Merengue Panic



Advent Calendar 2024 4日目の記事

アメリカ音楽とラテン(4)

サルサやメレンゲなどのラテン音楽・ダンスは一般的に広く認知されているとはいえません。 「アメリカ」発の踊れる大衆音楽といえば、 ジャズやロック、ファンクやヒップホップというのがメインストリーム。 一方で20世紀のアメリカの大衆音楽・大衆ダンスはラテン的な影響下に 展開・発展してきた、という指摘もあります。 アフロ=アメリカン音楽の中にラテンの潜勢力を発見していく5回シリーズの4話目!

偏在するラテン

ロックンロールにはラテンのフレーヴァがある、 というのみならずロックンロールはラテン音楽だという主張さえ 可能であることを見てきました。 白人音楽と黒人音楽の混淆と見做されることの多いこの最もアメリカ的なジャンルには、 確かに白と黒以外にもチョコラテの色味が配合されています。

ここで改めてロックンロール前後のアメリカ音楽とラテン音楽の交差点を 具体的にいくつか訪ねてみましょう。

スウィング時代真っ盛りの1930年、ニューヨークではルンバが流行し、 Don Azpiazú の "El Manisero" いわゆる『南京豆売り』が大ヒットしています。 翌年には Louis Armstrong がすぐさまこれをカヴァー、 以後も多くのアメリカ人たちがカヴァーしてスタンダードになっていきます。

この Don Azpiazú のバンドの歌手だった Antonio Machin は若かりし頃の Mario Bauzá を発掘、サッチモのテクニックを研究した Bauzá は Chick Webb のバンドの音楽監督に抜擢され、 Dizzy Gillespie や Ella Fitzgerald と知り合うことになります。 この Chick Webb のオーケストラはサヴォイ・ボールルームで演奏していたバンドの中で 最も人気がありました。 そう、スウィングのダンサたちは Bauzá のキューバ風のトランペットで踊っていたのです。 Bauzá はさらに Cab Calloway のバンドに参加、 Dizzy Gillespie も連れていきます。 アフロキューバン=ジャズの創始者の異名を持つ Bauzá は、 Machito と共同で楽曲を製作、 Tito Puente を見出します。 この Machito と Tito Puente は Tito Rodriguez と合わせてパラディウムのビッグスリー だったことを思い出せば、 50年代のマンボシーンの音楽はラテンであると同等かそれ以上にジャズなのでした。

Bauzá の仕事は単にアフロキューバン=ジャズに貢献したのみならず、 スウィングジャズの巨匠たちのキャリアにも大きく関与していることが分かります。 また、 Gillespie は Charlie Parker らと共にビバップ運動を牽引したことでも知られますが、 スウィングからビバップの時代にも多くのキューバ系や プエルト・リコ系のミュージシャンの寄与があることは重要です。

また、ブルースとラテンの関係に注目すると、 テクスメクスのギター音楽との相互浸透を指摘できます。 バラッドを歌う吟遊詩人の文化はメキシコには古くから根差しており、 それはスペインで活躍したトゥルバドールの伝統を引き受けているといわれます。

60年代に活躍する Santana もここに連なると考えていいでしょう。 リーダである Carlos Santana はメキシコ生まれ、 米墨国境の街ティファナでキャリアをスタートさせます。 セカンドアルバム "Abraxas" (1971) に収録された Tito Puente のカヴァー "Oye Como Va" はラテングラミーの殿堂入りです。 チャチャでありながらかつ見事にロックしているマスタピースです。

Santana
from wikimedia.org

ちなみに Santana の4枚目のアルバム "Caravanserai" のファーストトラック "Eternal Caravan of Reincarnation" は「転生の永遠のキャラバン」という意味。 ウパニシャッドの教えでは、 人の本性はたくさんの身体と人生を仮の宿としながら永遠の旅を続けていると説きます。 われわれの個体や人生というのはこの本性にとっての宿=サライなんだそう。 修行時代にインドのグルからこう学んだ Santana は、 図太いディストーションの利いたギターを鳴らしながら、 特異なラテンロック・ミュージシャンとして越境音楽ともいうべき境地を開拓していきます。

また、 Dave Bartholomew や Professor Longhair はカリブの楽器を採用し、 本格的にアフロ=ラテン的なクラーベ感を導入したブルースをプレイしています。 ニューオーリンズ・ブルースを代表する音楽家である Longhair の "Mardi Gras In New Orleans" (1949) などは、 いま聴くと普通にラテンジャズというべき音楽ですね。 "Big Chief" (1964) などはブーガルーそのものといっていいでしょう。

このように、ジャズにもブルースにもロックンロールにもラテンがある。 もはやアメリカ音楽とはラテン音楽といってもいいのではないでしょうか。

ラテン音楽が深くアメリカ音楽全般に影響を与えているのと同様、 ラテン音楽の側もまたアメリカ音楽の影響を受けているという点も改めて確認しておきます。

メレンゲを例に挙げれば、現代メレンゲの元祖 Johnny Ventura はアメリカ音楽の影響を真正面から受けた世代のミュージシャンです。 自らの名前をアメリカナイズして読ませるあたり、 根っからのアメリカ贔屓ともいえますが、 Ventura は Presley がロックンロールを歌うようにメレンゲを歌いたかった人物です。 あるいは積極的に The Beatles のエッセンスもメレンゲに導入していきました。 また、次世代の Wilfrido Vargas は自身のメレンゲスタイルを 「ミニジャズ」と称したほどジャズの影響を受けています。 そして、メレンゲを世界音楽に押し上げた責任者 Juan Luis Guerra に至ってはそもそも アカデミックにバークリーメソッドを修め、 ジャズミュージシャンとしてデビューしていた人物なのでした。

サルサについていえば Bauzá 時代以来、 ずっとジャズやファンクやロックンロールと 切瑳琢磨してきたジャンルといっても過言ではなく、 Machito も Mongo Santamaria も Bobby and Ritchie も Celia Cruz も、 そうしたアメリカ音楽の果実を存分に咀嚼・消化しています。

フォンキィ・ダンス

ではダンスの観点から見ると60年代以降 「アメリカ」と「ラテン」はどのような関係になっていくでしょうか。

先に見たようにロックンロールはふたりで踊るタイプのジャンルを後退させ、 皆で踊るソロダンスにフォーカスします。 そのアイコニックなステップがツイストでしたね。 そして、カップルダンスの後退に伴う音楽のフィールの変化として、 潜在していた3連感が弱まり、よりストレートな4/4拍子の音楽で踊るようになったということ。 これは解釈によっては商業音楽の圧力でリズムの黒さが漂白されたともいえますし、 そのように評価する論者も少なくありません。 アフリカ由来の「臭い」リズムを消臭しておかねば 白人中心のマーケットでは通用しないということです。

一方でロックンロールによって一度人種音楽の垣根が壊されると、 白人でも黒い音楽を愛好する人は、依然少数派ながら、少しずつ増えてきます。 むしろ積極的に「臭さ」を求める聴衆です。 リズム・アンド・ブルースから発展したファンク(臭い音楽) はまさにこうした文脈でファンを広げていきます。 James Brown や Sly and the Family Stone の方法は強烈なポリリズム感を持つアフロなリズムを提示します。 和声の進行という白人ヨーロッパの中心的コンセプトをあっさり棄て去り、 1コードか2コードだけを反復する単純な旋律を使って、 後ろのリズム隊から図太いパルスと変幻自在のリズム遊びが繰り出される音楽。 そしてその音楽を歌いながら踏まれる彼らのダンスが圧巻です。 The Jackson 5 時代の少年 Michael も舞台袖から必死に見つめ、 懸命にコピーしたという James Brown の超絶技巧のステップは、 合州国の黒人のみならず世界中のダンサの腰を共振させました。

ただし、ここでも注意しておきたいのは JB らのダンスはソロダンスだということ。 例えば Famous Flames 時代の "Please, Please, Please" (1958) から "Try Me" (1959)、 あるいは "Baby You're Right" (1960) などの多くは拍を3連に割ったグルーヴであることが分かりますが、 "Papa's Got a Brand New Bag" (1965) や "I Got You (I Feel Good)" (1965) といった代表的ダンスナンバの頃には表向きストレートなリズムになっています。 ロックンロール同様、ソロダンス向きの音楽に変化しているのですね。 ただし、 JB の場合は深いポリリズム感をふんだんに残しており、 3連系のフィールを背後に持っている感じが強くある。 例えば、不世出のドラマ Clyde Stubblefield が JB の後ろで叩く "Funky Drummer" (1970) のブレイクはそのマイクログルーヴが美しくも黒いアフロなポリリズムの フィールを持っていることから、 後に数多くのヒップホップのサンプリングに用いられたことは有名です。

ブーガルーの混淆性と脱色作用

JB が活躍した60年代はラテン音楽は潜伏の時代。 マンボブームが下火になって次のサルサムーヴメントが登場してくる 70年代までの間は冬の時代と考えられています。 この間のラテン音楽の系譜はブーガルーが繋ぎました。 ブーガルーは英語で歌われることも多いラテンと ロックンロールあるいはファンクとのクロスオーヴァのジャンル。 まさにアメリカ黒人音楽とアフロ=カリビアン音楽の混淆です。 現在ではパートナワークとしてはチャチャで踊られるのですが、 チャチャと同様に基本的にはシャイン、すなわちソロダンスに重心が置かれるダンスです。 さて、ブーガルーはラテンのジャンルでもありますが、 同時にロックンロールやファンク直系でもある。 先に見た Professor Longhair や Santana の音楽は聴く人の意識によっては ラテンではなくブルースやロックンロールと見做される場合もあるでしょう。

60年代は人々が変化を求めた時代でもあります。 Presley の徴兵によって突如過ぎ去ったロックンロールの季節の後、 ファンクの隆盛、フォークシンガーの活躍、黒人ガールズグループの台頭、 そして The Beatles の襲来など、 ポップスシーンには一連の新しい動きが登場していきます。 J.F. ケネディの大統領当選、公民権運動、ウーマンリブ、性的マイノリティたちの蜂起、 さらにはベトナム戦争。 モハメド・アリは兵役を拒否し、ボブ・ディランが人種差別を告発する歌を歌いました。 若者たちは古いものに反抗し、ひたすら新しいものに飛び付きます。 オトナ文化であり20世紀前半的アメリカンボールルーム以来の「古い」 カップルダンスもこの文脈で置き去りにされていきました。

JB dancing boogaloo
JB dancing boogaloo

ソロダンスにおいても、 ひとつひとつのステップは新しいリズムを立てるというよりも どんなジャンルの音楽でも踊れる共通ステップになっていきます。 新しいステップは瞬発的なダンスファドとして登場し、 消費され、混淆していきます。 結果的に4/4のストレートなリズムの曲ならこれらのステップのコレクションを 自由に組み合わせて展開できるという雑多なムーヴ・シラバスが形づくられていきます。 この総体はタップやスウィング、マンボやファンクにジャズにロックンロールなど、 様々なジャンルのステップのアマルガムとして、ブーガルーの名で呼ばれました。 ツイスト、ワトゥーシ、バード、スウィム、 マシュポテイト、ロボット、リキッド、ファンキーチキンなどです。 つまり、ダンスステップが対応する音楽ジャンルと有契的に結びつかなくなり、 どのステップをどんな音楽に合わせても構わないと理解されるようになります。

ダンスと音楽が疎結合になることで、 ミュージカリティやクリエイティヴィティよりも 知っているステップの数がモノをいうようになり、 続くディスコやハッスルの時代のダンスの萌芽が見てとれます。 別の言い方をすれば、 才能やセンスよりも練習量がダンサの質を決定するようになっていき、 ダンスが藝術というよりもスポーツ的なあり方に近づいていきました。 こうしてスタジオでレッスンを受けてステップを学ぶという態度も一般に浸透していきます。

あるいはダンスや音楽のジャンルから文脈性や歴史性が少しずつ 脱色されていく過程ということもできる。 ジャズにしてもマンボにしても、それぞれ強烈な土着性、強い臭いを持つ音楽でしたが、 時代と共にどんどんと洗練され、コスモポリタンになり、 こざっぱりして世界のどこの街に持っていっても受け入れられる、 トランスカルチュラルなジャンル・ミュージックとして垢抜けていきます。 各ジャンルが帯びていた人種・性別・地域・時代・階級に関わるイメジは薄れ、 誰でも何処でもどんな風にでも消費可能な中立性に回収されていく。 こうした変化がミクスチャを促進するのか、 他ジャンルと混ざっていくうちに脱色されたのか。 ともあれ、音楽やダンスの部品化・可換性が増大したということが、 DJ カルチャ、とりわけサンプリングによる切り貼りの可能性を開いていきます。 その到達点が80年代に登場するヒップホップでした。 もはやジャンルの区別は意味がないのでしょうか。 あるいは残るのはせいぜい外形的に記述可能な差異のみで、 歴史性や身体性は消失してしまったのでしょうか。

それでも音楽家やダンサとしての素朴な実感として、 ジャンル名と共に感得されるフィールが確かに存在し、 そのフィールを身体に刻むことにこそ音楽的・ダンス的な日々の実践があり、 ジャンル名を唱えることはパフォーマにとってのアイデンティティ にさえなりうるのだということを思い出すとき、 漠たる寂しさを感じます。 いま、各ジャンルが持つヴァナキュラで交換不可能な成分を信じつつ、 同時に分岐し混淆する諸ジャンルのダイナミズムも認めようとするとき、 これらを両立するスキームをアフロ的な原理の中に見出すことができるかもしれません。

明日に続きます!

posted at: 2024-12-04 (Wed) 12:00 +0900