Merengue Panic



Advent Calendar 2023 20日目の記事

サルサスタイル考(5)

サルサはメレンゲと違ってスロット、キューバン、カリなど、 いろんな種類のスタイルがあるとされます。 on1 と on2 の違いとは、なんて話はあちこちで聞きますね。 サルサのスタイルはどうやって分化したのか。 ソーシャルダンサはどのスタイルを選択するべきなのか。 商業主義やレイシズムとも関係するこの論争的な話題を考えてみます。 5回シリーズの5話目!

コングレススタイルの功罪

現在主流で踊られるコングレススタイルのパートナワークは、 サルサの音楽構造とほとんど無関係に成立する仕組みであるがゆえに、 高い抽象度と合理性を獲得しており、 ある程度その文法を体得した者同士で踊る場合は自由に踊ることができるシステムです。

一方で、一定の水準でこのコンヴェンションを理解・習熟していないダンサにとっては、 ハイコンテクストでハードルが高く、 一定期間のトレーニングを強いる構造ともいえます。

このハードルを少しでも下げるという意味でミュージカリティを気にしなくてもいい、 というコングレススタイルの性質は好都合でした。 リズムグリッドが4/4でありさえすれば、 どんなターンパタンをどんな曲のどこのパートにあてても「それなりに」合う。 ただでさえベーシックステップやコネクションの習得は大変なのですから、 その上ミュージカリティを意識したダンスを要求するというのは著しく大衆性を損ねます。

ただし、音楽との噛み合いがない、ということには大きなドローバックも存在します。

何より必然的にダンサは音楽への関心が薄れます。 サルサを日常的に踊る人でラテン音楽の CD を全く持っていない人というのは決して少なくありません。 十数年サルサインストラクタをやっていて、 Celia Cruz や Tito Puente の名前さえ聞いたことがない、 という人もいます。 アフロ=ラテン音楽の特徴や歴史についても知りませんから、 クラーベにさえ興味がありません。 バースデイサルサやルエダでクラーベを 手拍子する場合も周りに合わせて見よう見真似で叩くだけ、 ほとんどの人はずれていても平気です。 こうした、音楽に対する無関心は 世界中のダンスフロアでごく普通に観察できます。

コングレス黎明期はロマンティカが盛り上がったタイミングと重なり、 サルサミュージシャンはその技量や音楽性で評価されるよりも、 見映えのよさやアイドル性の方が重視される傾向にありました。 ダンスフロアで初めてラテン音楽に出逢った人々にとって、 その奥深さを理解したり味わったりする機会が少なかったといえます。 これが燻し銀の職人ミュージシャンたちからすれば面白くないのは当然のこと。 80年代以降の長い潜伏期を耐えてきたラテンミュージシャンたちが コングレススタイルのダンサを批判するのは理解できます。 音楽を愛するクラウドは踊る人たちのこうした態度を軽蔑し、 ほとんどパートナダンスを踊りません。

Eddie en vivo
Eddie Palmieri en vivo / ©www.palmierimusic.com

ダンスフロアでのライヴはほとんど開催されないか、 たまに開催されても不健全なあり方をしています。 ダンサの要求と音楽のあり方が食い違っているからです。 普段 DJ のスピンで踊っているダンサは長い曲を踊り慣れていませんから、 10分や15分もあるソロ回しの多いライヴ演奏では疲れてしまいます。 また、生演奏の場合、ミュージシャンはその即興性や音楽的技巧を披露しますが、 これもストレートなリズムが前景化した分かりやすい音源以外で踊らないダンサには 複雑すぎて踊りにくいのです。

例えば、ニューヨークの有名な Jimmy Anton's Social では、 ライヴ演奏を行うミュージシャンに 決して6分を超える曲を演奏しないように誓約させるといいます。 サルサのハイライトはモントゥーノ。 そして、このモントゥーノはコール・アンド・レスポンスですから、 興が乗ってくれば延々と継続できる即興性と遊戯性こそが醍醐味ですが、 最初からその可能性を潰しておかなければダンサの前で演奏させてもらえないのです。

また、観客としてのダンサの態度にも問題があります。 コール・アンド・レスポンスをその核心に持つライヴでは、 観客の反応の質が演者のパフォーマンスを決定します。 ライヴが盛り上がるかどうかは、俗に演者3割客7割、ともいいます。 素晴らしいソロがあれば聴衆は拍手や歓声で応えますが、 ダンサはずっとダンスをしているので拍手はせいぜい曲の終わりだけ、 まったくステージとフロアのコミュニケーションがなくなってしまうのですね。 踊らずにかぶりつきで観ている人々だけが反応してくれるのなら、 バンドからしてもダンスフロアは不要ということになってしまいます。

ちなみに、かつて生演奏以外に音源がなかった頃のダンサたちは、 ソロが終わるたびに踊りの途中でもステージの方を向いて拍手していたといいます。 ミュージシャンとダンサの間に相互リスペクトがあった時代の話です。

こうしてリズムのいいバンドはダンスフロアでの演奏を避けるようになり、 このような条件でも演奏してくれるフレキシブルなバンドだけが残ります。 残念なことにビジネス的に寛容であることと音楽的能力が高いことは必ずしも共起しない、 というよりも反比例する傾向があります。 つまり、ダンサが生で聴く機会の多いバンドは、 リズムが悪いバンドである確率が高くなり、 それはそれで踊りにくいので結局レコードの方がいいやということになります。

一方で、 サルサをはじめとするラテン音楽は 大衆音楽として限界に近い難度の音楽であることも事実です。 もう一歩左に踏み出すとほとんど実験音楽や藝術音楽といっていいし、 右に踏みだせば伝統音楽や民族音楽になる。 それなのに、全体としては大衆音楽です、ということになっています。 アフリカやヨーロッパの様々な音楽のミクスチャであり、 その成立にも複雑な曲折があって一筋縄ではいかないのがアフロ=ラテン音楽。 ポリリズムとコール・アンド・レスポンスのコンセプトを理解するだけでも大変ですが、 身体的にそれを体感できるようになるにはちゃんと耳も鍛えなければならない。 つまりパートナダンスとは別の方向でかなりハイコンテクストなんですね。 だから、音楽そのものを味わえるようになるにはこれはこれでまた別のトレーニングが、 しかもダンスよりも遥かに時間のかかる習熟が必要です。 パートナダンスを覚え、 さらに音楽も学ぶ、 というのは専門家以外にとっては要求水準が高すぎます。

それでもダンサにサルサの音楽は好きですか、 と訊くとほとんどの人は「好きです」と応えます。 多くのダンサがサルサ音楽に魅力を感じていることは確かなようです。 DJ さんたちの中にもダンサから不満が出ることを承知の上で、 踊りやすさと無関係な名曲を紹介しようと工夫を凝らしている人もいます。

コングレススタイルのサルサの功罪はその両面をきちんと評価する必要があります。 少なくともコングレス以降のダンスコミュニティのおかげで、 50年代や70年代のラテン音楽が再評価されたり多くの聴衆に届いたことも事実ですし、 80年代のニューヨークを支えたメレンゲが世界中で掛けられるという状況も、 この流れなしにはありえませんでした。

他方で、コングレススタイル以降のサルサダンスは 音楽と分離することで初めてワークする構造を持っていたため、 人によってはダンサを音楽を解さない軽薄な存在と感じるかもしれません。 サルサの音楽とダンスはどちらも深い魅力がありますが、 どうしても反目し合ってしまう力学が働きます。 どちらも違った形でハイコンテクストなので、 一方から見ると他方の魅力は理解しづらいということもあるでしょう。 分断は根深く、簡単な処方箋はありません。

ベーシックの音楽性

ところで、 このようにダンサが音楽のことを気にしないことが前提のコングレススタイルなのに、 ダンススタイルの流派がその優位性を主張する際には、 そのミュージカリティを持ち出してくるのは面白い現象です。 実際、 on1 と on2 の論争ではしばしば音楽的な観点が議論になります。 on1 はダウンビート指向なので多くの人に理解しやすいとか、 on2 はコンガのビートに合うのでより音楽的だとか。 しかし、これまでみてきたようにコングレススタイルは そもそも音楽とのマッピングを棄てることで普及してきたスタイル、 音楽的な優位性を持ち出すこと自体がナンセンスです。

例えば on1 も ET2 もステップを踏む位置は8カウントで曲を解した場合 "123-567-" というタイミング。 足が床にタッチするオンビートのタイミングでカウントを感じるなら、 表拍しかありません。 もし、 on2 がコンガのアクセント、つまりスラップおよび オープントーンの2度打ち、にブレイクステップが合うというなら、 on1 はボンゴのマルティーリョのアクセントである1拍目と5拍目にマッチしています。 あるいはカンパーナのリズムやカスカラとも合っていますね。 コンガに合わせる方がボンゴに合わせるよりも 音楽的とはどういう理由で説明できるのでしょうか。

もっといえば、各楽器はそれぞれトゥンバオを演奏しており、 それぞれ異なるダイナミクスとアクセントを打ち分けています。 楽器ごとにクラーベにアラインしてアンサンブルになることで、 バンド全体がグルーヴするのがマンボビックバンドです。 つまり、1拍目から8拍目のウラまでの16パルスは、 どこで踏んでもどれかの楽器には当たるんです。 サルサのリズムにもし特別な意味のある拍を考えるなら、 その筆頭はボンボとポンチェでしょう。 クラーベの3サイドの2つ目と3つ目に相当する音で、グルーヴの骨格を作るパルスです。 ベースのトゥンバオは常にこれを打ちますし、 ティンバレスの手組みでも強調されます。 サルサバンドにおいて常にクラーベコンシャスなのはティンバレスですが、 もし on2 を "en clave" と呼ぶならせめてボンボくらい踏みたいところです。 ところが、コングレススタイルのベーシックステップに ボンボを踏むものはひとつもありません。 ポンチェを踏むのも power2 のみ。 このようにごく素朴に考えてみても on1 や ET2 が音楽的である、 という説明には説得力はありません。

それ以上に考えるべきは on1 や on2 を踏んでいると思っているダンサの間でも、 そのフラクチュエーション(拍の範囲内でのタイミングの伸び縮み) は非常に大きいということ。 つまり、 on1 や on2 を踏んでいるつもりの人がメトロノームのように精確に 1拍ずつ踏んでいることはほとんどないということです。 ダンサの意識ではちゃんとクイック・クイック・スローと踏んでいるつもりでも、 動画に撮ってタップの瞬間を採譜してみたり、 足裏にブーブークッションのようなものを仕込んで踊ってみたりすれば分かりますが、 誰が踊っても拍の長さは曲の間中かなりの幅で増減します。 体重移動でリズムを考える場合でも、体重移動には持続時間があり、 拍の間中重心は移動し続けますからパルスの境界を厳密に決定することは困難でしょう。 これはトップダンサやミュージカリティのあるダンサの場合でもそうで、 リード中に足が休んでしまう人が多いとか、 トラヴェリングターン中のフォローが帳尻合わせて 早く足をついてしまうとかいうこととは別次元の問題。 だから、理念型としての on1 といってもせいぜいフォローのバックステップ、 1拍目のタイミングがリードの左足とフォローの右足で揃うくらいで、 残りの5ステップは8カウントの中でかなりのばらつきで踏まれているのが実情です。

事情は on2 でも一緒です。 ET2 の場合、カウント自体が "1--2-3--5--6-7--" と1と5で 半拍シンコペーションすることがよくあります。 このとき、1と5がさらにもう半拍喰うならそれは全く power2 と同じになりますから、 ET2 vs power2 の論争も所詮シンコペーションの大きさの問題、 感じ方のわずかな差という解説もできるのです。 ちなみに同じ踏み方を on3 ですれば、 3拍目を半拍喰ってボンボが踏めるのですが、 あえてベーシックの音楽性をいうならこれが一番音楽的といえるのではないでしょうか。

もっといえば、リズム感に優れた on1 のソーシャルダンサは、3-2の曲で "12-3----5-6-7---" と踏んでいたり、 power2 のダンサが 2-3 のクラーベの曲に対して "--2-3---5-6-7-8-" と非対称に踏んだりするケースもあります。 実際に踏むポイントをクラーベのフィールに合わせることはこのように on1 や on2 でもフラクチュエーションの範囲内で調整可能です。 もちろん、踏む位置のマイクログルーヴは6/8的フィールも含めて さらに微妙に変化できます。 コングレススタイルの優秀さはリードとフォローの踏むタイミングが それなりにずれていても噛み合うこと。 リードが power2 でフォローが ET2 という状態でも問題なく踊れてしまいます。 さすがに on1 と on2 がそのままでは難しいでしょうが、 どちらかが少し譲歩すれば技術的にはほとんど問題ありません。

つまり、スタイルがどうかというよりも音楽的解釈については個人差の方がはるかに大きい。 コングレススタイルのベーシックは多少ずれてもリズムが合うように出来ているし、 逆に全面的にポリリズム感を出してパートナワークをしようとするのは 誰がやっても相当に困難です。

ちなみに、その音楽的優位性がどうのという話題よりも興味深いのは on2 ダンサや on1 ダンサと自認する人たちにとっては、 そのスタイル名が彼ら彼女らのアイデンティティになっているということ。 on2 Tシャツとか on1 Tシャツが流行ったこともありましたが、 自分がどちら側のダンサであるかを決定し、 そのスタイルであることに誇りを持ち、 別のスタイルの人を低く見るという傾向です。 ヒエラルキィとしては世界的に on2 が高いらしく、 on2 の人は on1 の人をやや馬鹿にしているし、 on1 の人は on2 の人をスノッブで感じ悪いと陰口を叩く、 そういう関係が観察されます。 ちなみに、 on3 の人はこの対立構造の土俵にさえ上げてもらえないアウトカースト扱いです。 on4 に至ってはその存在がなかったことにされています。

この意味で、 on1 と on2 ではどちらを学ぶべきですか、 という問いに対して on3 がいいですよ、 と応えるのはこの不毛な論争に対する関節外しとして有効です。

メレンゲでミュージカリティを

ところで、 いくらパートナダンスが人工的な「運動の運動」の仕組みであるとしても、 それが音楽に合わせて踊られるダンスであることに変わりはありません。 音楽なしにはダンスは成立しないし、 現代のサルサはサルサという音楽なしには踊ることができません。 この当たり前の認識に立てば ダンサは音楽とそれを作る音楽家への感謝を忘れることができない、 というのは真っ当な論理です。

パートナダンスにおける音楽の重要性がもっと大きくなれば、 当然ダンサは音楽に関心を払うようになりますし、 このことはダンサとミュージシャンの間の不和をある程度癒すかもしれません。

音楽を大事にパートナダンスを踊るということは簡単にいえば、 ミュージカリティを考慮しながらターンパタンを選択するということ。 音楽が高次に置かれることで、 リードの仕事は音楽のフォローとその翻訳ということになり、 ターンパタンの選択は自分の技量と能力の範囲内で音楽の解釈を フォローに差し出すことです。

このとき、フォロワが一方的にリードをフォローするという関係は、 フォロワがフォローするリードとはリーダが音楽をフォローしたもの、 という3者関係にシフトします。 つまり、リードもフォローも音楽をフォローするという関係であり、 命令する者と服従する者の間の非対称性ではなく、 音楽を直接フォローして即興的にターンパタンを繰り出すリーダと、 リードを通じて音楽をフォローするフォロワの並列的関係性に変化します。 フォローとリードは上下関係ではなく水平関係に配置され、 フォローとリードの上に音楽という、 より高次の法があることをお互いに諒解する、 という構造になります。

この関係性の変化はよりフェアなリード・アンド・フォローを実現します。 あるいは先に「アンド・ドリヴン」と呼んだパートナワークでは、 この「アンド」が音楽の上位性を示していると解釈することもできるでしょう。 この関係性の変化は先に見た互酬性を破綻させうるフリーライド問題を解決はしませんが、 多くのダンサが音楽の上位性を尊重しながらリードする、 という態度を共有しているコミュニティになれば、 自分勝手のリードがマナー違反であることはより明確に示される、 くらいの効果はあるかもしれません。

とはいえ、このミュージカリティをパートナワークにも導入する、 というのは既に議論したようにパートナワークの難度を大幅に上げます。 エリーティズムに傾いて大衆性を失っては大衆ダンスは生きていけませんから、 サルサのような充分にコングレススタイルが浸透しているダンスジャンルで 厳しくミュージカリティを要求するのは現実的ではありません。

ここに、改めてメレンゲを踊る意味が浮上します。 このミュージカリティを強調したパートナワークの実践場としてのメレンゲを考えるのです。 そもそもメレンゲにはコングレススタイルやそれに類するコンヴェンションが存在しないため、 複雑なパートナワークは難しいのですが、 ベーシックステップの単純さとタイミングの制約の緩さという2点のおかげで、 ゆっくりならいろんな展開が可能である、という特長があります。 ターンパタンの種類がサルサほど豊富にないということも手伝って、 メレンゲではよりミュージカリティを強調することが難しくありません。 まして、上級者が初心者と踊る機会では複雑なコネクションは使えませんから、 ミュージカリティか遊び心で勝負する以外にありません。

もっと多くの上級ダンサがメレンゲも踊るようになれば、 メレンゲで培ったミュージカリティがサルサにもフィードバックしやすくなり、 もっと音楽で踊るダンサが増えるのではないかと期待します。

急に何かが変わることは難しくとも、 ダンスフロアで音楽が大切にされるようになればなるほど、 サルサコミュニティは優しく、フェアで、コンヴィヴィアルな楽しい場所になる。 そう信じることはできます。

明日は新しいテーマです!

posted at: 2023-12-20 (Wed) 12:00 +0900