サルサの誕生
パラディウム時代のマンボからサルサの時代に移るにあたって、 ニューヨークでのダンススタイルはどのように変化していったでしょうか。
少し触れたように、50年代のマンボクレイズは60年代になると下火になります。 テレビが普及し、政治の時代に入り、 公民権運動、ベトナム戦争、ウーマンリブと社会問題が浮上する時代にあって、 パートナダンスという男女が役割を演じる構造を持つダンスは人気が翳ります。 変化が賞賛される気分が時代を覆っていました。 先にも議論したように50年代のマンボダンスはそれほどパートナワークが 協調されたスタイルではなかったのですが、 パブリックイメジとしてはパートナダンスという印象があったことで、 時代遅れのフォーマットと見做されたのかもしれません。
文化カテゴリとしての「若者」が誕生し、 ロックンロールのツイストがダンスファドとして大流行する頃でもあり、 ラティーノも含めたニューヨークの人達もソロダンスへと傾いた時代でした。
この、50年代のマンボから70年代のサルサまでの間、 ニューヨークにおいてラテン音楽の精神を繋いだのはブーガルー、 とよくいわれますね。 ブーガルーはラテン音楽とロックあるいはソウルとのフュージョンジャンルで、 大きな特徴は英語で歌われるケースが多いことと、 パートナワークよりもソロダンスのシャインステップに重きがあることが指摘できます。 パートナワークをする場合もチャチャのベーシックを用いるため、 複雑な展開をするというよりもすぐにシャインに分かれる傾向があります。 音楽的フュージョンに伴ってステップにもロックやソウルのフレイヴァが加わり、 ブーガルーはアメリカ的雰囲気を強く持つようになります。 アフロ=アメリカンのテイストや白人的な要素もミクスして、 ラティーノのための音楽というよりもアメリカ的音楽・ダンスに変容していったのです。
この短いながら黒人音楽とラテン音楽の蜜月関係は、 公民権運動へのラティーノたちの関心も引き付けました。 合州国におけるマイノリティとしてのプエルト・リコ系の人々が 自身のアイデンティティと権利に目覚めていきます。 このラティーノ版公民権運動の中心にあったのがサルサの誕生でした。
60年代は第二次世界大戦や朝鮮戦争を契機に移民してきた1世の子供世代が、 音楽やダンスを消費する世代に成長しています。 この2世たちは英語に適応し、ソウルを踊り、 ブーガルーを楽しんだ世代ですが、 70年代に入って再びスペイン語で歌われるサルサに熱狂します。 サルサはバリオの生活を歌い、 「三等市民」であるプエルト・リコ系の現状、 暴力や貧困や社会問題などを扱いました。
サルサという音楽をプッシュしたのはファニアレコードですが、 ニューヨリカンの集団的アイデンティティを一手に背負う存在となっていったのです。 ところで、ファニアの創設者はイタリアン・アメリカンでユダヤ人の Jerry Masucci と ドミニカ共和国出身の Johnney Pacheco でした。 どちらもプエルト・リコ系でもキューバ系でもありません。 この辺りが巡り合わせの綾として面白いところですね。 ファニアのメンバの多くがニューヨリカンであることは紛れもない事実ですが、 Pacheco に次いでアルバムを出し、 後には Fania All Stars のバンマスも務めた Larry Harlow はユダヤ人、Rubén Blades もパナマの人です。
この70年代のサルサブームはファニアレコードによるコマーシャリズムの成果であると同時に、 ラティーノたちの文化運動として政治的な意味合いの強いものでもあり、 「サルサ」という語の宣言は彼らの出自に対するアイデンティティを定義するものでした。
サルサという音楽はマンボやソンやメレンゲ、ボンバやプレーナなどの様々な 音楽の総称でもあり、それらのミクスチャ音楽の名前でもありました。 先行するマンボやソンのミュージシャンはこのサルサという名称を使うことを 嫌がる傾向がありますが、 ファニアレコードと立場を異にする人々にとっては複雑なものがあったようです。
サルサというダンスはなかった?
ともあれ、音楽としてのサルサは巨大なヒットとなった訳ですが、 ダンスはどうだったのか。 60年代に入ってパートナダンスが下火になったとはいえ、 かつてのパラディウムダンサたちは細々とより小さなクラブに移ってマンボを踊っていました。 その中に Corso というクラブがあり、 そこは若き日の Eddie Torres がマンボと出逢った場所でもあります。
ところが、70年代になってサルサと共に踊られたダンスはかつての パラディウムスタイルとは大きく異なるものだったといいます。 その違いは大きくふたつ、 ひとつはシャインよりもパートナワークの比重が非常に大きくなったこと、 もうひとつは on2 ではなく on1 や on3 で踊られることが増えたことでした。 こうした違いが発生した理由を巡っては様々な仮説が唱えられていますが、 どれも決定的なものはないように思えます。
ひとつだけ挙げておくと、 ハッスルダンスとの関係を指摘する仮説は興味深いです。 サルサという音楽が登場した頃、 ハッスルと呼ばれるダンスの人気が出始めました。 これはサルサの音楽で踊られることもあるし、 もっとアングロ・アメリカンな四つ打ち音楽で踊られることもあるパートナダンスです。 ほとんどシャインはなく圧したり引いたりしながら展開するカップルダンスですが、 その手組みにはマンボやジャズ系のダンスなどの影響があります。 そして、このダンスこそが70年代以降に踊られていたサルサの直接の元である、 という考えです。
ハッスルは英語の曲でも踊るダンスで、 いわゆるアメリカンなダンス。 マンボの影響もありますが、 黒人ダンスのフレーヴァもあれば 白人の背中にラインを入れたダンスの系譜とも混ざっています。 スウィングやアフロ=ラテンダンスのような 音楽のジャンルと密結合して立てられたダンスというよりも、 4/4拍子ならどんな音楽でも踊れる抽象度の高いダンスでした。 現代のコーストスウィングやニューハッスルなども 音楽のジャンルを問わずに踊られていますね。 その分、パートナワークの手組みの合理性が高く、 最低限のルールを共有した者同士であればかなり自由度高く踊れるダンス文法を備えています。
70年代のサルサとは音楽の名称ではあってもダンスの名称ではなかったといいます。 「サルサを踊る」ということの内実は「サルサ音楽でハッスルダンスを踊る」、 ということを指したと考えられるようです。 ハッスルは四つ打ちでも踊られていましたから、 アフタビートではなくダウンビートへの指向が強くなり、 結果的に on1 や on3 になったと考えられるのですね。
また、ハッスルがソロダンスよりもパートナダンス指向 のスタイルになっていった理由については、 それがゲイ・コミュニティ由来であるから、 とする重要な指摘があります。 70年代の音楽製作の現場やクラブ文化ではゲイ・コミュニティの寄与が大きかったそう。 ストーンウォールの叛乱が1969年、まだ多くの州では同性愛は違法でした。
パートナダンスは男性役と女性役に分かれて踊るダンスですから、 自分の性や性自認と切り離した男性性や女性性を表現できるフォーマットです。 実際、現在のダンスフロアでも男性がフォローをする場合過剰にフェミニンに 踊るケースをよく見ますが、 必ずしもその人物の性自認がクィアであることを意味しません。 むしろ、古代の異性装のお祭りのような楽しみ方をしている人も多いのではないでしょうか。 「女らしさ」を表現したい人にとって、 パートナダンスのフォローは安全にその要求を満足させてくれます。 ともあれ、この頃のゲイクラブでは頻繁にパートナダンスとしてのハッスルが踊られ、 それが黒人やラティーノのクラブ文化にフィードバックされたという説明です。 指先や背中の作りが頑丈な男性がフォローなので、 ダイナミックなターンパタンや実験的な手組みも試しやすかったのかもしれません。
ことの真偽を判断することは難しいですが、 話としてはなかなか説得力があります。 これが正しいとするととふたつのことを確認する必要があります。 50年代のマンボと70年代のサルサはダンスの観点であまり関係がないということ、 その結果として、ニューヨークのスタイルが on2 であるという状況は、 80年代よりも後の時代に成立したはずだということ。
拡大するダンスレッスン
さて、確かにダンスレッスンはパラディウム時代から存在していましたが、 ほとんどのダンサにとっては無用でした。 パートナワークはごく素朴なものだけしか使いませんでしたし、 シャインはオリジナリティを発揮することが大切であっても 誰かの真似をする必要がなかったからです。
歩き方や自転車の乗り方、食事のマナーのように、 多くのダンサは家族や友人との関係の中で自然にダンスの仕方を覚え、 それを自分なりにアレンジして踊ったようです。 ラティーノにとって自然なラテンダンスはお金を払って習うようなものではなく、 何となく身に付ければそれでいいんじゃないかと考えられたということです。
ところが、ハッスルの登場によってこの考えが変わりました。 ハッスルはアングロ・アメリカ的要素も持つダンスでしたから、 ラティーノにとっては必ずしもアプリオリなダンスでなかったんですね。 合理性や抽象度も高く、 正規のトレーニングなしには身につけにくかったことも重要です。 ですからハッスルの手組みを身に付けようと思えばスタジオに通って そのイロハを身に付けねばなりません。 この感覚が70年代以降のパートナダンス冬の時代にあって、 パートナワークはレッスンに通って身に付けるもの、 という感覚が一部のラティーノたちにも広まったと考えられるのです。
メレンゲの時代
さて、ニューヨークにおけるラテン音楽の歴史を考えるとき、 80年代はメレンゲの時代であったことを確認しておくことは重要です。 サルサブームは80年頃までに終息してしまい、 多くのラジオ局でもサルサはほとんどオンエアされなくなりました。 これはドミニカ共和国からの移民の増加に伴うメレンゲの広まりのため、 と説明されることが多いのですが、 メレンゲのおかげでサルサやラテン音楽の系譜が途切れなかったと考えることもできます。 音楽としてのサルサはダンスミュージックである以前に 社会的・政治的メッセージソングでしたし、 踊りながら聴くことも難しくなっていました。 大衆音楽というよりもややハイコンテクストな音楽になっていってしまったのですね。 ラテンクラブでもメレンゲとサルサが交互にプレイされるようになり、 素朴なパートナダンスの楽しみを人々が再発見することになります。
ダンスとしての複雑さが低いメレンゲは イチニイチニと踏む以外に選択肢がないですから、 スタイルだとかベーシックの多様性を語る必要がありません。 これはダンススクールにとっても教えやすいというメリットがありましたし、 初心者がシーンに入っていきやすくなるという点でも歓迎されました。
メレンゲがニューヨークの80年代のラテンシーンを救った、 ということはもっとよく知られるべき事実です。
ET2
Corso でマンボを踊っていた Eddie Torres は尊敬する Tito Puente からの影響もありソーシャルダンサとしてよりも ステージパフォーマとして大成することを夢見るようになります。 Tito Puente は Eddie Torres からすれば年上のアイドルのような存在で、 同じ病院で生まれたこともあって共鳴するところがあったようです。 80年に Tito のダンサになった Eddie はマンボ・インストラクタとして カリキュラムのシラバス化を進めます。 これは June LaBerta というパラディウム時代を知る女性ダンサからの薫陶を受けてのことでした。 Eddie が10代の頃に既に60代だった June は、 若き日の「マンボキング」に音楽の勉強を進めたそうです。 オタマジャクシやカウンティングを教えたのも彼女で、 それ以前の Eddie Torres はダンスは上手だったそうですが、 カウントが何かもよく分かっていなかったといいます。 なぜ Eddie はパラディウムの正統である power2 ではなく ET2 を教えたのか、というよくある質問の応えが この辺にあるようだというのは、 Eddie 本人もインタヴューの中で認めています。
そして Eddie 自身が自覚的であったかどうかはともかく、 その手組みにもハッスルの影響は色濃く染みついていたといえます。 周囲はみなハッスルダンサなのですから不可避的にそうなりますね。 当時ダンスレッスンはハッスルばかりで、 派手なターンパタンとトリックでチームパフォーマンス向けのものが多かったそう。 それでも彼はなんとかマンボを次の世代に伝えようとしていました。 on2 のカウンティングをまとめ、 コンガのスラップとのアラインメントを教えました。
ここで大事なことは Eddie Torres にとってソーシャルダンスよりも ステージパフォーマンスの方がプライオリティが高いということ。 もちろん、ソーシャルの手組みも教えていましたが、 彼の最終目標はカンパニィを組織することであり、ステージでのパフォーマンスでした。 87年にアポロシアタでの Tito の公演のダンスプロデュースを務め、 そこでの成功をきっかけにニューヨークではサルサのダンスレッスンが増え始めたそうです。
90年代冒頭までのニューヨークではほとんどのダンサが on1 か on3 で踊っていたといいますが、 その数年後にはほとんどのダンサが on2 で踊るようになったといいます。 ニューヨーク中のインストラクタはほぼ Eddie の弟子や孫弟子になりつつありました。
音楽とダンスの乖離
90年代の前半、ダンスコミュニティの拡大と反比例するように、 サルサの音楽業界はさらに停滞していきます。 ロマンティカの台頭によるジャンルの変遷、 行政による補助金の減少、 ネットの台頭によるレコード産業の構造の変化などが理由とされます。 また、コカインマネーとの繋がりが深かったサルサミュージシャンたちにとっては、 90年代半ばのジュリアーニ市長の取り締まりはビジネスを冷え込ませる結果となりました。
ダンスの拡大と音楽の低調は音楽家とダンサの間の不和も拡大します。 ロマンティカは見映えのいいヴォーカルを擁したアイドル的なグループが多かったため、 ダンサは演奏を真剣に聴かず、 長いソロや難しい構成を露骨に嫌がりました。 70年代のムーヴメントを経たミュージシャンたちにとって、 サルサ音楽は彼らのアイデンティティそのもの。 その音楽にほとんど注意を払わずフロアの上で軽薄に騒いでいるだけのダンサたちは、 彼らにとって連帯できる相手ではないと判断してもしかたなかったかもしれません。 奇しくも「サルサ紀元」が迫っている時期のことでした。
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