理想郷フロアの味気なさ
思考実験として最も理想的なフロアを想像してみましょう。
リードとフォローの数は等しく、 効率的にフロアに配置すれば参加者の8割が同時に踊れるくらいの人数がおり、 全員エスタブリッシュトなダンサです。 彼らのうち、誰も人の前に立つ者はいないし、 みな礼儀正しく、マナーを心得ています。 床はよくメンテナンスされたウッドフロアで、滑り過ぎず、適度な広さ。 天上中央には反射率の高い大きなミラーボールがひとつ回っています。
フォロワたちは、 すらりと真っ直ぐ立ち、美しく、瞳には力があり、 足腰がしっかりし、 踊るべき曲とそのタイミングをよく心得、 音楽が始まる前にリーダを誘うことはありません。 タイム感がよく、ずっしりと図太いクラーベ感の持ち主たちで、 サルサやメレンゲの曲をよく知っており、 即興的な遊び心と機知に富み、知的で自信があり、エナジィに溢れ、 身体はしなやかによく動き、 手指と腕は脱力して弾力があり、 柔らかくコネクションを使います。 動きの中でもバランスを崩さず、常にリードよりもゆっくりとステップを踏み、 難度の高いターンパタンもさらりとフォローしながら、 自分のスタイリングや表現も同時に楽しむ。 よく似合う機能的な衣裳を身に付け、気持ちのよい態度と深い笑顔で踊ります。 このフロアでは全員そんなサルセイラたちばかり。
一方のリーダたちについていえば、 清潔でこざっぱりし、謙虚で、フォローに対する心からの謝意と敬意を持ち、 ステップのタイミングを心得、 音楽の聴解能が高く、様々な曲の詳細をよく覚えており、 初めて聴く曲であってもちゃんと展開を予測することができ、 リードはクリアかつスムース、柔らかいコネクションと安定した身体運動能力を持ち、 パートナワークの心を知っています。 フレームは心地良く安定し、 どんなに狭いところでも針の糸を通すようなフロアクラフトが巧みで、 フォローの反応をよく観察しながらリードし、 相手のスタイルや技量を勘案して音楽をターンパタンに翻訳する能力に富み、 遊び心と笑顔がチャーミング。 そんなリードがずらっと並んでいます。
男女ともに音楽が始まる前にパートナを誘う人はいないし、 直接の会話の流れでなければ カベセオ でのパートナアップがフロア中で実践されます。
ダンスフロアに出るとどのペアもエフィシエントに並び、 自分のスロットの範囲を無意味に出ず、 周囲のダンサへの気遣いがあります。
万一、小さな接触が起こったとしても、 誰の責任ということなく両ペアの4人全員が目配せで気遣い合う。 踊っているペアの間を歩いていく人はいないし、 どのリーダもフォローに対して無理なリードを強制することはなく、 Tスタンスをするリードはひとりもいません。
曲がブレイクするとフロア全体が静止し、 まるで箱そのものが踊っているような一体感です。 曲の終わりではどのペアも綺麗にカデンツを決め、 笑顔で挨拶を交わしながらフロアを空けます。 何曲踊ったとしても靴に蹴られた痕はできないし、 どのダンサも互いを理解し尊重し合っていることが分かります。 相補的な関係は自由に展開しながらも協調的に動いていきます。 どのダンスにも双方から充分なエナジィが投じられ、 一方が他方に依存するような光景はありません。
このようなダンスがフロア中でパーティの最初から最後までずっと続きます。
さて、仮にこのようなパーティがあったら参加してみたいと思うでしょうか。 多くのダンサはちょっと嫌な感じがするんじゃないでしょうか。 どの条件もいちいち理想的なはずなのになぜかあまり魅力を感じない。 一体どうしてでしょうか。
なんだかあまりに清潔すぎて魅力がないんですね。 迫力がない。 カオティックな、アルカイックな人間的パワーを感じない。 みんなが上手なダンサでみんながフロアクラフト巧者で ひどくぶつかるなんてことがまずなくて、 来ている人たちは技術的に上級者で人格者でもある、 確かに普段のフロアではこういう状況を渇望してもいるのですが、 すべてが完全に揃ったフロアだと魅力が消えてしまう。 影がなく、襞がなく、不透明さがなく、獣がおらず、 危険や危機の気配がしない。 死者も幽霊もダピーもこのフロアからはきっと駆逐されています。 半端者、無宿人、畸形、不具、クィア、ならず者、骨なしが見あたらないフロアです。
もちろん、きっと安全で快適なフロアでしょう。 目一杯踊るだけが目的の男女にとっては天国のような場所かもしれません。 無駄に不快感を発散しているだけの厄介者や、 指を強く握って捻ってくる乱暴者がいないというのはホッとするでしょう。 決して上手いのが駄目といっている訳でもなく、 技術があることも人格者であることも間違いなくフロアでは歓迎される資質です。 ただ、全員が均質に同じ特徴を持っているとなると気持ち悪い。 ツルッとした空気。 もしこのフロアにちょっと変な初級者さんが紛れ込んできたら その人とばかり踊りたくなるかもしれません。
いうまでもなく、思考実験ですから、 こんなパーティは現実にありえるはずもない。 あり得ないパーティという意味でまさにどこにもない場所、 ユートピアのダンスフロアです。 なのになぜかあまり魅力がない。 不思議ですね。
だとすると理想的ではないが魅力的なフロアとはどんなフロアでしょうか。
例えばこんなフロアを想像してみます。 ダンサの技量には幅があり、 理想郷のフロアから連れてきたリードとフォローも少しずついますが、 それ以外のメンバは初心者や初級者から、 様々なレヴェルの人がいます。 多くの人はそれなりにマナー規範を理解していますが、 技量によって、性格によってそれらを実践できる人は2/3くらいです。 パーティ全体の雰囲気を恐さない程度にアウトローな人たちも混ざってきます。
フロアにはどんどんペアが入ってきて、 スロットの方向もまちまち、 スタイルも on1 、 on2 、 キューバンといろんな人が混ざり合っています。 たまに足も蹴られるし割り込みも多いけど、 こっちのフロアの方が魅力的、という感じがあるでしょうか。
完璧主義の面白みのなさという観点でも説明できるかもしれませんが、 やはりクラブパートナダンスは大衆ダンスということでしょうか。 とりわけサルサやメレンゲの掛かるラテンクラブの場合、 混淆をその常態とするメスティサヘに対する懐しさがあります。
あるいは、 不完全を受け入れることで生まれるヴァイブスがあるといいかえることもできます。 もちろん、周囲の人は基本的にはグッドマナーのグッドダンサである方がいいに 決まっていますが、 変な人たちを完全に排除したフロアからは失われてしまうアルカイックなエナジィがあります。 混ざっている、という感じから生じる、 自分が群体の一部として溶け出すあの感覚をどこかで求めてしまっているのかもしれません。 清潔すぎる世界の住人であることに疲れるという気分もあるでしょう。 さらにいえば、理想郷のメンバになるには相応の選抜を受けことになるでしょうが、 その地位を維持することの精神的負荷はダンスを踊る快楽に 見合わないほど肥大化するかもしれません。
優れたダンサだけで排他的に引き込もって超然としたハイクラスを形成する、 というのはサルサ・メレンゲ的ではない感じがあるんですね。 腹が立つ相手や不快な人も混じってはくるが、 それを排除する論理を立ててしまうとその論理自体が自分にも跳ね返ってくるということ。 敢えてそうした俗悪の人たちとつるむ必要もないですが、 好き嫌いということとは別に、同じフロアを共有する者として、 みな大切である、という考え方です。 そして個々のダンサはこの雑多なフロアにあればこそ、 理想郷フロアのダンサのように踊れるようになりたいと努力するのかもしれません。
ダンスフロアのポトラッチ
この雑多なフロアにおいてのみ、 パートナワークの核心であるギヴ・アンド・テイク、 レシプロシティを発揮することに価値が生じます。 理想郷フロアでは出した分がちゃんと返ってくることは当然のこととして期待できるし、 その期待が裏切られることはまずない。 それはもはや相手を信頼する必要がないということ。 不安のない愛が存在しないように、 裏切られるリスクがないなら信頼もまた存在しえないのでした。 つまり、理想郷フロアは上級者かつ人格者ばかりが集う場所であるがゆえに、 不安もリスクもなく、つまりは愛も信頼も存在しないフロアという逆説が生じるのです。
いま、理想郷フロアは現実には存在しないことを思い出すと、 我々が通いうるフロアでは、程度の大小はあれ、常に不安とリスクがつきもの。 そしてその不安とリスクこそ、ダンスフロアの大切な隠し味なのだと知るのです。 だからこそ、もっとも理想的なフロアの条件が薄気味悪く嫌な感じを与えたといえます。 どこまでいっても不完全でしかありえない人間が、 その不完全さを引き摺ったまま出逢う場所がパートナダンスの現場です。 スパイスが強すぎるのも考えものですが、 まったく刺戟のないサルサには味わいがありません。
ここでの互酬性の発揮は見返りを求めない蕩尽であり、 持ち出しを覚悟しなければなりません。 逆説的にはこの覚悟を突き付けるフロアは雑多でなければならず、 出し惜しみのないダンスという価値が浮上します。
そして、世界で最も優れたダンサでも決して理想郷のダンサではありえない。 全員が不完全ですから、 ここで企図した蕩尽もまた不完全でしかありえません。 存在の不完全さを引き受けながら、 カオティックな群体フロアへと引き込まれていくのは混淆文化に感染した者の宿命ですね。
では、不完全な蕩尽者としての理想形を、 次は思考実験ではなくアステカ神話の太陽神に求めてみましょう。 雑多でカオティックな混淆文化における無限の蕩尽のロールモデル。 太陽神ウィツィロポチトリの挿話です。
5番目の太陽
前アステカ時代の社会は男女の相補的なバランスが保たれていた、 といいます。 創造神オメテオトルは両極性の神であり、 その男性原理と女性原理はオメテクトリ、オメシワトルと呼ばれます。 そして、蛇の女神コアトリクエが男と女、光と闇、 生と死などの両極性を司っていました。
コアトリクエの子ともいわれる、 左利きのハチドリという名を持つ太陽と戦争の神ウィツィロポチトリによって アステカ・メシカの人々は人類を存続させるための役目を使わされていました。 彼らは自分たちが太陽の運行する力を支え、 世界を監督する義務があると考えました。
スペインによる植民地支配が進む間も続けられた 「花戦争」と呼ばれる儀礼的戦争はよく知られていますね。 これは太陽に捧げるための心臓を求めて近隣の部族から生贄を調達するため、 あらかじめ決まった時間に決まった場所で行われる戦いでした。 戦士たちに名誉を与えるとともに、エリートたちの腐敗を防ぐ社会的機能もあったとされます。
心臓を捧げることで太陽の運行を助けるというのはアステカの創生神話「5番目の太陽」 の話に由来します。 メソアメリカの神話では太陽は戦士であり、心臓の犠牲を要求します。 様々な変奏がありますが、ひとつのヴァージョンをごく簡単に見てみましょう。
世界がまだ無だったとき創生神オメテオトルは自らを作り、4人の子を作りました。 あるいはこの4神はコアトリクエの子ともいわれます。 西に光の神ケツァルコアトル、南に戦争の神ウィツィロポチトリ、 東に農耕神シペトテック、北に夜空の神テスカトリポカを主宰させました。 この4柱の神が他のすべての神と世界を作ります。 最初の人類は巨人でした。
最初の世界ではテスカトリポカが太陽に選ばれます。 夜空の神であったテスカトリポカは太陽としては不具で、 半分の時間しか世界を照らすことができませんでした。 676年経ったとき、 ライヴァルである蛇神ケツァルコアトルに棍棒で殴り飛ばされ太陽の座を追われます。 ジャガーに変身したテスカトリポカは世界の巨人を食べ尽くしてしまったといいます。
2番目の太陽にはケツァルコアトルがなりました。 このときに人間は現在のサイズとして再創造されたといいます。 ただ、人類は強欲で神の言い付けを守らなかったので世が乱れました。 再びジャガーとなって現れたテスカトリポカはその呪術によって 人間たちを猿にしてしまいます。 人類を大切にしていたケツァルコアトルはこの猿たちを大風で吹き飛ばし一掃し、 自ら太陽の地位を明け渡して新しくもっと優秀な人類を作りました。
次に太陽の座を継いだのは雨の神トラロックです。 ただ、その座を狙うテスカトリポカは トラロックの妻で美と花の神であるショチケツァルを強奪、 悲しみに暮れた雨の神は太陽を辞します。 このため世界は大旱魃となりました。
4番目の太陽はトラロックの後妻とも姉ともいわれる水の女神チャルチウィトリクエ。 彼女は人々を慈しみましたが、 テスカトリポカはそれは本当はただ人々の賞賛を浴びたいがゆえの欺瞞であると中傷します。 その言葉に傷ついたチャルチウィトリクエは52年間血の涙を流し続け、 世界は大洪水となりました。 人類は生き延びるために魚に姿を変えたといいます。
ケツァルコアトルは人類が死滅することを許しませんでした。 冥界ミクトランの王ミクトランテクトリからその骨を盗み出し、 自らの血によって人類を再生させます。 そして、5番目に太陽となったのが、ウィツィロポチトリ、これが現在の太陽です。 太陽に嫉妬する夜の世界の星々の神は、月の女神とともにウィツィロポチトリと敵対、 昼と夜は交互に繰り返すことになります。 このため、 太陽の恵みを失わないよう、アステカの人々は太陽神に犠牲を捧げて応援したのでした。
この創生神話は、 世界の終わりと再生が繰り返されるという独特の終末思想と宇宙論を持っています。 太陽の座は排他的であり、ひとりの神によってしか占有できません。 ある時間から次の時間への移行は暴力と破壊、再創造の過程です。 棍棒で殴ったり、風で吹き飛ばしたり、大旱魃・大洪水の結果として世界が蘇える。 人類は滅びそうで滅びず、再生を繰り返しながら現在まで生き長らえていると伝えられます。 神話における時間の境界もまた、暴力と闘争の現場なのでした。
一方で、ここで興味深いのはケツァルコアトルとテスカトリポカのライヴァル関係や、 悲しみで惨劇を生み落とす雨と水の神たちが何度世界を破壊しても、 世界が力強く、したたかに再生すること。 それは世界を最初に作った原理が死と生の二元性そのものの神格化ともいえる、 コアトリクエの創造力だったことを思い出させます。 蛇のスカートを履く女神、すべてを生み、すべての生命を喰らう荒ぶる神。 死は終わりではなく再生の前提であり、 終末は次の時間を準備するための生贄でした。
大洪水に抗して踊る
境界線を確定しようとする暴力の衝突では常に強い方が勝ちます。 力と力が真っ直ぐぶつかれば強い方が勝つ。 何ひとつ面白くもない当然の物理的帰結。 物理的であるがゆえに回避しがたく、 漱石を踏み付けて屈服させた力の論理。 境域を構成する強い勢力と弱い勢力の拮抗は、 常に弱い方に過度な負担と痛苦を宿命づけもします。
数多の国を滅ぼしてきた旱魃や洪水。 善き者の生命も悪しき者の生命もランダムに奪う神の暴力。 その次に再生される世界がどんなものかを指し示すこともなく、 ただ静かにスクラップ・アンド・スクラップする。
理想郷のダンスフロアを夢見つつ、 しかし現実の混濁したフロアで互酬性を信じて踊るダンサの姿は、 供犠の心臓を喰らいながら 夜と対決し続け、朝に太陽を昇らせるこのウィツィロポチトリのようにも感じられます。
そして、世界(=フロア)に存在するあらゆる厄介なこと、厄介な者を排除するのではなく、 ただ無心に太陽を昇らせることだけに邁進する戦いの神が、 死と再生の蛇神コアトリクエという荒ぶる女神の子であることは示唆的です。 惜しみなく太陽エネルギィを蕩尽するポトラッチ。 この始源の贈与に、アステカの民は心臓を捧げることで応えるのでした。
混濁の中のフロアクラフトとは、 まさにこのアステカの民に習って太陽に心臓を捧げることに他なりません。 そして、やや先走っていえば、 メレンゲを踊ることはフロアの混淆・群体化そのものの礼賛であり、 「ダンスフロアの太陽」の運行を支える象徴的な儀礼といえるかもしれません。
明日に続きます! Merry Christmas!!