パラディウム時代のマンボ
ラテンに限らずスウィングやボールルームを含め、 20世紀初頭から中葉頃までの多くのクラブパートナダンスでは、 とりわけ特別なトレーニングを受けていない一般のソーシャルダンサにとって、 パートナワークとは基本的にフレームを組んで歩くか揺れるだけでした。 ずっとボディ・トゥ・ボディのフルコンタクトをキープするだけで、 ターンをしたりオープンポジションになったりすることは滅多にありません。 エスタブリッシュトなダンサたちはもっと複雑な動きをしましたが、 むしろ彼ら彼女らの方が例外的。 このことは多くの当時のメキシコやアメリカの映画のフッテージで確認することができます。 こうした踊り方の原型的なスタイルはフォックストロットで、 1910年代に確立したとされますが、 マンボ全盛期といわれる1950年代の映像でも ステップのリズムを合わせて綺麗に踏んでいるペアは少ないように見えます。
よく考えれば、現在でも普通の独り踊り用のクラブやディスコに遊びに行くために 専門的なダンスのトレーニングを受ける人は少数派ですよね。 お酒片手に揺れるだけですから技術はほとんど必要ありません。 実はパートナダンスも長い間そのように踊られてきました。
一方で、 ハイエンドダンサたちによってテクニカルなクラブパートナダンスも登場してきます。 狂騒の20年代、 スウィングダンスの文脈では 20's チャールストンやバルボアなどのダンスが踊られ、 フレームを組んだまま複雑なステップワークで リード・アンド・フォローを伴ったダンスが出てきます。 ブラックボトムやテキサストミーといったダンスなどの影響を受け、 オープンポジションのダイナミックな動きが加わって、 ニューヨークで一世を風靡したのがリンディホップ。 スウィングジャズのリズムに合わせて踊る、黒いフレーヴァたっぷりのダンスです。 ソーシャルダンスとしてもサボイ・ボールルームを中心に人気でしたが、 映画 "Hellzapoppin'" (1941) にも収録されているように、 ステージ向けの振付パートナダンスとしても完成されたダンスでした。 ファストスウィングの曲で超絶的なアクロバットをワイルドに踊るさまは圧巻です。 1930年代はまさにリンディブーム。 ただ、第二次世界大戦によってスウィングダンスは衰退、 戦後のニューヨークに湧き上がったのがマンボクレイズです。 その中心地は53番街とブロードウェイの角に1948年に開業した パラディウム・ボールルームでした。 その頃のダンスは具体的にどんなスタイルだったのでしょうか。
様々な証言や残っているヴィデオなどから現在のマンボ(=ニューヨーク on2 スタイル) ダンサとは全く異なるダンスを踊っていたことが分かっています。
まず、 パラディウム時代にはスロットという概念がありませんでした。 ダンサは現在のキューバンのように円を描きながら踊ってようです。
そして、ほとんどカウントというものを知っている人はいなかったそう。 on1 で踊る人、 on2 で踊る人、あるいは on3 や on4 で踊る人もいたようですが、 最も多かったのは音楽のリズムのアラインメントとは無関係に踊る人、 いわゆる「onオレ」だったとか。 しっかりしたレッスンとしては例えば 「黒人ダンスの女酋長」の異名をとる Katharine Dunham のものなんかもあったそうですが、 多くの人はレッスンなんて受けたことがなかったんですね。 ちなみに20世紀の最も成功した黒人ダンサとも評される Dunham は人類学者でもあり、また本物のマンボでもありました。 Tito Puente や Mongo Santamaria などは彼女のレッスンに通ったそうですよ。
人種的にも階級的にも性的にもさまざまな人があまり差別なく集まったパラディウムでは、 いろんな人がいろんなスタイルを持ち込みそれらが共存していたといいます。
パートナワークの基本的な手組みはボールルームのルンバからの影響でした。 ちなみに、ボールルーム・ルンバ (rhumba) はアフロ=キューバンのルンバ (rumba) とは全く別物で、 現在でもボールルームで踊られているステップです。 1930年代くらいから人気があったようでキューバのソンのステップを由来としながら、 白人風のアップライトなダンスに仕上がっています。
さて、複雑なパートナワークが成立するには それなりにきちんとしたコネクションの仕組みが必要です。 ですから、結果的にパラディウム時代の普通のダンサたちは ごく素朴なターンパタンしか使わなかったようです。 相手を移動させたら1回アンダアームターン。 もちろんシングルです。 そしたらすぐに手を離してシャインつまりソロダンス。 しばらくお互いにシャインしたらフォローを移動させてアンダアームターン、 そしたらまたシャイン・シャイン・シャイン。
つまりほとんどシャインばかり踊っていたんですね。 大体7割から8割はシャインだったようです。
なぜシャインを多めにするのか
現代のサルサではかなりパートナワークが発達しているので相当に 複雑なパタンを延々と繰り出し続けることができます。 実際のシャインの割合は1割か2割あれば多い方で、 on1 ダンサがロマンティカを踊る場合だと全くシャインなしに踊る人も少なくないでしょう。
それに対し、ここはとても重要なポイントなのですが、 このシャインの比重が高いというパラディウム時代以来の伝統は、 ニューヨークのマンボフリークたちにとって非常に強いこだわりです。 これはふたつの意味で彼らにとっての重要な価値を持つからです。
ひとつは当時のマンボダンサにとってダンスはオリジナリティがこそが命。 パートナワークは先述の事情でほとんどみんな同じパタンになってしまいますから、 違いを見せられるのはシャインだけなんですね。 誰かがやっているステップは真似しないというのが粋で、 自分のオリジナルシャインをパートナ同士でショウオフしあったといいます。 パラディウムでは定期的にコンテストが開催され、 多くのスターダンサを生みましたが、 ここでも問われる価値はオリジナリティだったといいます。
なお、この点に関して抑えておきたいのはパラディウム時代のマンボダンサたちは DJ によるレコードプレイではなく生バンドの演奏で踊っていたということ。 バンドで踊る経験は DJ のスピンで踊るのとは決定的に違います。 即興演奏を信条とする一流のアフロ=ラテンのミュージシャンたちの発する ヴァイブスに共振すると、ダンス自体にもその身体性・創造性が乗り移ってくるからです。 パラディウムでは Tito Puente や Tito Rodoriguez や Machito といったビッグネームたちが演奏していましたから、 彼らの音楽がダンススタイルに与えた影響は無視できないでしょう。 音楽のヴァイブスをダンスに翻訳しようとすれば パートナワークでは無理がありますから、必然的に即興的なシャインで応じることになります。
もうひとつの理由は、ジェンダバイアスの問題。 パートナワークはリード・アンド・フォローですから リードとフォローに非対称な役割が生じます。 すなわち、リードの指示にフォローが従うという優劣関係があるという考えですね。 リードは伝統的に男性の役割であり、 そのリードがターンパタンを決定し、 女性であるフォローはそれを受け入れるのみであるという関係。
それに対してシャインはお互いに全く対等なやり取りです。 女性にも自由に踊る時間とスペースがあり、 どちらがどちらに仕掛けるも自由自在という訳です。
パートナワークがディクテーションなら、 シャインは会話である、という人もいます。 dictate には独裁という意味も響いています。 ダンススタイルを問題にするとき、 このジェンダの非対称性に関する観点は避けて通れない論点です。
パートナワークはジェンダロールを固定化し、 女性に対して抑圧的である、 という命題はパートナダンス批判として様々な文脈で語られます。 その是非についてはまた後に議論しますが、 少なくともパラディウムスタイルのダンサたちにとって、 オリジナリティやクリエイティヴィティを発揮しやすく、 男女が対等に掛け合いのできるシャインに価値が置かれたということです。
power2 vs ET2
さて、多くのパラディウムダンサはオリジナリティを重要な価値と考えていたので、 他の人と同じように踊る必要をほとんど感じていませんでした。 したがって、様々なカウントないしカウントレスのステップが存在した訳ですが、 それでも特別に上手いダンサたちは同じようなタイミングでステップを踏んでいたといいます。 それが power2 と呼ばれるタイミングのベーシックで、 ボールルーム on2 とかプエルトリカン on2 などという言い方もありますね。 いまの主流である ET2 (Eddie Torres on2) とは少し感じ方の違うステップです。
両者の違いがどのように作られたのか、という話はそれ自体として面白いのですが、 ここではひとまず50年代のパラディウムで一部のダンサたちが power2 で踊っていた、 冬の時代を経て80年代に入ってから Eddie Torres によって復活する過程で彼が教えたのが ET2 である、 という一般的な説明に留めておきましょう。
なお、パラディウムが閉鎖されるのが1966年ですが マンボの流行自体は1960年頃にはかなり下火になっています。 それには様々な理由が考えられますが、 大事なポイントはマンボは一度死んだということ。 ファニアによる70年代前半のサルサブームも80年には消沈したことを考えると、 ラテン音楽・ダンスの文化はニューヨークにおいて2度の冬の時代を経験しています。
さて、具体的な両者の違いを簡単に見てみましょう。 ET2 では ステップを踏むタイミングが "123-567-" 、 クイック・クイック・スローとなります。 対して power2 の場合は "234-678-" となり、1拍ズレがあります。 ブレイクステップ(前後に踏み出すステップ)はどちらも2拍目 (2拍目と6拍目)なので、 同じターンパタンをした場合にスローステップの位置が変わることになる。
なお、 on1 の場合、 ET2 と同様 "123-567-" のタイミングで踏みますが、 ブレイクステップは1拍目と5拍目です。 別の言い方をすれば power2 というのは on1 を1拍ずらしただけのステップということ。
手組みに対して足を踏むタイミングが変化するので ET2 と power2 ではそれなりに感じ方が変わります。
サルサダンスのグローバリゼーション
ところで、サルサのダンススタイルは1997年以前と以降では全く異なる、 とよくいわれます。 サルサ界の神学論争ともいわれる on1 vs on2 の議論が登場するのも97年以降のこと。 この年にサルサに何があったのか。
そう、世界初の「サルサ・コングレス」 がプエルト・リコのサン・ファンで開催されたのでした。 このことが現在に至るまでの「サルサ業界」の起源を作るため、 俗に「サルサ紀元」の年ともいわれ、 これ以前のサルサと以後のサルサは全く質的に異なることが強調されます。
サルサダンスの歴史を詳述したダンス研究者の Juliet McMains の言い方を借りれば、 97年以前は "BC" すなわち Before Congress であり、 先に見たパラディウム時代のマンボの話や Eddie Torres による ET2 の普及などはサルサ紀元前の話。 サルサダンスが世界中のマーケットに進出し一気に変質するのはこれ以降の急速な変化です。
コングレスとは数日に渡って開催される巨大なサルサの祭典で、 複数のインストラクタとともに大勢の参加者が世界中から集まるイヴェントです。 参加者は昼の間、数あるワークショップを受講して新しいターンパタンを覚え、 サルサシューズやTシャツを購入し、 夜はショウとパーティを楽しむというのがお決まりのコース。 星のついたホテルのような会場で行ことの多いラグジュアリな催しでもあります。
このコングレスはプエルト・リコで初開催されると一気に世界中の都市に拡がっていきました。 現在でも規模の大小はありますが、 毎週末世界のどこかでコングレスやフェスティヴァルが行われています。
このコングレスが登場することで何が変わったのか、 といえば大きな点はふたつあると先述の Juliet はいいます。 ひとつ目はサルサダンスがひとつの産業となり、 国際的なマーケットが成立したこと。 もうひとつはこれに必然的に付随する現象ですが、 どのダンススタイルが国際的に売れるかを決定する必要が生じたこと。 つまりスタイルの統廃合が始まったということです。
90年代には世界中の様々な街でローカルなヴァリエーションのサルサが踊られていました。 最初のコングレスが開催されて明らかになったのは ベネスエラのダンサはオランダのダンサとソーシャルで踊れないということ。 出身コミュニティが違う者同士だとリズムのとり方や スタイルが違い過ぎて全く噛み合わなかったのです。 複数のローカルなスタイルがどのスタイルに統合されていくのか、 どれがサルサ産業にとって売れるスタイルなのか。
また、コングレスの登場と表裏をなしている重要な変化がインタネットの影響です。 そもそも最初のコングレスが開催される経緯にもインタネットは関係しています。
そうして、ここであの on1 vs on2 論争が登場します。
明日に続きます!