フロアの太陽たち
太陽は無限のエネルギィを与えてくれますが、 夜には月によって抑え込まれてしまいます。 その太陽が復活するのは人々の祈りの力にサポートされてのこと。 ここにナワトルの原的な互酬(ギヴ・アンド・テイクあるいはベーシックステップ) があります。
アステカの神話で時間を進めるのは太陽と月の不断の闘争。 これは何もしなくても自動的に流れていく物理的な時間の感覚と対照的で、 能動的に世界に働き掛けねばそれを維持できないということ。 ただエントロピィが増大するのを待っているだけでは駄目で、 規則正しい太陽の運行を支えているのは、 人々の祈り、犠牲を捧げる営みでした。
既に太陽は4つ滅んでいる、という認識は現行の5つ目の太陽も、 自分たちが怠けていると滅んでしまうかもしれない、という危機感を醸成します。
もし、これまで見てきたように、 ダンスフロアが、世界そのもののように、 矛盾や悲惨や残酷さも抱え込みつつ、 それでも美しく、魅力的なのだとすれば、 フロアクラフトの本懐は、 「フロアの太陽」を運行させるために祈り続けることといえます。
フロアの時間と空間を作り、 ダンサを踊りに駆り立て、 フロアクラフトを律する柔らかい掟を統べる上位の存在あるいは高次の法。 これを「フロアの太陽」と呼んで差し支えありません。 ここでは、アステカの人々に習って5つ、挙げてみることにしましょう。 まずは現行太陽の前提となる4つの太陽を考えます。
重力
すべてのダンス理論は地上で行われることを前提に作られています。 床や大地からの反発がなければ立つことはできず、 歩くこともできません。 地球が我々を引っ張ってくれるので垂直抗力が作られ、 足裏から伝わるエナジィを全身の運動に交換することができます。
しばしばダンサは「床をしっかり使う」といいますが、 まさにこの重力の恩寵を受け止めねば地上での運動そのものが成立しない。 踊る人はこれを直感的に理解できますね。 ダンスはこの自然に備わる鉛直方向の加速度を、 水平成分に変換する営みである、ともいえます。
ダンスの基礎は立つこと。 立って歩けることはダンスの前提です。 ダンスレッスンの初日には必ず「真っ直ぐ立つこと」に関する インストラクションがあります。 ダンサが地球の中心とエネルギィを交換する先端がフロアであり、 6400km の距離を超えてダンスの「地上性」を条件づけています。 地球上のどこにいてもこの重力からは逃れられません。 重力こそが恩寵であると実感するダンサは宇宙主義の不毛を直感します。 我々の認識や思考をも規定する重力は最も高次の法といえます。
サルサやメレンゲをはじめとするアフロ=ラテンに起源の一端を持つダンスは、 上方向ではなく下(重力)の方向を指向します。 重心が上がることよりも低く踊ることが重要で、 ダウン・トゥ・アースな感覚を持つカテゴリのダンスです。 サンテリアではダンスの神チャンゴは天上ではなく地下からやってくるのでした。
リズム
それでも歩くことと踊ることの間には飛躍があります。 この飛躍を助けるのが音楽。
身体構造はそれ自体がリズムを持ちますから、 日常的な所作は音楽の支えなしでも可能です。 重力のエネルギィなしには身体運動は一切成立しませんが、 歩いたり畑を耕したり炊事をするのに音楽の力は要りませんね。
音楽がダンサの足を動かして踊らしめる力を一般に「グルーヴ」と呼びます。 ジャズやファンクを含めてダンスミュージックというのはグルーヴィなんですね。
グルーヴ groove とはもともと轍のこと。 舗装されていない道を馬車が通ると段々車輪の痕の部分が溝になって固められてきます。 後続の車はこの轍の部分を走るとスムースにほとんど自動的にカーヴも曲がれるんですね。 レコード盤上の溝を針が進むように、 何も意識しなくてもどんどん乗ってくるし考えなくても溝を外れることはない、 この感覚がグルーヴです。
人がどうしても踊りたくなってしまう衝動を突き動かす外側からの刺戟、 外から人を支配する強力なパワーがグルーヴです。
このリズムグリッドのキープが自動的にはまっていて滅多なことでは落ちない感覚を、 音楽家は「イン・ザ・ポケット」と呼びます。 この状態になると意識がぐっと自由になるのでソロのフレージングだとか、 別のミュージシャンへのレスポンスだとか聴衆とのコミュニケーションだとか、 他のことを同時に考えられるようになる。 これはマルチタスクである即興演奏には必須の感覚といえます。
ちなみにパートナダンサにとってもグルーヴすることはとても大事。 音楽のカウントを口でとらなければいけない段階だと、 ステップやパートナワークやフロアクラフトなどに気を回す余裕がありません。 ダンスの練習とは別に徹底的にリズムのフィールを獲得しましょう、 と繰り返すのはこれが理由のひとつです。
ダイナミクスやトーンも大事にしたいのですが、 まずは図太いパルス感、「ワン one」を感じる力を自覚できるようになるのが第一歩です。
敬意と感謝
ダンスを成立させるのは地上的条件としての重力と駆動力としてのリズムがあれば充分です。 ソロダンスを踊るディスコのような場所を想像すれば分かりますが、 そこでは人々は自然と揺れたり簡単なステップを踏み始めたりします。 歌と踊りは文化より古く、 踊ることは人間の本能ですからこのふたつ以外に条件は必要ありません。
ただしパートナダンスが成立するにはもうひとつ、 パートナとのコミュニケーションが必要です。 パートナワークが近代ヨーロッパから始まっており、 人類にとってユニヴァーサルな動機を持たないということは、 重力やリズムとは別の動機が隠れていることを示唆します。
古い時代の歌やダンスは本来的には神や自然を喜ばせることでした。 宗教的な意味や共同体のためという目的があってこそのダンス。 だから古いダンスは重厚で荘厳なものが多い。 それこそ太陽を運行させるための歌やダンスは生半可な気持ちではできません。 失敗したら太陽が落ちちゃいますからね。
パートナダンスは明らかに相手と自分のために踊るダンス。 その古層にはこうした原ダンス的動機もかすかに生きていますが、 まずは相手に楽しんでもらわねばパートナダンスではありえません。 この態度は一緒に踊ってくれる人に対する敬意と感謝が律します。
したがってここではパートナワークの高次の法をリスペクトないし 感謝と名付けてもいいでしょう。
ペアを拡大した一個とするパートナワークはとても合理的に出来ていて、 熟達したフォローとリードは互いの動きを噛み合わせながらも、 半個としても自由に動ける、よく出来た仕組みです。 そのため、お互いの役割分担の諒解と責任に応える準備が期待されます。 接近と反発の往復運動は争いや力比べではなく一個と半個の相転移なのでした。 リードはフォローのダンスを引き出す役で、 フォローはソロダンスよりも動きの上での制約はありますが、 その分内的な動機に集中できる特殊なダンス。 このメカニズムは非常に複雑で、 なぜ独りでも踊れるのにふたりで踊るのか、 という問題は謎と神秘に包まれています。
表現欲求
パートナダンスが他のダンスや他の表現手段と大きく違うのは観衆がいないということ。 現在行われるダンスというのはだいたい見せ物ですが、 あるいはもっとプリミティヴには神や自然に対して差し出されるものですが、 クラブダンスは違います。 ステージ上でのパフォーマンスやショウと違ってほとんど誰も見ていません。 パートナダンスではふたりでダンスを作りますが、 それはその瞬間にふたりで消費したら消えてなくなります。 記録も痕跡も残りません。
このため、パートナダンスは日常会話とか挨拶のようなものであり、 表現と呼ぶにはあまりにエフェメラルだと考える人もいます。
しかし、パートナダンスには互いにショウオフする部分も確かにあり、 サルサにはシャインというまさにそれ専用の時間もあります。 単に決まったルールの範囲内での掛け合い遊びであるという以上に、 互いの音楽の解釈を、 たったひとりの観客(=パートナ)に対して書き込む、 限定された表現という側面があります。
パートナワークの制約がある以上、 相手を無視して身勝手に踊ることは忌避されがちですが、 場合によってはどうしても、相手には申し訳ないけれどここは自分の表現をさせて欲しい、 という場合があります。 パートナを無視するという意味で暴力的ともいえるこの衝動は、 幸運にも上手に組込むことができれば、 パートナワークの最上のスパイスとして機能することもあります。
これは例えば楽書きに近い表現かもしれません。 誰も見ていないかもしれないし、 特に誰かに向けられたものではないが、 どういう訳か書かざるを得ない何かがあって書く、 という人の表現欲求の発露です。
パートナダンスはふたりで踊るダンスですが、 キッチンではなくフロアで踊ります。 つまりプライヴェートなんだけどパブリックな場所で踊る、 この半公共性に特徴がある。 そして、この秘める方向の圧と公開する方向の圧の微妙な力学の中で現象するところに、 飲み屋でのカラオケや楽書きや壁画運動に通じる、 公共の場で行うが極めて私的な表現活動という面があります。 優れたパートナダンサ同士のダンスでは、 互いの中に何事かを書き込み合いますがそれをことばで掴まえるのはとても難しい。
この相手に対して何かを書き込みたいという表現欲求、 個的な自覚的意志ではなく、 理由は分からないが書き込まざるをえない、 人間の表現欲求の古い地層から突然噴火してくるマグマのような衝動があります。
ダンスフロアの四原論
さて、ひとまず以上の4つのエネルギィ、外からやってくる重力とリズム、 内なる衝動としての感謝と表現欲求が パートナダンスのエネルギィ源であるといえます。 この4者はそれぞれ相互に関連し合いながら、 ふたりのパートナワークを動機付けます。
あるいは、これはパートナダンスを構成している4つの要素のそれぞれに、 動機とエネルギィが備わっていると理解することもできます。 4つの要素とはダンスの現場を作る外的要因としての空間と時間、 ダンス踊るエージェントとしてのパートナと自分の4者です。 このパートナダンスの4要素が持つエナジィをそれぞれ 重力、リズム、感謝、表現欲求と呼ぶことができ、 これらの要素が相互に関連すると同時に、 そのエナジィが交換・変換されつつパートナダンスは展開します。
このエナジィフローを四原論としてまとめてみると次のようになります。
Gravedad 。エレメントは土。 空間を律する重力は 運動エネルギーの源泉としての物理的エナジィを与えます。 上ではなく下を指向するラテンダンスの体重移動の奥義 cadence (キューバではムイェロとも呼ぶ)は、 この重力に従う意志の象徴でもあります。 重力を受け取る身体部位は足。
Groove 。エレメントは風。 時間を律するリズムは ステップとムーヴメントを駆動する音楽的エナジィを与えます。 アフロ=ラテン音楽の核心であり秘密の鍵である clave は、 このリズムの別名といってもいいでしょう。 リズムを作り出す身体部位は舌。
Gracia 。エレメントは水。 パートナワークを律する敬意と感謝は 相互の自由で有機的な関係性を支える交感的エナジィを与えます。 精緻な合理性に支えられたフォローとリードの運動理論である connection は、 この敬意と感謝の身体関係への翻訳といえます。 敬意と感謝を通わせる身体部位は掌。
Graffiti 。エレメントは火。 自己を律する根源的な表現欲求は やむにやまれぬ藝術的衝動としての内爆的エネルギーを与えます。 世界に鍬たて書き込まざるをえない衝動の昇華としての cultivation は、 この表現欲求の獣性を飼い馴らすための民俗的智慧です。 表現欲求を保存する身体部位は心臓。
太陽が落ちるとき
有機的で理想的に世界が運行する場合はこれらの4者のエナジィが流転しつつ、 ダンスフロアを快楽と歓喜で満たします。 ダンサや DJ はそうであって欲しいと願いますが、 これらの法はあちこちから綻びていきます。
重力に逆らった不自然な動き、 リズムを無視した動き、 敬意と感謝を欠いた動き、 表現欲求を自己顕示欲と勘違いした動き。 日常的なダンスフロアにはこうした動きが溢れています。 わずかな逸脱ならむしろ刺戟となって快楽を増やす効果があるかもしれませんが、 大きすぎる逸脱はダンスを成立させる法そのものを失墜させてしまいます。
しかし同時に ラテンパートナダンスの魅力の源泉はその混淆性と境域性。 半端者、無宿人、畸形、不具、クィア、ならず者、骨なしにこそ開かれた解放区なのでした。
美しいダンスフロアを律する法は、 ある意味最初から半分は破られているのかもしれません。 ダンスフロアは庶民の空間、技術的・人格的洗練はすべての人には要求できませんし、 するべきでもありません。
リードの腕を捻ってしまうフォローもいるし、 タイミングがずれたまま踊るリードもいる。 充分スペースのあるフロアなのに突っ込んでくるペアもあれば、 壁際に立っているだけで足を踏まれることもある。 無意味に他人の前に立つぼんやりさんもいれば、 他人のビールを勝手に飲んでしまううっかりさんもいる。
サルサのダンスフロアで踊ることはスタイリッシュで格好いいというよりも、 泥臭く、野暮ったく、無粋で、奇天烈で、突拍子もなく、 無駄も多くて、むさ苦しい。 無意味に傷ついたり、心がザラザラになったりする体験でもあります。
しかし、よく考えれば人が生きるリアリティにはこうした綺麗な物語には収まらない、 グズグズした部分があるのは当然で、ダンスフロアもまた特別ではない、 それだけのことかもしれません。 不特定多数のパートナと踊るのですから、 どうやったってずっと格好よく踊り続けることは不可能です。 無様に踊る自分を許せない人はパートナダンスに向きません。 もちろん、誰だってできれば綺麗に踊りたいのですが、 それが社会で生きるということであり、ソーシャルダンスの「ソーシャル性」は、 この人間世界のバタ臭い部分を引き受けるということを強制しています。
大方のダンスパーティはとても楽しいものですが、 いつもそうとは限らない。 個的な経験の水準ではトゲが刺さることもある、 上手くいかないこともある。 常に平和とは限らない恐怖、 太陽が墜落してしまうかもしれないという不安は決して消し去ることはできない。 むしろ、ダンサに必要なのはこの不安や恐怖をどのようにハンドリングするか、 それと上手く付き合っていくためのバランス棒のようなものです。
少しの逸脱を包摂することと、 なし崩し的に高次の法が侵されていくのを傍観し追認する態度は全く違います。 アステカの人々にとって、彼らの供犠なしには太陽は昇らないのでした。 世界の動きと自分の行動が無関係だと思った瞬間、 タガが外れ、コモンズは失われ、凡庸の悪が蔓延し始めます。 世界がプラスティックな無価値・無意味な場所にならないように、 少しでもよくなるようにと祈ること、心配すること、気にかけること。
無という太陽
アステカ神話では5番目の太陽はウィツィロポチトリ、 左利きのハチドリという謎めいた名の神でした。 ダンサたちはフロアには今もこれからも輝く5つ目の太陽を希求します。 ダンスフロアを律する4つの太陽が墜落しても、 なお、新しく復活してくる高次の法。 一見、それはどこにも見当たりません。
ダンスフロアというカオティックな境域では、 それを律する掟も変幻自在に揺れ動きます。 なんとかスタイルを強制しても、 特定のクラウドだけに限定したシークレットパーティにしても、 差別的な入店制限を規定しても、 太陽を打ち落とさんとする「招かれざる人」たちは潜り込んできます。 というのもダンスフロア=境域の真っ当の住人、 半端者、無宿人、畸形、不具、クィア、ならず者、骨なしたちと、 この招かれざる人たちとの区別は極めて困難だからです。
しかし、このことを逆に考えれば、 法がないこと、掟が揺らぐこと自体が最高次の法なのではないか、 そう考えることもできるのです。 そこでは常に変化する関係性に応じて、 参与するすべての人が即興的に関係性を再構築する。 サルサではパートナを1曲ごとに交代しますが、 これ自体が小さな死と再生のイテレーションであるといえます。
最高次の法は無である、というとき、 無と舞は同義 であったことを思い出します。
無になることがダンスの条件であり、 ダンスにエナジィを与える究極の存在(あるいは非存在)は無である。 ゼロエナジィ、つまりエナジィがないことこそが動機となる。 禅の公案めいてきますが、 自らの中を空っぽにすることが原ダンスの核心。 まさにワキとしてのリードがシテたるフォローを無に導き、 その身体に無=舞を宿す目論みこそがパートナダンスなのでした。 あるいは love がゼロ=無であるならば、 愛することは放擲することであると同時に舞うことでもあります。
こうして無が舞と同義であり、 さらに無は大であり、 大とはグランデである、 という議論に従えば、 5つ目の太陽をグランデと呼んで差し支えありません。
そういえばダンスフロアは夜の世界であり、 太陽は不在の太陽としてしか存在しえないというのは道理です。 無であり、不在である「空」 の象徴としてのこの裏太陽に対し、 ダンスフロアに輝くミラーボールは多数の反射板で作られているシャイニングな 「色」 であり、月を象徴します。 ここで太陽と月の戦いは空と色の相即、無と有の止揚として描かれます。 ミラーボールのないダンスフロアが画龍点睛を欠くといわれるのはこの意味においてです。
Grande 。エレメントは空。 無を律するグランデは 行って来いで結果的に元の位置に戻ってくる不動点として 世界の意味を混ぜ返す(「ディザイン」する)ためのゼロエネルギーを与えます。 ふたつの身体を回転させてシークエンスの始点を作る cross-body lead は、 このグランデの色即是空=空即是色を暗号化したパートナワークの曼荼羅、 混沌から愛を生成する秘密の渦巻です。 グランデの中点となる身体部位は丹田です。
ダンスフロアを律する最高次の法であるグランデは、 サルサのパートナワークの名前である以前に、 アルカイックなパートナワークの理法の古名です。 なぜなら「ふたりで一緒にくるくる回る」ことこそがパートナダンスの原風景であり、 それはサルサならクロスバティ・リード、 メレンゲならメレンゲターンを踊ることに他ならないからです。 あるいは、リンディホップのスウィングアウトも一緒に回る動きですし、 ワルツのナチュラルターンでさえ同じ原理の痕跡を残しているといえるかもしれません。
サルサのパートナワークは極めて合理的にシステム化されていますが、 その起点となる最もベーシックなパタンが左回転のクロスバディ・リードである、 という点でイリンクスの呪力も隠し持っているのでした。
ベーシックステップはミラリングを主としたパタンの雛形、 アンダ・アーム・ターンはコネクションを用いたテクニックの基礎ですが、 その両者の技術を深い次元で統合したものが一緒にくるくる回る動きです。 「くるくる」とはモノ狂いを表す擬態語であり、舞うとは回る、回転するという意味。 「面白う狂うて舞い遊び候へ」 とはすべてのパートナダンスのリードがフォローに対して差し向けるメッセージです。
なぜメレンゲではひたすらくるくる回るのか、 という問いに対する応えもここでは明白でしょう。 ほとんど何のダンスのトレーニングも受けていない リードとフォローが試行錯誤でメレンゲに合わせてパートナワークしてみるとき、 向かい合ってベーシックを踏む以上の動きを作るとしたら、 不思議なことにほとんどの場合一緒にくるくる回ります。 あるいは、公園で腕を掴み合って無意味にぐるぐる回って騒いている子供たちも、 グランデの理法を生得しているのかもしれません。
高度にスタイル化され、 一定のトレーニングを課されねば踊れないサルサに対して、 よりヴァナキュラなダンスであるメレンゲでは、 グランデの法がより直接にダンサを支配しているといえます。
このため、サルサでグランデを気持ちよく回れるようになることは、 リードにとってもフォローにとっても初級の段階をクリアしたことを示す登竜門であり、 グランデが自由に回れるようになってからがソーシャルダンサとしてのスタートだ、 と主張する人もいます。 その真偽はともかく、サルサにおけるグランデは初心・初級の段階では壁であり、 ひとつのマイルストーンであることは多くの人が認めるところでしょう。
ここにもうひとつ、メレンゲが強くソーシャルダンスの現場で要請される理由があります。 技術的な巧拙はあるものの、 メレンゲターンは上手にフレームが組めなくともとりあえずやってみることが可能な動き。 「一緒にくるくる回る」 という太陽神グランデへのリチュアルに参与するにはメレンゲが最も素朴で簡単だからです。 この儀礼への参加を呼び掛けることはラテンダンスフロアの DJ としての務めであり、 ダンサを先導して Gravedad 、 Groove 、 Gracia 、 Graffiti の神々を讃え、 Grande を祭るためにメレンゲを掛けねばなりません。
この意味では、たとえオールミックスでなく、 サルサやバチャータ100パーセントのイヴェントであったとしても、 アステカの人々が多大な犠牲を払ってでも太陽に心臓を捧げ続けたように、 一晩に1曲はメレンゲを掛ける、 というのは DJ の義務であるということができるかもしれません。 誰かメレンゲを踊りたい人がいるとか、 フロアのヴァイブスがどうのといった瑣末な話ではなく、 5番目の太陽への信心の表明として、 ダンスフロアに愛を希求する DJ の矜持において、 大洪水に抗してメレンゲを掛ける、そういう気持ちが大切です。
ハチドリの恩寵
左利きのハチドリ、ウィツィロポチトリ。 グランデはフロアにおけるその別名でもあります。
世界でハチドリが生息するのは南北アメリカだけ。 アメリカに住む人々はインディオもコロンブス以降にやってきた白人も、 この異能の鳥に魅了されてきました。
ハチドリは空中で静止し、後退することができる。 そんな鳥はこの世にハチドリしかいません。 だから、ハチドリへの憧れは不可能性への憧れでもあります。 人間が鳥を見て空を飛びたいと願いながら大地を走るしかないように、 鳥たちはハチドリを見て可能性の外を夢見ます。 極東の鳥でさえ渡り鳥たちからハチドリのことを伝え聞いて憧れを持っているかもしれません。 ハチドリの飛んでいる様はあまりに魅惑的なので、 一度見始めると時間を忘れてずっと観続けてしまいます。
この不思議な鳥はアメリカの様々な言語で様々に名付けられました。 マイヌンビ、コリブリ、チュパローサ、ピカフローレス、ハミングバード……。 そして、かつてキューバ島やエスパニョーラ島に生きたタイノ人のことばでは スンスンと呼ばれたといいます。
ウィツィロポチトリは名付けられぬ法でフロアを律します。 それは早朝のハチドリのように優しくて荒ぶるコロナのように厳しい掟。
生きることと同じ程度にダンスは美しく、 生きることと同じ程度にダンスにも残酷な面があります。
なんとなく楽しくなかったな、スピンが酷かったな、 上手く踊れないな、なんであの人はあんなことをいうんだろう。 ダンスパーティが終わってフロアから出て、 火照った身体を外気で冷ましながらそんな風に 感じたことのある経験を持つダンサは多いでしょう。 暗闇に低く冷たい風が吹き、ぼうっとしていたアタマも醒めてくると、 背中を丸めて「もうサルサ踊るの止めようかな」 と思う夜もあるかもしれません。 そういう夜に限ってなかなかタクシィが掴まらず、 夜道をトボトボ歩くことになる。 「ひとつもポイントのない夜だったな、 せめてメレンゲが1曲でもかかっていればなぁ……。」
やがて、だんだん東の空が白んできて、 起き出してきた鳥の声が騒がしくなってきます。 太陽の光は誰にも平等に暖かく、 どんな夜を過ごした人も同じように照らしてくれます。
かわいい小鳥が朝からピーチクパーチク始める。 その姿を見ていると、 フロアの不条理やネガティヴな言動にいちいち落ち込んでいる自分がバカらしく思えてくる。 今日も一日張り切っていこうという気分になる。 確かにパーティはつまらなかったけどそれでも太陽が昇り、 小鳥が歌うならまだまだ世界は見捨てたものじゃない、 そういう気分になってくるかもしれません。
何ひとつフロアの問題が解決した訳ではないし、 自分の中身が変わった訳でもない。 世界には暴力も怨嗟も蔓延している。 それでも世界の不動点としての太陽は冪等なのに毎朝、毎春世界をリフレッシュしてくれます。
そういえば今夜はダメダメだったけど 1曲だけはそれなりに楽しく踊れたサルサもあったな、 そう思い出しながら初見の不思議な異邦人と踊った その曲のコロを口ずさみます。
「スン・スン・スン、スン・スン・バァバァエ、 スン・スン・スン、スン・スン・バァバァエ、 パハロ・リンド・デ・ラ・マドゥルカ、 パハロ・リンド・デ・ラ・マドゥルカ!」
憧れのメレンゲを無様に踊る
なんともいえず慰められた気分になって、 早朝のかわいい小鳥に感謝したくなるかもしれません。
ダンスフロアで「無様」な思いをし、落ち込んでいるダンサを、 慰めてくれるのはハチドリであり、 あるいはハチドリに憧れる早朝の小鳥たちでした。
左利きのハチドリ、戦い続ける太陽神ウィツィロポチトリは、 ダンスの倫理の中でも最も名付けられない倫理でフロアを律します。
「さま」とは姿かたちやスタイルのこと。 だから「無様」とはグランデの別名に他なりません。 無様にサルサやメレンゲを踊ることはウィツィロポチトリのための犠牲であり、 明日も世界に太陽を昇らせるための供犠なのでした。
ナワトルの死生観では現世で幸福に生きた人よりも 不幸な死に方をした人の方があの世で救われる、と考えられています。 戦争で死んだ戦士や供犠に捧げられた者は冥界下降の苦行が免除され、 太陽神の補助役となり、 数年でハチドリとなってこの世に舞い戻ってくるのだそうです。 だから心配はいりません。
グランデを信じつつ、自信を持って無様に踊る。 散々なフロアクラフトも、ふらふらのパートナワークも大切なフロアの断片。 しょげていたダンサも次の週末にはきっとまたダンスフロアに出掛けていきます。 ひょっとしたら今度は上手に踊れるかもしれませんし、 運がよければメレンゲのいい曲が掛かるかもしれません。
Advent Calendar 2023 はここまで! 2024年もメレンゲパニックをどうぞよろしくお願いします。 よい年を!