ポリリズムの感じ方
クラーベとはもともと4拍子系と3拍子系のフィールを同時に合わせ持つリズム。 こうした複数のメトリクスを同時に感じられるリズムをポリリズムと呼んでいます。 このポリリズムはアフロ起源の音楽の特徴で、 とりわけアフリカの伝統音楽においては 「タイムライン」と呼ばれるベルで演奏するパタンが知られています。 このタイムラインこそクラーベの祖型のひとつともいうべきリズムパタンですが ラテン音楽と同様、アメリカの黒人音楽にもこのフィールは色濃く流れ込んでいます。 この点を鑑みればラテン音楽もアメリカ音楽ももともとそのルーツは アフリカに遡るのであって、 両者に共通点があるというのは別に不思議なことではありません。

とはいえ、ジャズを聴くときとラテンを聴くときではそのリズムの感じ方がかなり違います。 こうしたリズムの感じ方の違いがジャンルの別を作っているともいえるのですが、 その違いは何に由来するのでしょうか。
まず、ごく単純化していえば、ラテンのポリリズムは4拍子系が前面に出ているが、 ジャズの場合は3拍子系の方が前景化しているという指摘が可能です。 例えばサルサあるいはソンという音楽は表向きには4/4拍子ですし、 カウンティングも 12345678 と習いますね。 しかし、実はその裏で鳴っていなくても3拍子系のフィールがずっと感じられている、 それゆえにクラーベは独特な感じでうねるし、 ソロパートでは複数段に「ポリ」が掛かって、 小節線が乗り越えられてしまうのでした。 ソリストのメロディが自由にあらゆるビートを縫っていても バッキングが安定したトゥンバオを演奏していればキープも楽ですが、 ガンビオ系のシンコパなどでコンピングされる場合には、 ぼうっと聴いているだけだと小節線が消失し、 不意打ちのタイミングからフレーズが始まるように感じます。 ちょっとリズムに慣れていないダンサだとすぐに アタマが分からなくなってしまうのはこうした理由です。
一方でジャズの場合も基本は4/4拍子ですが、各拍は3つに割れており、 その前2つ分と最後の1つがシンバルレガートで叩かれるというのがフォービートです。 いわゆる「チーン・チッチ・チーン・チッチ」ということですが、 つまり拍が最初から3連のフィールを持っているのですね。 これがソロになると突然1拍を4つに割った拍が出てきて3連とごちゃまぜになった譜割で 旋律がまくし立てられるのです。 ここにブルーノートを含むモード奏法とか リディアン・クロマティック・コンセプトに基づく音階の使用とかが入るので 旋律的にもとてもジャズィなソロ、という印象になるのですが、 リズム構造だけをクローズアップすれば3連系のフィールの中に突然現れる4連系、 というフレージングになっている。 しかも音の並べ方としてアタマに休符を置くことなどしてメトリック感を壊す スキップビートの様な諸々のテクニックも併用されられるので ほとんど西洋の五線譜の表現力では採譜できないような複雑なリズムとなるわけです。
このように、サルサとジャズでは共にポリリズムをそのフィールのコアに持っているのですが、 表向き4拍子だが3拍子が潜んでいるというのがサルサ、 一方で表向き3拍子のサブディヴィジョンを持っているのに4連符が待ち構えているのがジャズ、 という対照を見て取ることはできます。 とはいえ、とりあえずこのように言ってみることはできるものの、 より細かく見れば必ずしもそれほど単純な話ではなく 例外的なリズム構造はいくらでも挙げることができますし、 ソロの手組みということになればほとんど両者の区別がつかないケースも 散見されるという点もすぐさま付け加えておくべきでしょう。
ブルースのコール・アンド・レスポンス
では次にブルースについて考えてみましょう。 一般に、ブルースは合州国南部の黒人労働歌として誕生した音楽で、 ブルーノートという三度と七度の音をフラットないし ハーフフラットした独特の音階を用いること、 皆で歌うコール・アンド・レスポンスの形式を持っていることなどを特徴とする、 と説明されます。 とりわけ黒人性や奴隷労働の痛苦との結び付き、 アフリカ由来の旋律やリズムである点が強調される傾向があります。 また、音楽形式としては AAB 型の12小節の素朴なフォーマットを持ち、 ジャムセッションの現場ではまず最初に 「じゃあFのブルースやってみようか」となるジャンルとして、 プロアマ問わず、ミュージシャンの間では基本的な挨拶代わりの共通言語でもあります。
念の為付け加えておけば、 コール・アンド・レスポンスを大事にしているはずの ブルースが独りでも演奏できるというのは、 ギターがあれば歌との間の往復を疑似的な応答関係と考えることができるという意味です。 脚韻を踏みながら即興的な歌詞をつぶやき、 その合いの手にギターをポロンと鳴らす。 独りであっても息のリズムと手のリズムの間に コール・アンド・レスポンスが成立していると感じる心性がここにはあるんですね。
この弾き語りの形式は古くは「フィールド・ホーラ(農場の叫び)」 と呼ばれる奴隷農園での作業を独りでこなしながら叫ぶ伝統と 連なっているともいわれます。 あるいは鎖に繋がれた囚人、 チェインギャングということですが、 彼らの怒り叫ぶ歌もこの系譜に数えられる。 こうしたスタイルの歌唱は西アフリカ由来のものとも アラブ音楽由来のものともいわれるようです。
ここでアラブ音楽の関連が指摘されることは重要で、 そもそも「即興性」というブルースのみならず現代ポップス全般にとっての必須アイテムは 一般に黒人音楽の中から現れたとされますが、 そのルーツを西アフリカや中央アフリカに辿ることができるのかどうか というのはミュージシャンの間でも議論が残っています。 一方でアラブ音楽にはマカーマートと呼ばれる無数の音階モードと イーカーアートと呼ばれるこれまた無数のリズムモードを駆使しながら、 その表現の核心において タクシームという即興演奏を競う確かな伝統が前近代から存在している、 という点はここで言及しておいてよかろうと思います。
それはさておき、ブルースという音楽もジャズと同様、 単純に黒人音楽とだけ言い切ることも労働歌と断定することもできない 微妙な政治学があることは多く指摘されています。 最初期のブルースミュージシャンで「ブルースの父」の異名を持つ C.W. Handy は黒人ではあるものの白人音楽の基礎教養を持っていたことが知られています。 彼の演奏する "Memphis Blues" (1912) には取り立てて即興の要素もなく、 短調ゆえの哀愁があるとはいえ ブルーノートが特別に強調されているということでもありません。 Morton Harvey という白人の歌付きのヴァージョンが1915年にリリースされており、 そしてこれは「最古の」ブルース録音としてしばしば指摘される Mamie Smith の "Crazy Blues" (1920) よりも古い録音ですが、 これだけでも黒人的要素だけがブルースの伝統に 貢献したのではないということが確認できます。
ところで、都会のブルースがヴォードヴィルを中心に流行したのに対し、 カントリー・ブルースと称された南部性を色濃く刻まれたサブジャンルの方がより 「本格的な」ブルースであるという議論があります。 テキサス出身の盲目のブルース歌手 Blind Lemon Jefferson が歌う "Match Box Blues" (1927) は今の我々がいかにもブルージィと感じる旋律と ギターの伴奏のコンビネーションを聴かせてくれます。
ただし、 ここでもいつものように起源や古さを巡る言説は誤解と粉飾で攪乱されています。 どのようなブルースが本質的で起源に位置するのかという議論についてもまた、 冷静な研究者たちは断定的に結論することを控えているようです。 必ずしもヴォードヴィル・ブルースにカントリー・ブルースが先行するとはいい切れないし、 むしろ相互に影響し合いながら現在のブルースが形作られたというのが穏当な見解のようです。 とりわけ、ブルースは1950年代以降に遡及的に評価されたという経緯もあり、 「アコースティックで素朴な黒人音楽」というイメジが誰によって希求され、 誰がそれを内面化し、また強化していったかを詳細に追いかければ、 そこには複雑な政治的・状況的文脈があったと諒解しなければなりません。
ひとまずここでの我々の関心としてはブルースの肝腎として そのコール・アンド・レスポンスへの指向性があった、という点のみを確認しておきましょう。 ん?マンボあるいはコール・アンド・レスポンスへの指向性というのは ラテン音楽の2大条件のひとつではなかったでしょうか。 そうなるとブルースとラテン音楽は何が違うのでしょうか。
ラテン音楽のアフロ性
もうお分かりですね。 クラーベ感がジャズにも見出されたのと同様、 マンボ的要素をブルースも持っている。 これは簡単な話でアメリカ音楽もラテン音楽もアフリカに起源を持つ、ということです。 すなわち、アフロ=ラテン音楽の特徴はそのまま アフロ=アメリカン音楽の特徴でもあるということ。 よく考えてみれば何も面白くない話ですが、 こうしたごく当然の結論が新鮮に見えるとしたら、 それは合州国の音楽の「黒さ」を担っているのは黒人たちであってラティーノではない、 という認識が邪魔をするからです。 合州国の文化は音楽のみならず白人と黒人の弁証法で成立している、 というなんとなくの諒解があるために、 ラティーノの文化的な寄与というのが 不当に小さく見積られてしまっているということがありそうです。
コール・アンド・レスポンスということでいえば、 ラテン音楽の場合、それが特にマンボと呼ばれるホーンセクション および歌とコロによって展開されるというのがポイントですが、 合州国南部からテクスメクスあたりの音楽では、 よりギター音楽の伝統が強いとも理解できます。 例えばキューバの音楽でもボレーロやグァヒーラなどではギターと声だけの演奏ですから、 厳密な意味でのマンボはありませんが、 それでも皆で歌うコール・アンド・レスポンス的気分というのは音楽の中に溶け込んでいます。 これをキューバのブルースと呼んでも差し支えないでしょう。 ここでラテン音楽の性格として挙げてきたふたつの要素、 すなわちポリリズムとコール・アンド・レスポンスを持つことは、 もはやアフロ=アメリカン音楽全体の傾向ということができます。 あえてアフロ=アメリカン音楽の中でラテン音楽の個性をいうならば、 ポリリズムを特にクラーベ感として感じること、 コール・アンド・レスポンスはマンボとして感じることと言い換えることができます。
とはいえ、これはおよそフィールの違いという次元でしか感じ分けることができず、 ごく典型的なものを除けば外形的に区別できないということを意味します。 普通、音楽ジャンルは使用される楽器やバンドの編成、リズムパタンや旋律・音階、 政治的・宗教的コンセプトなどの違いで弁別されます。 実際の分類を試みようとすると、 これらの観点でクラス分けできる楽曲もそれなりにはありますが、 少なくない割合で境界的なオーヴァラップが存在し、ミクスチャだったり、 際立った例外があったりします。 さらにその例外にもまた例外があるといった塩梅で、 厳密で完全なジャンル分けをすることはほとんど不可能です。
頑なに言語化を拒否しようとするこのジャンル・ミュージックの性質を前に、 「もういろいろフクザツに混ざっているんだから ジャンル名なんて付けなくてもいいんじゃない」 という気持ちにもなってきます。 実際、「ポップス」とか「ロック」 という語には多様な楽曲をざっくりカテゴライズしてしまえという気分があります。 あるいは「サルサ」という場合でもほとんどのラテン音楽の総称であって そのサブジャンル同士の間にどれだけの音楽的な近似があるのかは不明瞭。 何より「ジャズ」という語の下に呼ばれる音楽の幅の広さを思い出すとき、 名前によって何か統一された概念が指し示されているというよりも、 ジャンル名を掲げることによって ある種類のフィールを持つ音楽への献身あるいは信仰を告白をしている、 という感じさえします。 「私はサルセーロ」とか「私はメレンゲだ」とか「彼女はジャズ・シンガー」というとき、 これはミュージシャンにとっては抜き差しならないアイデンティティの表明といえます。 この意味では辞書的な区別が機能しないからといって音楽のジャンル名を 簡単に捨てるわけにもいかないのでした。
このとき音楽家たちが頼りにしているのは辞書的定義よりもフィール。 ジャズにはジャズのフィールがあり、ブルースにはブルースのフィールがある。 サルサにはサルサのフィールがあってメレンゲにはメレンゲのフィールがあるのです。 そしてジャンルを分けるときにモノをいうのは究極的にはこのフィールしかないということ。 つまり、言語化しえない各ジャンルの固有のエートスこそが、 そのジャンルをジャンルたらしめているという直観です。 そして、訓練によってこのフィールを身体化する方法はただひとつ。 選り抜かれたそのジャンルの名曲をひたすら百万回ずつ聴くこと。 付帯条件として必要なのは、 音楽に対する深い信頼、 それを感じたり演奏したりできるミュージシャンたちに対する共振と共感覚、 ある程度の期間持続する集中力、 眩暈や恍惚に飛び込む勇気。 そしていくらかの幸運があれば 素人でも身体の中にこうしたフィールが流れる回路を開いていけるはずです。 しかも、一度血肉になってしまえば立って歩けるうちに失われるモノではありません。 実は、音楽ジャンルのフィールと同じようにダンスのフィールもまた、 ほとんど同じ機序で身に付けられるもの。 優れたフィールを持つダンサとたくさん踊ることを通じて初めて そのフィールに感染することができます。
ロックンロールの誕生
さて、ここまでいくつかのアメリカ音楽のジャンルを見ていく中で、 以下のことを確認してきました。
- 合州国の音楽とラテン音楽は 共にポリリズムとコール・アンド・レスポンスを持つこと。
- ラテン音楽ではポリリズムはクラーベのコンセプトによって支えられているが、 アメリカ音楽にもクラーベ的リズム感を持つものは多いこと。
- ラテン音楽のコール・アンド・レスポンスは気鳴楽器中心のマンボに目立って現れるが、 アメリカ音楽にもコール・アンド・レスポンスは様々な形で確認できること。
- アフロ=アメリカン音楽の各ジャンルを外形的に定義することが難しいが、 音楽家たちはフィールを頼りにジャンルを感じ、 ジャンルは彼らのアイデンティティを構成しうること。
音楽ジャンルがしばしばレイス・ミュージックすなわち人種音楽として語られるのは、 それが個的なアイデンティティと深く結びつくからです。 ブルースやジャズは黒人音楽でなければならず、 カントリーやフォークソングはアングロサクソンの音楽である必要があるのでした。 また、人種のみならず政治や宗教も音楽ジャンルの区分に影響します。 例えば南部を中心に白人の植民者たちが英国やスコットランドから持ち込んだ ヨーロッパ風のバラッドを起源とする(と期待されている)カントリー音楽は、 白人アメリカ人にとっては譲るべからざるオラが村の音楽です。 ところが、1950年代以降、レッドパージが進行すると同じ音楽的系譜に属するチューンでも、 保守主義者が演奏するとカントリー、 リベラルな人が演奏するとフォークと呼ばれるようにジャンルが割れていきました。 例えば、テネシー州ナシュヴィルでカントリー歌手としてデビューした Taylor Swift が大統領選で民主党支持を表明する、 ということがどれだけ「事件性」のある出来事かというのは こうした文脈で理解する必要があります。
これまでにも見てきたように、音楽の外形的な定義のみを考えれば、 どの音楽ジャンルにも多様な人種や文化が様々な形で影響していることは否定できません。 白人音楽が黒人音楽の影響を受け、 また黒人音楽も白人の寄与によって作られているという面がありながら、 それを語る言説の上では厳密にその純粋性を主張あるいは捏造し続けるというのは、 程度の差はあるものの、 ほとんどの音楽ジャンルを通じて繰り返し指摘できます。
このように音楽ジャンルは人種的・党派的アイデンティティの分断を深めるように 分かれていったのが20世紀中葉までの傾向でした。 これが1955年、突然統合されるという今までにない不思議な動きが起こります。 ロックンロールと「若者」の登場です。
明日に続きます!