キッチンでは踊れない
込み過ぎのフロアは好きではない、 というのは多くのダンサの意見が一致するところです。 ではスカスカのフロアで踊りたいですか、 という問いにはこれまた否定的な回答が多い。
もしパートナダンスが男女の間の親密なコミュニケーションでしかないなら、 別にわざわざクラブやパーティに行くまでもなく、 心安い決まった相手とキッチンで踊っても充分楽しいはずです。 しかし、ちょっと想像するだけでも全く魅力がないですね。
これは、 クラブ用語を使って簡単にいえば、 キッチンにはヴァイブスがないということ。 スカスカのクラブでも同様です。
クラブでもパーティの開始直後や終了直前では空いたフロアになるケースがあります。 開始直後の場合はヴァイブスが足りず、 ダンサはフロアからエナジィを貰うことができません。 こういうときのダンスはいまいち盛り上がりに欠けるか、 不足分のエナジィをなんとか補填しようとしてやたら疲れます。 逆に終了直前の場合、その前に充分なフロアの盛り上がりがあった場合に限りますが、 ガラガラのフロアでもそのヴァイブスのエコーのようなものが残っており、 充実したダンスを踊れる場合もあります。
このようなヴァイブスの正体を定義するのはとても難しいのですが、 確かにダンスの満足度に大きく影響する因子です。 このことからだけでもはっきりいえるのは、 パートナダンスはふたりだけで踊っているのではないこと。 どういう理屈か分かりませんが、 周囲のペアたちが作るフロア環境はダンスの障害にもなるし助けにもなるんですね。
空き過ぎても駄目で混み過ぎても駄目だとすると、 では最適な混み具合はどれくらいでしょうか。 感覚的にいえば、フロアクラフトをほとんど意識せずに踊れる範囲で、 最も人がフロアにいる状態、と定義できるでしょうか。 周囲にペアが踊っているのがはっきり分かるが、 それを注意しなくてもほとんど接触がない状態です。
フロアクラフトの意識が過度に前面に出てくるといいダンスは踊れません。 周囲のダンサを常にウォッチしていなければならず、 ぶつかるリスクのあるパタンや位置関係をずっと把握せねばならず、 特に危険な動きをするリードやオフェンシヴなリードが隣にいる場合は ダンスどころではありません。 事故なく踊り了えることだけが目標になり、 ミュージカリティも遊び心も封印です。
溶け出す境界
それでも、確かにパートナダンスはリードとフォローのふたりで踊っているだけではないし、 周囲のダンサたちが発散するヴァイブスのエナジィを利用しなければ力が出ない。 この認識はふとした瞬間に恐しい感覚になって身体の中に駆け巡ります。 自分はパートナとふたりで踊っているつもりなのに、 周囲のダンサのエナジィが自分たちの中に入ってくる。 自分の個としての境界がぼやけ、 パートナとのペアが作る結界も薄くなり、 フロアの中がひとつの群体としてあらゆる人物の血液が自分の中に混ざって走る。 ヴァイブスの交感はほとんど知覚できない通路を通ってフロアが 運命共同体であることを突きつけてきます。 一度この感覚が貼り付くと、 境界崩壊は様々なレイヤで次々と雪崩れのように押し寄せます。
考えてみれば、現代人として生きるということはグローバルな経済関係のもと、 知識のレヴェルでも実感のレヴェルでもほとんど理解不能なほどに 世界中の人々の営みと接続されているのでした。 巨大な世界システムの構造の中にあって、 見知らぬ人や慮外の人と練り合わされた社会の中を生きていることを、 唐突に思い出させられます。 同時に、この暴力的な結合がなければ、 東アジアでサルサやメレンゲを踊る可能性に開かれることもなかったはずです。
音楽のリズムはフロアの時間を支配します。 音源の BPM が作る固有振動数を通じて、 確かにフロア中の人や物が共振しているのでした。 自分の聴解能が文節する太鼓の音と、 隣のリードが聴いている音の塊は少し離れた視点から感じ直してみると、 全く区別がつきません。
パートナ間の身体の境界も不鮮明です。 フォローはリードに手をとられているときには肩から先は自分のものではないと思え、 とアドヴァイスされます。 肘や肩に力が入り、上がってしまうとリードが利かなくなるためですが、 この言い方では既に身体という自分を世界の他の部分から分けるもっとも 原的で直感的な境界が不確かにされています。
フォローの足を動かす役割のリードにとっては フォローの身体が自らの身体の延長として感じられるので、 フォローがヒールで感じている床の反発をほとんど直接的に知覚できます。 自分の足裏の感覚と合わせて、どの足がどのタイミングでどこを踏むのか、 自分の足が2本なのか4本なのか、蒙昧となって分からなくなります。 あるいは足は8本だったでしょうか。 こうした身体感覚としてフォローを感じるというのはリードの側の感覚で、 武術家が刀を、ミュージシャンが楽器を、 運転手が車を身体の延長と知覚していることに比較できます。 一方のフォローは、リーダから与えられるターンパタンなのに 自分の意志によって決定しているように感じることがあるといいます。
言語の境界も曖昧になります。 スペイン語を解さない者の耳にイベロアメリカのスペイン語が詰め込まれ、 その言語的混淆の中からタイノ語やルクーミィの言葉が浸み出し、 意味から後退したオノマトペ、ソラミミ、 ハナモゲラとしてサルサやメレンゲの歌詞を聴くとき、 もはや言語の区別を溶かしたモノリンガルな世界語、 地底語とでもいうべき言語以前の言語に降りていきます。
ボーダランズのダピーたち
自己を守る身体の境界、 パートナとの境界、 意識や自我の境界、 ヴァイブスやエナジィの境界、 あるいは音楽とそれを構成する音も言語も、 空間も時間もその境界が不鮮明でミラーボールの光に溶けていき、 何が主体なのかぼんやりしてくる。 実はこの状態が理想的なダンスを踊っているときの内的感覚なのかもしれません。
しかし、同時に境界の消失は危機でもあります。 望まぬ穢れが自らの中で沸騰し、 居心地の悪い快楽と嘔気を催すような汚辱に分かれて襲ってくる。 不安を払拭しようといっそうリズムに没頭すると、 今度はそんな自分を冷静に眺める別の自分が隣のペアくらいの位置に立っていて、 離見の見のような境地でダンスの技術を採点していたりします。
身体を持っていることさえ忘れた自分と、 フロア全体の振動と協調して間主観のリードとなった自分、 それらを悠然として眺めているもうひとりの自分。 混ざり合い、分離し、攪拌されて白濁した全体としての自分。 分身たちのうちのひとりはもしかすると隣りで不快感を発散しながら 踊っている万年初心者リードかもしれず、 もうひとりは隅っこで張り付いた笑顔で自信なさげに踊っているフォローかもしれない。 こうした境地に至るとき、 もはや音楽やリズムに関する詳細な分析も聴解も棚上げになっているのに、 最もミュージカルに踊ることができる、という感覚があります。
とりわけフォローと一緒に グランデ を回るときにはあちら側でもこちら側でもない、 無時間・無空間の境域=ボーダランズが立ち現れます。
境界は危険な場所から安全な場所を分けますが、 境域は全くの霧の中。 そこの住人はみな半端者で、無宿人、畸形、不具、クィア、ならず者、骨なしたちです。 自分の中にある、あるいはサルサやメレンゲの中にある、 不定形で得体の知れない者たちが、 墓の中から蘇えるゾンビ(=ダピー)のようにわらわらと這い出してきます。
ここでのフロアクラフトは単に他のペアとの空間的利害関係のとりなしだけではなく、 この半端者たちをガイドするサヴァイヴァルの技術であり、 境域を境界から守るための結界としての力を持ちます。
リズムクラフト
この文脈で、本来のフロアクラフトが空間的な境界の調停であることに対し、 時間的なフロアクラフトを考えてみることができます。 1曲ごとの大きな粒度でも考えることができますし、 1小節単位の小さな時間的フロアクラフトを考えることもできます。
ところで「フロア」がパートナダンス環境の空間的要素を表すなら、 その時間的要素は「音楽」あるいは「リズム」と呼んでもいいはずです。 ですからここで「時間的フロアクラフト」といっている概念は、 もっと簡単に「リズムクラフト」と呼んでもいいでしょう。
前のパートと次のパートとを分け柔らかく橋渡しするのは リードとフォローの間の主導権の交代をスムースにするための配慮です。 ひとつの動きの終わりは次の動きの予備動作になりますから、 ここでも境界は単純な線分ではなく幅を持った 境域的振る舞いになると考えることもできます。
ここで空間的フロアクラフトが主にリードの責任であったことを思い出すとき、 リズムクラフトはまったくリードとフォローの共同責任であることが対比されます。 相対的にフォローの責任が重くなるのがここでのポイントで、 その要諦は悠々として急げ、と一言でまとめることができます。
相手から時間を奪うのではなく、 自分のステップに必要な時間だけを使ったら次の相手の分を充分確保できるように、 リソースを節約するということです。 先に見た空間的フロアクラフトの場合と同様、 平和的に限りある資源を分配する知恵が発揮されることになります。
リード同士は空間資源を譲り合い、 フォローとリードは時間資源を共有し合う。 ここにパートナダンスがフロア全体を通じて展開する エコシステムの原理を垣間見ることができないでしょうか。 ボーダランズに徘徊する恐るべきダピーたちに優しい眼差しを送ること。 ダンスフロアは現代社会に例外的に残っている博愛主義の拠点かもしれません。
明日に続きます!