならなかった、 という結果に落ちるのは想像に固くありません。
実はこの点はハナモゲラムーヴメントの人々にも最初から認識されていたことでした。 ハナモゲラは諸刃の刃、やり過ぎればすぐに賞味期限が切れる、 昂進性の強い刺戟物でもあります。 そうなればどんどん難度・強度を高めねばならず、 元来の意味解体作用も利かなくなり、 俗悪と意味不明と過剰の奈落に真っ逆さまということになってしまいます。 あくまでも片足は真っ当な意味の世界に引っ掛かっていないとまずいんですね。 この絶妙なバランス感覚を要請するという点でも、 ハナモゲラを駆使した音楽を創作するのは並大抵の才能ではありません。 弱ければ利かないし、やりすぎれば生命にかかわる可能性まである。 ハナモゲラには用量・用法を守って正しく使う知恵が要求されます。
レゲトンやトラップ・ラティーノの楽曲で 優れた作品とそうでないものの差が激しいのはおそらくこうした理由によります。 悪ノリ系のレゲトンは歌詞やアピールの猥雑さゆえに価値がないのではなく、 そうした無粋な表現は単にミュージシャンの技量の低さと共起しやすいということでしょう。 同じことは一部のメレンゲやバチャータについてもいえます。 メレンラップのようなジャンルの音楽の中には秀逸なモノもある一方、 ただやってみたというだけの感じしか残さない未熟な曲が 多くなりがちなのはミュージシャンの技量不足が露呈しやすいという 問題もあるかもしれません。 とりわけパートナダンスを踊る立場で聴く場合、 その音楽にはサボールが必要ですが、 それはハナモゲラ的手法によってアルカイックなレイヤから 汲み上げられたモノであって欲しいものです。 感性と技量に裏打ちされない悪ノリほど残念なものはありません。 ましてや商業的動機のみで量産される AI メイドの楽曲は、 パートナダンスで踊ることに苦痛さえ伴います。
反社会性という社会性を踊る
というのはパートナダンスはそれ自体がハナモゲラ的会話だからです。 独り踊りや輪っかになって揺れているだけなら筋のよくない俗悪な音楽でも、 歌詞にむっとなる点を措けば、あまり問題はありません。 最初から揺れたがっている身体ならどんな音楽でも揺れるでしょうし、 最初からバカ騒ぎしたいマインドを煽るトリガには充分でしょう。
しかし、パートナダンスでは足が動き出す前にふたりの心を踊らせる必要があります。 独り踊りよりも醒めていなければ始められないのがパートナダンス。 それは身体のどこか言語以前の領域を刺戟する音楽でなければならず、 それには優れたミュージシャンの才能と努力が結実した楽曲が不可欠です。 がらっぱちなだけの曲をフロアで掛けたくないのはポリティカル・コレクトネスの問題でも、 品行方正のためでもなく、 単にパートナダンスを踊るに相応しい曲を選ぶと自然とそうなる、 ということなんだと思います。
セクシズムもレイシズムもなかなか人類には乗り越えられませんが、 ダンスフロアはこれらのアイデアを排除して清潔に保つ場というよりも、 それらを飲み込んで消化し、内側から食い破る実践の現場ともいえます。
ハナモゲラは露骨な差別語を使わずに反社会性を取り扱える強力な道具ではありますが、 使い方の難しい劇物でもあります。 秀逸なハナモゲラの曲が多く存在するということ自体が、 実は奇蹟的なことで、 ラテン音楽が驚くべき才能たちに囲まれていることの証拠といえるでしょう。
ハナモゲラを口ずさみながらパートナと踊れるというのは格別の特権ですね。
明日は新しいテーマです!