ナポリタン
ケチャップ料理の最高峰、ケチャップ料理の闇の奥と呼んで差し支えないのがナポリタン。 まさにケチャップを味わうためにあるというべき赤く輝く アメリカン・ジャパニーズの混血児です。
ナポリタンの魅力はなんといってもケチャップと具材のハーモニー。 にも関わらず、街の喫茶店では気軽なランチメニューゆえか、 ほとんど味の染みていないオレンジ色の麺だったり、 気休めにもならないくらいしかベーコンもソーセージも入っていなかったり、 なぜかイカが入っていて全部イカ味になってしまっていたりします。
ちょっと気張ってホテルや老舗風の洋食屋を覗いてみても、 戦前以来のデントウということで、 やたらクタクタに茹でられた麺で供されることも。 これまた高級感を出すためか、 頼んでもないのに伊勢エビか何かが乗っていて ケチャップの風味が台無しになってしまっているものもあります。 もっと目も当てられないのはハンバーグの下に敷かれたり、 弁当の付け合わせで添えられた無惨な姿。 茹で置きやカピカピのスパゲティには何の呪いか一定の需要があるらしいのです。
このようになぜか外食産業では不当な扱いを受けていることの多いナポリタンですが、 今回はご家庭料理のメインとして食べられる、 ケチャップの風味を存分に活かしたスィンプルな一品です。

そもそもイタリアともナポリとも関係のない純和風洋食であるナポリタンは、 単なる外食メニューという以上に独特の思い入れを持つ人や批判者が多く、 自分の好みの味を追求するためにはままよという決意と強い意志が必要です。 アメリカスの象徴であるトマト・ケチャップと和風洋食の折衷として、 クィジーンの混血児、赤と緑の弁証法、 あるいは顔を赤く塗った黄色人のアジアン・ミンストレルショウとでもういうべきナポリタン。 その現代版レシピにはいやおうなく漠たる悲しみと鈍い痛みが染み出します。
材料です。
- 自家製ケチャップ - 90g
- スパゲティ(乾麺) - 200g
- ニンニク - 1片
- タマネギ - 1個
- ピーマン - 3個
- マッシュルーム - 3個程度
- ソーセージ - 2本
- ローリエ - 1枚
- パルミジャーノ・レッジャーノ - 適量
- レモスコ - 適量
- タバスコ - 適量
- 塩・胡椒 - 少々
- 粒マスタード - 適量
- 赤ワイン - 60g
- オリーブオイル - 適量
- きび糖 - 15g
コンロを2口使います。 最初に寸胴鍋にたっぷり水を張って沸かし始めておきましょう。
まずはニンニクを包丁の腹でつぶし、 オリーブオイルを引いたフライパンに入れたら弱火にして香りを移していきます。 タマネギを微塵切りにし、ピーマンとマッシュルームも同じサイズに切り揃えます。 ソーセージは食べ応えがあるように 2cm 幅にカットしていきます。 好きな人は多めの分量にしてもいいと思いますし、 お好みでハーブソーセージを使ってみるのも面白いですよ。
異論もあるでしょうが、 触感を大事にしたいという観点でここはベーコンではなくソーセージ一択とさせてください。
次にフライパンからニンニクを取り出しタマネギを投入、 弱火でしっかりじっくり炒めます。 ナポリタンの味はこのタマネギを炒めるフェイズをどれだけ丁寧にできるか、 に掛かっています。 手抜きの許されないパートです。
しっかり炒まってきたらピーマン・マッシュルーム・ソーセージも加えてさらに炒めます。 そうしたらケチャップときび砂糖を投入し、 ローリエと赤ワインを入れて少し煮立たせます。 もともとのケチャップが甘さ控えめなのでここは少し甘さを足しておきたいのですね。 もし水分が足らないようなら赤ワインの量を増やしてください。 ここで味見して塩・胡椒でお好みに塩梅します。 一旦火を引いて味を落ち着かせましょう。
さて、ここからは時間勝負です。 スパゲティは何がなんでもアルデンテで食べたいため、 食事開始までに必要なあらゆる作業はすべてこの段階で済ませておいてください。 膳を立て、食器を準備し、 もしスープやサラダの付け合わせがあるならそれを食卓に配置し、 飲み物もグラスに注いでおき、レモスコ・タバスコ等のテーブル調味料も並べておきます。 あとはナポリタンの皿さえ持っていったら真っ直ぐ食べ始められるという状況を作りましょう。
ナポリタンはクタクタになったのを食べるのが古式ゆかしいデントウなのだ、 などというマゾヒスティックなショーワ・ノスタルジィの言説に騙されてはいけません。 スパゲティ・アームとはぐにゃぐにゃで一切リードが伝わらない フォローの腕を批難する言葉ですが、 ナポリタンにおいてもアルデンテなトーンが大切です。
ともあれ、膳立てが完了したことを確認してからスパゲティを茹で始めます。 茹で時間が10分前後のものが扱い易いと思います。 そしてこの間にパルミジャーノ・レッジャーノをせっせと削りましょう。 ここでもたっぷりめに用意するのがいいですね。 削り了えたら小皿に盛って先に食卓に運んでおきます。 この辺りの時間のロスも麺類には大敵です。
そして、再びフライパンに火を入れ具材を温めます。 そしてここで隠し味に粒マスタードを入れるのがポイント。 酸味と辛味でケチャップの甘さがぐっとしまります。 麺と合わせる前にしっかり具材と混ぜておきましょう。
そうしたら乾麺の茹で時間より少し早め、 芯がギリギリ残っているか否かというところで麺をザルに上げ、 ざっくり水分を切ったらフライパンに投入します。 麺全体にしっかり色が回るように手早くあおります。 あとは盛り付けですが、 先に麺を大まかに皿中央に置き フライパンに残った具材を上から掛けるようにすると簡単です。 スパゲティは刻一刻と伸びていきますので、急いで食べ始めます。 フライパンを洗う暇もありません。
パルミジャーノ・レッジャーノ、レモスコ、タバスコなどで味変しながら食べると 大盛りでも飽きがきません。 一定のリズムでピーマンとソーセージを行ったり来たりするのもいいですね。 まさに苦みと旨みのマンボといったところです。 レモスコのソロやタバスコのソネーロ、 パルミジャーノ・レッジャーノの4バースなどに舌鼓を打ちつつ、 塩味・酸味・苦味・旨味・甘味に辛味や渋味や脂味なども加わった フルオーケストラを堪能しましょう。
先端としての舌
さて、本サイトがやたらと食のトピックにこだわるのは パートナダンスへの関心と無関係ではありません。 総合的な身体技藝としてのパートナダンスの地力を培うには、 その基層的水準の感覚を研ぎ澄ます鍛錬が必要であり、 味覚の繊細さはダンサのコンピタンスに直結すると信じるからです。
例えば、よいダンサになるための基本的なコツして、 できるだめ「目」を使わない、ということがあります。 初心者は意味もなく足や手を見てしまいますがまずはこれを止める。 人は、とりわけ現代人は視覚情報への依存が高く、 俗に情報の8割を視覚によって認知しているといわれたりしています。 この数字がどれだけ精確かは分かりませんが、 目に頼り過ぎているというのは理屈以前の実感としても納得できることです。 眼・耳・鼻・舌・身といわれる五官の機能は、 おそらくこの順で優位に働いでいるのでしょう。 パートナダンサに必要な身体感覚はむしろこれの逆順のプライオリティです。
ダンサが最も繊細さを鍛えるべきは身、つまり触覚である点は論を待ちません。 コネクションの上達とはあるレヴェルを越えると タッチの繊細さとほとんど同義になってきます。 掌と手指の感覚はパートナの運動ベクトルや加速度だけでなく、 感情や体調まで感じとる高性能なセンサリング能力を持ちますし、 足の裏はフロアとの反発を通じて自分の重さの 揺らぎやバランスの微妙な不安定さをフィードバックしてくれます。 つまり、 ベーシックとコネクションは感覚器官としては足の裏と掌の感度に支えられているのですね。 ダンスレッスンではしばしば「足の裏を使え」とか「指先を柔らかく」と注意されますが、 この身体の先端としての手足の感覚を練るのに重要なのが舌のトレーニングなのです。
掌と足の裏は無毛皮膚で、 唇や舌と同様に発生的には内蔵器官が外部に露出した部位であり、 これらには深い共感覚があるからです。 四つ足動物にとっては外界と接触するときの最先端は口吻部、 赤子は何でも口に入れてみるのであり、 二足歩行する成人にとっても未だ手は舌の代替なのでした。
目を閉じてリードをすることや相手に焦点を合わせずに踊ることは 初中級以上の練習メニューとしてはとても効果があります。 フォローは相手のキューが見えないと反応できない動きがたくさんありますから、 目を閉じる訳にはいきませんが、 リードは1曲通じて目を閉じてもほとんど問題なく踊れるはずです。 それは四肢と舌のセンサで周囲と音楽が認識ができるからであり、 掌や足の裏を感覚器官として活用できるからです。
この意味で、舌を鍛えるとはグルメになることでもグルマンになることでもありません。
サルサやメレンゲのような音楽・ダンスジャンルが食べ物のメタファで語られる、 ということの重要性は強調し過ぎることはできません。 実際に音楽やダンスの妙は「味」として感じられ、 共感覚として「美味しい」とか「不味い」と判断されるものです。 リズムのいいバイラブレなサルサが掛かって「サボール!」と叫ぶのは、 このジャンルの音楽は舌で味わうべき身体性を持つことの宣言です。 Celia Cruz の 「アスーカル!」という掛け声もまた、 ラティーノたちの内蔵的共感覚を刺戟しているのでした。 サトウキビ・プランテーションで鞭打たれて働いていたカリブ海の人々が、 その成果物である甘い砂糖をすべて白人たちに取り上げられ、 一切消費できなかった頃の怨みを晴らしてもくれてるのです。

あるいは、パートナダンスの1曲を、 リードという料理人が音楽という食材を使ってフォローという食人をもてなす 1皿料理に喩えることもできます。 食べる悦びともてなす悦びは共に古い食卓作法に立脚した神事として進行します。 パーティを通じてもあるいは1曲の間の展開においても、 前菜・メイン・〆・デザートの順序は厳密に守られねばなりません。 食材たる音楽は自然や世界や神々からの神聖なギフトです。 そして美味しいダンスというのは甘味や旨味のみならず、 辛味や酸味や塩味も含んだトータルな複雑さの中で味わうものなのでした。 料理の評価は見た目も大事にしたいですが、 最終的にはその味と香りのよしあしで判断されるべきものです。
世界と関係する唯一の方法として母親の乳房をしゃぶっていた乳児は、 歯が生え始めると「痛い」と拒絶されるので、 不承不承しゃぶることからその代替としてしゃべること、 すなわち言語によるコミュニケーションのモードへと移行します。 どの個人にとっても原初の悲しみというべきこの事件は、 人が常にコミュニケーションを求める動物であることの動機となっているともいわれます。 「しゃぶる」と「しゃべる」が同じ語源であることの智慧を味わうとき、 会話としてのパートナダンスもまた舌の機能の延長であると気付きます。
舌に残るケチャップの後味の半分は、 愛しい人の口の中に千年後まで染み付いている「ぼくの味」なのかもしれないし、 もう半分は貧しい鉱山労働者の口の中に含まれた火薬の苦味なのかもしれません。
明日は新しいテーマです!