Merengue Panic



Advent Calendar 2023 23日目の記事

境域のフロアクラフト(3)

クラブダンスは見知らぬ男女と時空間をシェアする混淆の体験。 パートナダンスでは幾重にも張られた様々な種類の境界が、 攻められ、破られ、守られ、撥ね返され、溶け合い、 伸び縮みしています。 今回はそのフロントラインでのせめぎ合いを吟味しつつ、 身体と境界、警戒と信頼、混淆と危機といったテーマを フロアクラフトの観点から考えてみます。 境域の十字路を巡る5回シリーズの3話目!

ダンスフロアの博愛主義

パートナダンスのフロアクラフトやリズムクラフトがある程度 平和的に実践できる理由を、ある人は 「ダンスフロアはゼロサムゲームではないから博愛主義が成立する」と説明しました。 「ゼロサム」とは誰かが得をすれば誰かが損をする世界のこと。 世界に存在する財や価値が一定であり、 全体の損得を足すとゼロになるという意味です。 このような資源の限られた世界での損得は必ず勝者と敗者を生み出します。

ところでフロアのスペースも運動をするための時間も有限です。 ですから、一方のペアが大きく踊れば他方のペアが踊るスペースは小さくなりますし、 リーダがリードしやすいように時間を使えばフォロワは窮屈に フォローしなければなりませんし、 逆もまた同様です。 一見するとフロアクラフトもリズムクラフトもゼロサムゲームに見えるのにどういうことか。

ここではスペースや時間が価値と同一視されていないんですね。 つまり、パートナダンスはダンスフロアで踊る面積を多くとれば勝ち、 というゲームではないということ。 パートナダンサたちが最終的に求めている価値は「楽しく踊る」ことです。 「楽しい」とは何かを定義するのは難しいですが、 それぞれ充実したダンスを踊りたいと願っている訳ですね。 自分たちのスペースを確保することは楽しく踊るための必要条件ですが、 それだけで楽しい訳ではない。 先に議論したように他のペアのヴァイブスも関係するのでフロアを占有するのはむしろ逆効果、 その意味では自分たちが使う分以上を主張することは自分たちの利益にも反するのです。

リズムクラフトについても同じことがいえます。 ふたりでスムースなパートナワークを展開することが肝腎なのであって、 自分だけが時間的余裕を持って動くことに意味があるのではない。 むしろ、相手に時間的余裕を与えないと、 相手はバランスやタイミングを失うので今度は自分がそれを フォローアップしなければならなくなります。 それは次の展開における自分の動きを制約してしまうので よい結果になりません。 ここでも時間を融通し合うことがお互いにとっての楽しさを高める効果を持ちます。

このように、ダンスフロアでは排他的にリソースを占有するよりも 共有した方がお互いの楽しさが増加します。 快楽の量を増やすには独占よりもシェアした方がよいのです。 快楽の総量は一定ではなく、参与の仕方によって増加するものなのです。 これは商業主義的思考に慣れた人にとっては新鮮かもしれません。 相手が楽しくなることは自分が楽しくなることに通じ、 隣のペアが楽しいことと自分たちのペアが楽しいことは共起するのだという関係がある。 したがって、局所的にはスペースを狭くさせられるとしても、 そのことで揉めたり相手を牽制したりすれば、 相手のペアの快楽を減じます。 また、そうしたバトルをしていること自体も自分たちのダンスを劣化させもします。 その隣のペアのフォローは次に自分が踊るフォローかもしれず、 エナジィのレヴェルを下げてしまったら次のダンスが楽しくないかもしれません。 しかも、先に見たようにフロア全体を境域として考えるなら、 まさに運命共同体、極論をいえば 全員で楽しくなるか全員でつまらない思いをするかという選択になります。 こうした条件では個別にいちいち揉め事を起こす動機がなくなるのです。

人を楽しませねば自分が楽しくなりえないということ。 もてなしの喜び、喜ぶ顔を見る喜びを中心に考える場がダンスフロアかもしれません。

一方で、漱石の嘆き、 「えらい方が勝つのぢや。 上品も下品も入らぬ図々敷方が勝つのぢや。 賢も不肖も入らぬ。 人を馬鹿にする方が勝つのぢや。 礼も無礼も入らぬ。」というのは切実な近代の条件。 ただ、ダンスフロアはまさに 「二個の者が same space ヲ occupy」する場所。 近代の文脈の中で、 あれかこれかの論理ではなくあれもこれもの論理をなんとか打ち立てられるかもしれない、 第三空間の実験場でもあります。

しかし、このようにある程度までは博愛主義的ダンスフロアを信じることができるとしても、 それが充分な水準かどうかについては疑問が残るし、 真に理想的な状態といえるかどうかはまた別の問題があるでしょう。

部分的にはパートナダンスの世界にも沢山のゼロサム的条件はあります。 例えば人と曲。 ある人気のダンサが誰か踊っていたらほかの人はその人と踊れません。 1曲単位でみればそれはグッドダンサの争奪戦という見方もできます。 特に問題になるのはみんなが大好きな名曲が掛かって、 この曲はこの人と踊りたい、となる場合。 このパーティではこれ以上の1曲はもうないだろうと想像するならどうしても 目的の人を掴まえたい、というダンサは一定数いますね。

ちなみに、この状況は DJ さんの信頼度が高い場合は緩和できます。 高い割合でよい曲を提供し続けてくれるスピンなら、 この曲が駄目でも次があるかもしれないという期待を繋ぐことができ、 争奪戦の過熱を抑制してくれるかもしれません。

ともあれ、この快楽を価値とする世界は ゼロサムではないので境界問題が発生しにくいという仮説も、 このように局所的な快楽の大小を巡って争いが生じるケースはあります。 ここで問題となるのは特定のダンサの技量の高低とか見た目の良し悪しといった 審美的要素。 美しいものには価値がある、面白いものには価値がある、 人格的・倫理的態度には上下がある、 というヒエラルキィだけは快楽主義の領域であっても否定できません。

もうひとつダンスフロアでの問題は嫉みや妬みの問題。 人が喜ぶのを喜ぶ、というのがダンスフロアの基本的態度であると考えてきましたが、 人間の中には人が喜んでいるのが気に入らない、というネガティヴな感情もあります。 ダンスの現場はいろんな人がくるのでこうした劣化した感情にあてられることも ゼロではありません。

例えば自分のお気に入りのダンサがいるとして、 その人は自分と踊っていてもそれほど楽しそうではないが、 別の人と踊るととても楽しそうに踊る、というようなことは普通に起こります。 こんなときにネガティヴな感情をフロアの中で発散してしまうと、 フロア全体の喜びの総量を減じることに加担してしまう訳ですね。 ここで愛の問題が幸福の源泉であると同時に 不幸の源泉であることを思い出す必要があります。

愛と放擲

字源を遡ると「愛」(=「旡」)という漢字は比較的新しい字であり、 また「疑」という字の初出「矣」は「旡」の甲骨文字とよく似た構造をしているといいます。 体操の野口三千三はこの類似性から 両者の精神的あり方が根本的に同じであることを説きました。

Abandancing
「疑」の字の甲骨文字

これは後ろを振り返っている杖をついた盲目の老人であり、 どこか遠くにいった子供を気にかけているが何もできない、 という姿を表しているといいます。 「愛」の原字である「旡」は「既」という字の右側部分で、 後ろを向いてゲップをしている人の様と解説されることも多いですが、 野口はこれを「疑」という字と同じ構造で、 気にかけているものがあるが、 それに対して何も手出しできない無力の状態の人の姿と見ました。

愛することは対象のために何かしてやるとか守ってやるとかいうことだと考えがちですが、 ここでの定義はまるで反対、何もできない状態だからこそ愛なのだといいます。 それは疑うことと同様に後方に置き去りにした何かを思い 遠くから振り返って「大丈夫かな」と心配する気持ちを表しています。

ここでは不安は愛の証明であり、 愛するがゆえに不安や恐怖が生じる。 愛が不幸の源泉でもありうるとはこの意味においてですね。 むしろ愛の必然的結果として生じる不安を抱きしめることにこそ、 愛の尊さの根拠があります。

つまり、弱さや恐怖こそが愛の肝腎であり、 逆に対象を守ろうとして監視したり管理したりするのは全く 愛を投げ捨てることに等しいということになります。 だから、 ディジタル監視社会というのはポスト・トゥルースやポスト・プライヴァシであるだけでなく、 「ポスト・ラヴ」の世界でもある。

ちなみに英語の love という語は leave と同根です。 leave とは「誰かを置いて去る」ということ、いなくなるということです。 まさに気にかけつつも遠くにある状態のことで、 愛と love は語源的にも同じアイデアを共有します。 テニスなんかでは点が入らない状態を "love" といいますが、 この love はゼロを意味します。 さらにいえば friend という語は free と同根で元はやはり愛するという意味。 友情というのも相手を自由にすることの謂であって束縛することではありません。

また、嫉妬は愛の変形した姿ではありますが、 愛とはこうした嫉妬から自由になることともいえます。 愛が嫉妬に転落するとき、 快楽主義はゼロサムゲームに堕する。

快楽とは結局、個の境界を破壊することにあります。 それがパートナダンスの原初的な動機ともいえます。 ひと組のダンスペアという、一段階大きな「個」を成立させる境界にも、 それ自体を破壊する自爆装置が最初から埋め込まれています。

ゼンマイが巻かれた力の分だけ強く解けようとするように、 パートナダンスは、 個あるいはペアの周囲の境界を建設していく営みでありながら、 それを壊していく力を蓄えていく行為でもあります。

さらにいえば、アニメーションの歓喜も、サッカースタジアムの昂奮も、 あるいはファシズムの狂乱さえも、 この危険な情動に突き動かされてのことといえます。 自己を拡大した上で自己破壊を企てる人は厄介ですが、 これを「愛」と呼ぶこともできます。

ダンスフロアで人の喜びを増やす方向の働きだけが駆動するために、 もっとも大きな障害となるのが妬みや僻みです。 自分以外の誰かと誰かが楽しく踊っているエナジィは 巡り巡って自分にも資することになるのだという論理的な理解だけでなく、 所有欲や虚栄心を放擲することがそのエコシステムの核心となります。 愛とは棄て去ること。ただし、それは無関心とは異なります。 気にかけつつ棄て去る。何もできないことを知りつつ気にかけるのが愛であり、 ダンスフロアを律する重要な掟なのでした。

価値の貴賤があれば妬みは生まれます。 価値を持たない人は価値を持っている人を羨む。 ダンスフロアでは政治的・経済的・社会的価値はほとんど無意味で、 お互い誰が何者だか知りません。 国籍や民族や肌の色や門地、年齢や学歴などは大した価値を持ちません。 ダンスフロアで価値を持つのはダンスが上手いかどうか、 見た目が魅力的かどうか、人格的魅力があるかどうかという3つの尺度くらいです。 ダンスフロアは外の世界に比べてずいぶんと単純に出来ています。

これらの価値は金銭や土地や役職と異なり、 単純に他者のそれを奪って自分のものにすることが出来ないという点で市場化に向きません。 市場原理が働きにくいことがダンスフロアが比較的平和な理由かもしれません。

先に見たようにダンスフロアの群体性を念頭に置けば、 ここではフロアのスペースやダンスの時間、 パートナして選択される相手および DJ がスピンする楽曲にいたるまで、 誰か特定の人の占有物であることがいちいち否定されるロジックが組込まれているとも 解釈できます。 リズムクラフトとコネクションの関係まで含めると、 自らの身体さえもはや自分の所有物であるということを宙吊りにして行うアクティヴィティが クラブパートナダンスといえます。 所有権の放擲、それはアフロ=ラテン音楽への、クラブカルチャへの、 パートナダンスへの愛、といっていいでしょう。

さて、実際のフロアでは毎曲ごとにフロアクラフトが行われ、 各ペアのダンスにおいても曲ごとのパートナアップにおいても リズムクラフトが行われています。 これは例えば政治的な現場での領土問題とか権力争いと比較して、 極めて穏やかかつ平和的な合意形成があるといえます。

ただ、一方でこれまでも見てきたように、 揉め事がないというだけで、 ダンサの妥協や受忍や沈黙のような見えない不公平に支えられていることもあり、 必ずしもエフィシエントなフロアクラフトが実現しているとはいえません。 依然、フリーライド問題の処方箋はありません。 フロアクラフトの探究にはもっと喚起的な可能性があるでしょう。 とりあえず、不完全ではあるが一定程度の 博愛主義的関係性がダンスフロアでは通用している、 くらいにいうことならできるでしょうか。

現状で観察されるフロアクラフトの政治力学は、 具体的に何をどうすると充分にフェアだといえるのか。 こうした問題意識から、 別の世界の境界問題を参考にすることでダンスフロアのフロアクラフトを どのように再想像できるか探ってみることにしましょう。

明日に続きます!

posted at: 2023-12-23 (Sat) 12:00 +0900