ラテン音楽の立ち位置
ラテン音楽の変遷を振り返ると、 合州国の音楽に影響を受けて新しいジャンルが誕生した、 という説明にしばしば出喰わします。 例えば、マンボはソンにジャズの影響が加わったものとか、 ブーガルーはマンボにロックンロールやファンクのフレーヴァを混ぜたものとか、 テクスメクスのギターサウンドはブルースやカントリーの影響があるなどなど。
こうした言い方はそれぞれ正しいのだと思いますが、 合州国のポップ音楽がラテン音楽に影響を与えた、 という文脈でのみ理解するのはバランスを欠くというのもまた事実です。 一方的に合州国の音楽からラテン音楽の諸ジャンルに影響があったのみならず、 実はアメリカンポップスの方も、 多くの局面でラテンから強く影響されているという点が見過ごされています。 両者の関係は複雑で相互的であるというべきなのです。 今回はこのアメリカ音楽とラテンの関係を、 とりわけラテン音楽で踊る人々の関心から見ていきたいと思います。
ジャズの不思議
まず、ジャズについて見てみましょう。 ジャズという音楽は一般的な教科書的説明では、 ニューオーリンズの黒人文化から生まれた即興性とブルーノートをその特徴とする音楽、 とされます。 あるいはそのシンコペーションを多用したリズムや フォービートと呼ばれるノリを重視する人もいます。
一方で、 専門家の間ではジャズの定義やその起源を巡る議論は 決して安定した合意を得ているわけではありません。 ポピュラー音楽研究の大和田俊之氏の指摘するところによれば、 ニューオーリンズが重要なジャズ発祥の拠点であるということ自体には 多くの異論があるわけではなさそうですが、 それでもアメリカ全土で同時多発的に勃興したという論を張る人もいます。 また、ジャズを作った人々が黒人であるというとき、 その黒人とは具体的にどこからどのようなルートでやって来た人たちなのかについては 様々な見解があります。
そもそもジャズという音楽を定義すること自体がなかなか同意を得ることが難しい。 ニューオーリンズ・ジャズとスウィング・ジャズとビバップを同じジャズと呼べるかどうか、 全く異なるものと感じられる耳を持つ人も多いかもしれません。
あるいは、 即興性についても初期のディクシーランド・ジャズにどれだけの即興要素があるかといえば、 ほとんどプレコンポーズドな楽曲も多く、ティンパンアレー時代のシンフォニック・ジャズでも アドリブ的要素にはフォーカスしていない曲もたくさんあります。 ブルーノートの有無ということでいえば、先行するブルースとの区別が問題になりますし、 拍を三連に割るポリリトミックなフィールというのもラグタイム以降の様々な音楽の特徴で、 純粋にジャズを定義づける要素にはなりえません。 さらにフリージャズまでいけば、 もはやリズムや旋律によって音楽ジャンルを定義することは不可能です。 それでもこれらの音楽はどういうわけか時代を超えて 「ジャズ」という同一の語によって呼び習わされています。 このようにジャズはそれを音楽ジャンルとして定義すること自体が一筋縄ではいきません。
具体的に一例だけ挙げてみましょう。 ジャズのレコードとして最初にミリオンセールを達成し、 商業的に史上最も成功したジャズレコードのうちのひとつに数えられる Dave Brubeck の "Take Five" 。 一般にジャズは何拍子の音楽なのかと問えば、 当然フォービート、4/4拍子のジャンルだとされますが、 この曲はその名の通り5拍子。 そしてその5拍子であるという点が際だって特徴的な曲です。 これがジャズの代表曲というのですからなかなかの変化球ですね。
そして、ダンスの観点で見ても初期のケーキウォークやセカンドラインのステップ、 またはミンストレルショウでのコミカルな動き、 トゥーステップやフォクストロットによるカップルダンスなど、 19世紀の段階で既に様々に踊られていたことも重要です。 20世紀に入ってテキサストミーやブラックボトムスのような諸々のブラックダンスと とフォクストロットなどのカップルダンスが習合してスウィングダンスが登場します。 バルボアやチャールストンが登場、 1920年代にはリンディホップの名を与えられて一世を風靡しました。
このように、 ジャズとは何かを問うてもなかなか明快な回答が得られないという点を押さえた上で、 ニューオーリンズ以来のジャズの黎明期を見てみることにしましょう。 これはラテン音楽の系譜とも深く関わる重要なトピックですから少し丁寧に追い掛けてみます。
ハイチ革命とニューオーリンズ

時は18世紀から19世紀に移る頃、折から進行していたハイチでの革命は1801年、 トゥーサン・ルーヴェルチュールによる全島統一と黒人憲法の制定によってピークを迎えます。 フランス本土の市民が掲げた平等の思想はフランス植民地サン=ドマング(ハイチ) においても政治運動として展開していたのでした。 ルーヴェルチュールがナポレオン軍の将軍に騙されて捕えられ、 フランス本土で獄死した後、 デサリーヌによるハイチ共和国の独立が1804年、 世界史初の黒人共和国の誕生でした。 このハイチの独立はカリブ海音楽の成立を考える上でも重要な契機となります。 遠くメレンゲの起源とも考えられますし、 何よりこの革命の政治的帰結としてサン=ドマングで植民地経営をしていた農場主たちが キューバ東部へと逃れていったことで、 一応スペイン支配下ではあったものの 半ば打ち捨てられていたキューバでのプランテーションが再興したからでした。 こうした経緯の中で19世紀になってから新たにアフリカから 連れてこられたヨルバ系の奴隷たちこそ、 現在のキューバ音楽の根っこを作った人たちです。 キスケージャで成熟していたフランス統治下の音楽文化が スペイン占領下のキューバに伝わることで、 そしてそこに新しく輸入されたアフリカ人奴隷たちの高度な音楽文化が混ざることで、 アフロ=カリビアン音楽の骨格が形成されていくことになります。 ダンサ・フランセサというときの「フランセサ」とは 「ハイチからやってきた」という意味だったことを思い出しましょう。
さて、話を北米に戻します。 メキシコ湾の北岸にあたるミシシッピ川の河口、ニューオーリンズの話です。 フランス革命後の混乱を経てナポレオンが統治したフランスは、 1803年にルイジアナを1,500万ドルで合州国に売却しました。

もともとルイジアナ州はフランス領でニューオーリンズはその州都です。 ニューオーリンズもといラ・ヌーヴェル・オルレアンは1718年に建設された植民都市で、 フランス系住民の住む町でした。 公式には1768年にスペインに割譲されているのですが 例によってスペインはまともに統治できておらず、 1801年にナポレオンが買い取っています。 このときのニューオーリンズの人口は数千人から1万人程度だったと推定されています。
さて、ハイチの動乱でエスパニョーラ島の拠点を追われたフランス系の奴隷主たちは カプというサン=ドマング北部の街を脱出し、一部は隣のキューバ島の東部へ行き、 そして一部はメキシコ湾を渡ってニューオーリンズへ向かいました。 ニューオーリンズは上記の事情からフランス系の文化が濃厚な土地柄だったため、 ハイチ出身の奴隷主たちにとっても親和性があったのですね。 奴隷主たちは黒人の奴隷たちを引き連れてニューオーリンズに入ります。 その数は3千とも4千とも言われています。 1万人弱の街に3千人の黒人たちがやってくれば その街の文化に深く影響するであろうことは明白。 このニューオーリンズは続く1812年戦争 というアメリカのインディオたちが動員された米英の代理戦争の舞台にもなり、 戦乱と混乱を極めて特異な人種的サラダボウルになっていきました。 イタリア系やドイツ系といった合州国内のマイノリティの人々も多く集まった街であり、 その他にもケイジャンの人々も多く流入していました。
ケイジャンとはカナダのノバスコシア地方に入植していたフランス系移民をいいますが、 合州国内ではなかなか定住できる場所を見つけることができず、 流浪の民としてあちこちを流れていたといいます。 その彼らが最終的に定着したのがルイジアナ。 ケイジャン音楽やケイジャン料理は世界的にも人気があるのでご存知の方も多いはず。
このような多様なバックグラウンドを持った人々の集まったニューオーリンズから、 魅力ある様々なカルチャが誕生したことは特筆すべきことです。 その中のひとつがジャズであった、ということなのでしょう。
この街の名物はコンゴスクエアのサンデイオフ。 もともと黒人奴隷を売買するための市が立っていた場所ですが、 コンゴスクエアでは日曜日にサンデイオフと呼ばれる祝祭的な空間があったそうです。 1817年には公式に許可する法律が制定されているということですから、 19世紀を通じて開催されていたことが分かります。
ここで黒人たちが歌い踊っているのが観光名所のようになったといいます。 ハイチ系の人々はエスパニョーラ島から持ってきたブードゥーやトゥンバ・フランセサ のフレーヴァのあるダンスを踊っていたかもしれません。 まだ、レコードもラジオもない19世紀中葉、 プロテスタントの州ではアフリカ音楽は禁止されていたこともあって、 このコンゴスクエアの黒人ダンスは見せ物として全米中の観光客の関心を集めました。
ジャズのラテン性
音楽そのものについていえばニューオーリンズ・ジャズの起源はセカンドラインだ、 と指摘されます。 セカンドラインとはもともと葬儀の隊列でフロントライン(バンドあるいは遺族) の人々の次に連なる群衆たちのことで、 彼らは様式的で独特のステップを踏みながら隊列についてきます。 「ほとばしる人」と呼ばれるダンサが全体をリードしながら隊列を進めますが、 故人への愛惜が滲む墓地までの往路に対し、復路はどんちゃん騒ぎ、 祝祭的でエナジェティックなパーティになります。 現在でもソーシャルクラブや慈善団体などが組織するセカンドラインのパレードは ニューオーリンズの観光資源になっています。
さて、ラテン音楽の関心から見るとごく素朴なことですがこのセカンドライン、 最初からトレシージョのリズムが含まれているんですね。 ハイチ系の人々が昔からトレシージョ的なリズムを知っていたのか、 それとも20世紀になってから混ざったものなのかはなかなか判断としては難しいですが、 古いケーキウォークの音楽やラグタイムにもハバネラのリズムが鳴っていることに気付くとき、 実はクラーベ的なリズムのベースが相当古く、 場合によってはキューバ以前にサン=ドマングの奴隷たちがアメリカ全体に広めた、 と考えることもできるかもしれません。 そういえば小説家としてのキャリアに先立って 『キューバの音楽』を書いたアレホ・カルペンティエールがキューバ音楽を「発見」したのは、 ハイチへの旅がその霊感源だったのでした。
ラテン音楽とクラーベ
ここでトレシージョが出てきたので少し寄り道をして 改めてクラーベの復習をしておきましょう。 実は「ラテン音楽」という語もジャズと同様かそれ以上に定義が難しい言葉ですが、 ここでは非常にざっくばらんに、 ひとまずサルサに代表され、 あるいはサルサの定義に寄与する諸処の音楽ジャンルとしての アフロ=カリビアンの音楽ということにします。 ダンサに馴染み深いところでは、 サルサ、メレンゲ、チャチャ、パチャンガ、ボレーロ、マンボ、ソン といったジャンルから、 クンビア、ボンバ、プレーナ、チャングィ、ティンバ、ルンバ、トゥンバ、レゲトン、 コリドールやマリアッチ などのジャンルを含みます。もちろん他にも沢山挙げるべきジャンル名はありますし、 それぞれのサブジャンルも含めれば100を超えるリストになるでしょう。 その音楽的特徴としては、 マンボのパートを持つこととクラーベのフィールがあることの2点を挙げておきましょう。
マンボはこれまた重要な多義語ですが、 ここでは音楽的な掛け合いのこととしておきます。 いわゆるコール・アンド・レスポンス全般を含む概念で サルサの場合だと後半のモントゥーノ部分で登場しますし、 メレンゲでも後半のジャレオと呼ばれるセクションに含まれます。 厳密にいえば気鳴楽器および声によるコール・アンド・レスポンスの パートを特にマンボと呼びます。 演奏者も歌い手もダンサも皆で息のリズムを合わせること、 これが全員参加を促す重要な要件になっているのでしたね。 ギター音楽や小編成のバンドの場合はそもそもホーンセクションがありませんが、 それでもなお、 随所にコール・アンド・レスポンスへの指向が感じられるのがラテン音楽です。
クラーベ とはリズムパタンの名前であり、このリズムを打つための拍子木の名前でもあり、 あるいはリズムを超えたラテン音楽のコンセプトそのものでもあります。 ラテン音楽では楽器の演奏者はそれぞれ様々なリズムパタン・トゥンバオをプレイしますが、 それぞれ別々のパタンを叩いています。 ただし、どの楽器演奏者も自らの音楽時間を律する掟としてのクラーベを 体内に感じながら叩くので、 それぞれのパタンはクラーベのリズムにマッチするように演奏されます。 こうしてバンド全体のグルーヴがとてもスウィンギィでリズムある演奏 になるというのがラテン音楽の流儀です。
ラテンのリズムは4拍子系のストレートなリズムと 3拍子系のターナリなリズムを同時に感じるポリリズム。 クラーベはこのストレートとターナリなフィールを同時に持つというのが特徴です。 ですからクラーベのパタンというのは楽譜に書いたら4/4拍子だとしても、 実際の演奏はより3連感のあるマイクログルーヴになまるんですね。 そして全力でストレートになるわけでも全力でターナリなわけでもなく、 なんとなく4拍子と3拍子の中間的なところをうねうね行く、そういうリズムです。 このあたりの事情についてのもう少し丁寧な解説については ポリリズムことば をご覧ください。
さて、単純なストレートのソン・クラーベのリズムは以下のようなパタンです。
2小節の長さのリズムパタンで5つの音が鳴っています。 このとき3つ音の鳴っている方の小節を3サイド、 2つの方を2サイドと呼びます。 上図の場合、3サイドの次に2サイドがあるので3-2と言っています。 逆に最初が2サイドでその後に3サイドが来るパタンは2-3と呼んでいます。 もちろん、どちらが最初といっても交互にループするのでこの区別には 本質的な意味はありません。 ただ、聴いている人の主観としてどちらをアタマに感じるかというだけの話です。 さて、このストレートのクラーベの重要な特徴として、 3サイドの方の真ん中の音だけウラを打っているということがあります。 他の音は1,4,6,7とオンビートを打ちますが、ふたつ目だけは2のウラなんですね。 当然この音が一番緊張感が強く、 リズムをプッシュしていくグルーヴがあるので特に「ボンボ」という名前で呼んでいます。 いわゆる「クラーベ感」ともいうべき感覚を作る屋台骨の音です。 3サイドはこのボンボがあるゆえに躍動感と不安定さがあり、 2サイドの方は相対的に落ち着きのある時間で、 これを交互に繰り返すというのがクラーベのダイナミズムを作っています。
そして、 この3サイドの方だけを延々繰り返し続けるリズムを「トレシージョ」と呼び、 これもラテン音楽の様々なジャンルで多用されるパタンになっています。 例えばレゲトンやズークなどではずっとこのトレシージョが鳴っていますね。 ただし、このトレシージョは躍動感がとても強いものの、 クラーベのように2サイドで落ち着くということができない分、 テンポのゆっくりな曲で使うとむしろ不安定感として感じられてしまいます。 2のウラのシンコペーションに3の音を添えることでこの不安定さを解消したパタンを 「ハバネラ」と呼び、これもまた多くのラテン音楽で使われています。 タンゴでも基本リズムとして使われますが、 ダンサの皆さんにはバチャータのベースのパタンとして馴染み深いですね。
いずれにしてもトレシージョもハバネラもクラーベからの派生であることが分かると思います。 同様にクラーベ派生の重要なリズムというのはカスカラなど他にもいくつかありますが、 このようにラテン音楽は何らかの形でクラーベのフィールが潜在しているんですね。 むしろ、リズムの面でいえばこのクラーベ感以外にラテン音楽を定義する 外形的特徴は挙げにくいともいえます。
さて、話を戻します。 セカンドラインのリズムにはトレシージョがある、という話でした。 おや、トレシージョをはじめとしたクラーベ感のあるリズムというのは ラテン音楽の特徴だったはずです。 なのにジャズの起源ともいわれるセカンドラインに最初からトレシージョがある。 ジャズとラテンは何が違うというのでしょうか。
明日に続きます!