コングレススタイル
97年以前のサルサのパートナワークには様々なスタイルをあったことを見てきました。 パラディウム由来のシャイン中心の素朴なスタイルがあり、 南北アメリカの多くの地域では on1 か on3 で緩く踊るスタイルがあり、 ハッスルを経由してより抽象度が高くなり、 リズムグリッドとの関係性が薄くなったスタジオ・サルサも出てきていた。 さらに地域によって、 箱によってもっと細分化される無数のスタイルが世界中で踊られていたのでした。
そして、これらが97年以降、コングレスとインタネットの登場によって統廃合され、 様々な力学と偶然の結果として、 スロットスタイルでは on1 と ET2 が残りました。 最近ではまた再び power2 の勢力がやや盛り返す、という状況になっているようです。 分かりやすさや音楽とのマッチング、 運動としての美しさなどの観点でそれぞれの優劣が議論されますが、 仕組みそのもののココロ自体はほとんど共通するのがこの3者。 Juliet の表現を借りればこれらは引っくるめて「コングレススタイル」であり、 世界共通言語になったサルサのパートナワークの文法です。
現在、コングレスやスタジオで教えられるこれらのサルサのパートナワークは、 音楽との結び付きを犠牲にすることで、 素朴でヴァナキュラなパートナワークに比べ、 極めて合理的にフォローとリードが協調して運動を作ることを可能にしています。 その場で作り上げるインスタントなピジンではなく、 多くの人の手と足によって鍛えられた、 非常によく出来たクレオール言語に発展しているといえるでしょう。
このパートナワークの特徴を箇条書きにしていえば、
- 4/4拍子であればどんな音楽でも踊れる8カウント主体の運動であること
- 体重移動とミラリングによる協調的な運動であること
- コネクションによって非対称で自律的な動きが可能になること
- 架空のスロットを想定することでより複雑なパタンが容易に可能になること
- フレームの組み方やリード・アンド・フォローの細則に申し合わせがあること
- ゆえにスタジオレッスンなどでの正規のトレーニングを要すること
コングレススタイルのステップが基本的にクラーベ・アンコンシャス、 すなわち微妙なマイクログルーヴや6/8のノリと無関係に、 4/4拍子のリズムで踊れる、ということは重要です。 クラーベがどっちを向いていても踊れるので楽ですが、 逆にいえばステップには厳密な音楽性が備わっていないということ。 オンビートで1234と体重移動しますが、 ひとつひとつのステップのダイナミクスは原則的に均質、 つまり雨垂れ拍子で踏む以外に選択肢がありませんから、 体重移動そのものはまったくアフロ=ラテンのリズム感と関係ありません。 ダンスのミュージカリティということを考える場合に根深い問題ですし、 音楽とダンスの乖離を促進している理由のひとつにもなっています。 この問題は一旦措き、また後で帰ってくることにしましょう。
さて、体重移動というコンセプトはボールルーム以来のパートナダンスの伝統で、 鏡映しの同じ側に同じタイミングで体重が載っているということです。 両足で踏ん張っているフォローは動かせませんから、 リードが利くためにはフォローは片脚で立っている時間が必要です。 このため、どのタイミングでどこに体重を置くかという規約を 互いに諒解していることが必要ですが、 それを簡単にダンス用語としては「ベーシックステップ」と呼んでいます。 人間の本能ともいうべきミラリングの能力に支えられたこのベーシックステップは、 初心の段階では、どちらかがイニシエーションをとらねばなりませんが、 この先に動く役割をリード、真似する方の役割をフォローと呼んでいます。
次に、 コネクション は単純なミラリングによる動きを超えた 複雑なパートナワークを実現するための原理です。 その要諦はリードが圧したらフォローは圧し返す、引かれたら引き返すということ。 同じだけの力で反対方向に抵抗を返すことでターンや移動などのパタンが実行されます。 この力の返し具合というのがフォローの技術として大変に奥深いのですが、 リードにとっても適切なタイミングで質のよいリードを繰り出すというのは、 それなりに難しいことでマスタするにはある程度時間がかかります。
そしてコングレススタイルがキューバンやメレンゲなどと大きく異なるのがスロットの概念。 フォロワはクロスバディ=リードによって作られる想像上の直線の上を行き来します。 これがなくてもパートナワークそのものは充分成立しますが、 スロットの直線を仮構し両者の共通の諒解とすることで、 より複雑な動きがより少ないガイドで実現できます。 つまり効率がよいのですね。 また、スペースの都合としても狭いフロアで多くのダンサが踊る際に、 スロットスタイルであることは都合がよい。 まさにコングレス的条件からスロットが要請されることになったといえます。
原則的にはこれだけのルールですべてのパートナワークの展開を説明できればよいのですが、 手の繋ぎ方やフレームの組み方、特定の動きの際の決まった処理の仕方など、 上記ルールのアプリケーションだけでは 説明しにくい慣習的申し合わせというのもあります。 いわば不規則活用のようなもので、本来のピジン的言語では存在しなかったものが、 段々とクレオール化し高度に運用されていく中で慣習用法として定着したものが いくらかあるということです。
ともあれ、これらのコンヴェンションさえ守ればリーダがどのようなリードをしても フォロワは適切にフォローできる、というのがこのコングレススタイルの良さ。 世界中どの街のクラブに行っても、 言葉が通じなくとも、異なる宗教でも、肌の色が違っても問題なく踊れます。 地球の対蹠点に住む者同士が初顔合わせで初めて聴くトラックで踊っても、 きっちり噛み合う。
遠くのコングレスに行って踊ると毎曲ごとにこれを感じて不思議な気持ちになりますが、 言語以前のコミュニケーションがこれだけ手軽にかつユニヴァーサルに成立する、 というのは端的に感動的です。 意識以前の段階でフロア全体と混合体になる感覚。 制約を課すことでむしろ自由になる、 というのは遊びにおけるマジックサークルの効能なのでした。
ただ、これらのコンヴェンションは直感的に誰でもすぐに理解できるものでも、 練習なしにすぐに始められるものでもないため、 家族や友人を見ていて自然に出来るようになるというタイプのダンスではありません。 むしろ、素朴な直感に反した原則もあります。 例えば、力を使わない方が綺麗にリードできるとか、 リードを待った方が自分で動き出すよりも早く動き了えられるというのは多くの人にとっては、 独力で到達するのは難しい考え方。 物理学や数学、身体工学的なトリックやパズルのような要素もあり、 アフォーダンス的な心理や生体反応の原理に基づく理解も必要で、 一筋縄ではいかないのがパートナワークの妙。
様々な偶然の結果生じた標準化であり、 千年のパートナダンスの蓄積から引き出された叡智でもあり、 多くのダンサの経験値と試行錯誤から帰納された秘伝のタレともいえる、 本当によく出来た仕組みです。 グローバリゼーションと商業化の産物という側面もありながら、 なにかとても古い魔術的な契約のようでもあり、 近代と古代のハイブリッドな踊りです。 分かってしまえばオートパイロットでできるようになりますが、 正規の訓練なしに身に付けるのは現実的ではありません。
パートナワークと信頼
さて、ふたりの人間が必要なのがカップルダンス、 そのパートナワークを成立させるルールやコンヴェンションは フェアであるべきですが、 このコングレススタイルについても様々な観点で意義申立てや批判があります。
まず、パラディウム時代のマンボダンサたちの申立てのように、 シャインは会話だがパートナワークはディクテーションだ、 という批判。 そもそもリード・アンド・フォローというのは男性原理による 女性の抑圧であり、 女性は男性のいうことに服従せねばならぬのか、という抗議です。 リードとは抑圧である、 といってしまうとパートナダンスはそれで終了となってしまうのですが、 実感としても理屈からしてもそれはあまりに的外れな議論です。
リードはフォローにどんな動きでも一方的に押し付けられる訳ではありません。 指示しているというよりはお伺いを立てている、という感じがあって、 それはつまり態度の問題です。 互いにリスペクトがある状態での リード・アンド・フォローは押し付けでも、 レスリングでもなく、攻撃でも強制でもありません。 いかがですか、という提案であり、問い掛けであり、誘いです。 リードとフォローは協力してダンスを体現するためのバディ関係であり、 運動の源泉はリードよりも上位にあります。
抑圧的、暴力的にリードすることは可能ですが、 そしてそういうリードは決して少なくないですが、 それは本質的にパートナダンスの構造上の問題ではありません。 非対称な関係を背景に強制するのはいかなる現場でも相手へのディスリスペクトですし、 パートナダンスでも当然それはマナー違反です。 社会のあらゆる場所に小さなビッグブラザはいるので、 ダンスフロアもまた社会の縮図なのであってみれば、 その根治は容易ならざることであると理解しなければなりません。
理想的な相互承認に基づくフォローとリードは、 向かい合う関係であるというよりも、 潜る人と見守る人の関係でもあります。 深いパートナダンスのモードでは、「リード・アンド・フォロー」が 「フォロー・アンド・リード」として理解されるようになり、 さらに 「アンド・フォロー・リード」と文法的に破綻しても「アンド」の部分が前景化して踊る、 「アンド・ドリヴン」 の境地に至る踊り方があります。 こうした感覚へ至るための前提として相互リスペクトに立脚した関係性がある、 ということはいうまでもありません。 フォローという鐘をリードという撞木が撞くことに喩えるなら、 鐘は撞かれねば鳴らぬのであり、 それを暴力と呼ぶなら関係性は最初から拒絶されているということになるでしょう。 鐘と撞木の間のコンヴェンションがあればこそ関係性が生じるのだし、 その関係性はコンヴェンションなしには成立しない。 打てば響くといっても、打たねば鳴らず、 鳴らない鐘はただの重い金属の塊でしかありません。
この意味で、 シャインによる掛け合いは確かにフラットな会話であるとはいえますが、 ソロダンスの応酬ではあってふたりの「共ダンス」ではありません。 確かに、ふたつのソロダンスの化学反応もそれ自体とても楽しいものですが、 あくまでメッセージのやりとりであり、共に運動を作り出すこととは違うということ。 いい悪いというではなく、別ジャンルの楽しみなんですね。 これは運動の結合密度の問題とも考えられますが、 パートナワークはシャインの応酬よりももっと結合の密度が高い コミュニケーションだといえます。 密結合ゆえに相互作用が強く、役割分担が必要になります。 役割分担とは密結合の運動をデカップリングするための規約といいかえることもできます。 そのため、ダンスはコンヴェンションとともに信頼を必要とするのでした。 信頼することは裏切られるリスクを引き受けること。 それゆえに尊いあり方といえますが、 信頼してくれた相手を裏切らないようにするというのも相応の重荷です。
本当に素晴らしいパートナダンスを踊り了えたときの名付けようのない幸福感には、 相手が信頼してしてくれたことへの感謝と、 その信頼に応えることができたという安堵感も含まれているかもしれません。 偶然に開かれること、 行きずりの人を信頼することの困難がパートナダンスの快楽を倍増しにします。
ベーシックの互酬性
さて、もうひとつのパートナワーク批判として、 コンヴェンション自体が既に非対称な権力関係を孕んでいる、 という問題意識はどうでしょうか。 ここではベーシックステップを例に考えてみましょう。
コングレススタイルのベーシックステップでは、ブレイクタイミングこそ異なるものの、 いずれも前後運動、お互いに前進と後退を半分ずつ繰り返します。 ここでリードの要諦はフォローの足を動かすということ。 どこで始め、どこで変化させるかを決定するのはリードの役割です。 無理矢理動かすことはルール違反なので、コネクションによってそれを伝えるのですが、 上手く動いてくれるかどうかはその伝え方と共にフォローの技量にも依存します。 互いの協調と技量と信頼に基づかねばベーシックさえ踏めないのです。
リードとフォローは交互に先手をとってアクションすることで 相手の反応を引き出し合います。 まさに掛け合いということですが、 これを互酬性といいかえることもできます。 互酬性とは分かりやすくいえばギヴ・アンド・テイク、 互いが互いのために利益や恩恵を与え合う関係のこと。 英語では reciprocity といいますが、 "reci-" とは「後ろに」という意味、 "pro-" は「前に」ですから 互酬性 reciprocity とはつまり前後に動くということ。 そう、サルサのベーシックステップは象徴的に互酬性を表しているのです。
どれだけ優れたダンサでも独りでパートナダンスを踊ることはできません。 ビギナだろうがスタイル違いだろうが相手がいなければダンスそのものが成立しません。 ふたりが自律的に動きながらも互いに相手を必要とする関係であり、 リードはフォローに依存しなければリード自体が成立しないのです。
飯を食べるには箸を持つ右手(フォロー)と茶碗を持つ左手(リード) が協調しなければなりません。 左手が右手に不満をいうなら両手に1本ずつ箸を握ることになりますが、 とても食べにくい。 逆に両手で茶碗を持っても犬食いしかできません。 フォローとリードがそれぞれの仕事をなしてこそ飯の味(サボール)を堪能できるのでした。 口に飯を運ぶという両者よりも「上位にある意志」によって 右手と左手の関係はフラットに組み直されます。
ただ、それでもそれはリードの技量や態度が理想的な場合であって、 実際のフロアでは「上位の意志」を無視しフォローに対して家父長的支配を欲する リードが存在する余地は残っているではないか、 という指摘がありえます。 そして、確かにコングレススタイルのパートナワークの文法自体には これを抑制する機能はありません。
というのも、このコンヴェンションはフォローとリードの 2者関係だけでもパートナワークが成立するようには出来ているからです。 上級者あるいは人格者だけが集まるフロアなら通用するかもしれませんが、 もっと現実的には相互リスペクトの前提が破られる場合には ダンス相手が泣き寝入りするよりないというルールであり、 この点を指摘する批判は簡単には叩けません。
これは互酬性の議論との関連でいえば、 フリーライド問題として理解することもできます。 相手からの利益は受けとるが自分は何も差し出さないという人をどうするか、 という問題ですね。
ダンスフロアにはスポーツのように審判やジャッジがいる訳ではありませんし、 ルール違反者を取締まったり排除したりするというのは難しい。 ルールブックがある訳ではありませんし、違反の基準は曖昧です。 こうしたコンヴェンションが期待されていることそのものを理解しない人も多いし、 コネクションを一定の水準までマスタして使いこなせるようになるには練習が必要で、 時間も掛かりますから、すべての人に強制できるものではありません。 悪意あるフリーライダ以上に無自覚の人の方が多そうです。 ふんわりと上級者以外お断りとしてしまうのはただのエリーティズムですが、 コングレススタイルはエリーティズムとの親和性が高いという批判もあります。
パートナダンスがフェアなダンスであることは難しいのでしょうか。
ここで、パートナダンスをフォローとリードの2者だけでなく、 もうひとつ別のエージェントの存在を考えてみましょう。 すなわちリードとフォローの「上位の存在」としての音楽を思い出すということ。 そうするとリードはフォローの方を向いてガイド/お伺いする役割ではなく、 音楽をフォローし、 その解釈をフォローに差し出す媒介者としての役割であることに気付きます。 この関係の3者化は、さらにコングレススタイルを巡るもうひとつの問題、 音楽家とダンサの乖離についても重要な調停の契機を与えてくれます。
明日に続きます!