いろいろな評価軸
ダンスジャンルにはさまざまな特徴があり、 それらの特徴を比較するための評価軸もまたいろいろと考えられることを見てきました。
個性と型、シャインとパートナワーク、ソロダンスと群舞、 ヴァナキュラとコスモポリタン、男女の優位差、 アップライトな白人風ダンスとポリセントリックなアフロダンス、 サルサとコントロル、 それに手数の自由度、即興表現のスポーツ性など、 もっと数えればまだまだありそうです。 ここで再び試みにいくつかの軸で可視化してみましょう。 なお、キューバンから独立させてルエダを、 そしてもうひとつ簡単なステップで行うアニメーションを想定し、それぞれ加えてみました。
改めて、このマッピングはごく仮設的なものでしかなく、 ぼんやりしたイメジという程度のもの以上ではありません。 ただ、根拠の薄弱なプロットであったとしても、 それを並べて比較してみたときに見える景色を味わってみようという試みです。

これは横軸にシャインかパートナワークのどちらを指向するかをとり、 縦軸にどれだけダンスがアッパ系かの指標をマッピングしたものです。 シャインやソロダンスに傾いているジャンルほど左に、 パートナワーク中心なものほど右に置かれます。

続いてこれは横軸が個性か型かを表し、 縦軸はヴァナキュラ・コスモポリタンの指標。 左ほど個性重視、右に行くほどパタン重視となり、 下に行くほどヴァナキュラなスタイルで上に行くほど都会的なスタイルということです。

これは横軸が最初と同じくシャイン/パートナワークで、 縦軸が個性/型軸です。
これらの表からいろいろとダンスジャンルの特徴を云々するのも興味深いことではありますが、 ここではそうした細かい議論をしたいのではありません。 むしろ確認しておきたいのは、 さまざまな見方があり、ダンスジャンルの評価は無限にありうるということです。
例えば最初の表ではレゲトンは外れ値的な位置にありますが、 ふたつ目の表ではそれほど特別でもないように見えること、 逆にブーガルーはふたつ目の表での評価の方が外れてみえます。 ひとつ目の図ではヴァナキュラサルサと on1 の距離は比較的近いように感じますが、 ふたつ目の図やみっつ目の図ではずいぶんと離れたジャンルのように感じる。
ここまでの議論でもある程度ジャンルごとの印象や一般的な評価について触れてきましたが、 そうした見方は決して固定的ではなく、見る人や比較対象や、 置かれた状況に応じてコロコロと感じ方が変わるのだということです。 on2 は on1 より優れている、 スロットスタイルにサボールはないがキューバンにはある、 パチャンガはオシャレだがレゲトンはダサい、 ブーガルーを踊るならチャチャで充分、 バチャータがあればメレンゲは要らない。 このように特定のダンスジャンルやスタイルを否定するのは容易です。 もちろん、こうした意見は同じ論法でただちに真反対に引っくり返すこともできます。
そして、同じことがダンサごとのスタイルについても全く同様にいえます。 ダンサの評価をするのはとても難しい。 スタイルの特徴とパラレルな関係で様々な物差しがあるので、 グッドダンサかどうかは人によって全く異なります。
「あのリードはサルサが上手だ」という評価があったとき、 彼はパートナワークが得意なのかシャインを踊るのが得意なのか。 ヴァナキュラなスタイルで踊るのか、それともトランスカルチュラルなスタイルなのか。 表現が面白いのか、反応力が高いのか。 このように、同じ言葉で褒めたとしてもその内実は全く食い違ってしまいます。 明確に物差しを定義すれば、その物差しにおいて上手いとか下手というのはいえますし、 実際にフロア上での実力差というのはありますが、 それは常に相対的なものでそれほど安定したものではないということです。
このような徹底した相対主義を受け入れると、 どんなダンスを踊っても評価されることもあるし評価されない場合もある。 じゃあ別にどんな風に踊っても構わないのだから適当に踊ればいいじゃないか、 こういう意見が出てきます。 ダンスジャンル間でも、ダンサ間でも優劣は分からないということになります。 「結局ただの好みでしょ」とか 「最後は相性がいいかどうかだね」という声も聞こえてきます。 ダンスフロアには様々なバックグラウンドの人がいるので、 価値観は多様で目指すべきグッドダンサの像は揺らぎます。
評価軸には背反する要素があるものも多いので、 どの軸で評価しても常に優れているようなダンサは存在しえません。 ここでも、ダンサをけなすことは褒めることより遥かに簡単です。
実際に世界中を飛び回っているサルサ・セレブリティたちでさえ、 パフォーマンスやレッスンにはそれなりの自信を持っているが、 ソーシャルは苦手と公言する人は少なくなく、 ソーシャルダンスの能力に関しては自己評価が満点という人の話を聞いたことがありません。
「わたしはソーシャルが得意です」という人がいますが、 ここには「自分が踊り方を曲げなくてもよいならば」とか 「相手が期待通りのスタイルであれば」 という前提が省略されています。 「どんな相手とも楽しく踊れます」という宣言は嘘ではないかもしれませんが、 「どんな相手も必ず楽しませることができます」というのはおそらく楽観的な希望です。
誰に対しても自分のスタイルを前提とするのは頑なですし、 それが期待できない相手とは踊らないというのも冷淡です。 ジャンルやスタイルに絶対的な優劣がないことを理解するなら、 フロアではできるだけ多様なスタイルが受け入れられるように努めねばなりません。
幸福よりも快楽を
そこで、ソーシャルダンスを自分にとってもっと楽しくしたいと思えば、 できるだけいろんな引き出しを持つ、というのは確かにひとつの意気込みです。 さまざまなジャンルに挑戦し、さまざまな軸の方向に自分のダンス能力を伸ばす。 メレンゲも、チャチャも、パチャンガも、ボレーロも、 それぞれフレーヴァを味わいながら踊れるように練習する。 テンションが高いパーリーピーポーにも波長を合わせ、 エレガント風な文明人にも対応できるようにチューニングに幅を持たせる。 厳密に噛み合うコングレススタイルを練習しつつも、 緩く雰囲気のファミリーキッチンサルサにも付き合える懐の深さを持ち、 溶け合うようなボレーロも元気いっぱいのパチャンガもなんでもこい。 出来るものなら、 このようなダンサになりたいというのは割とマジョリティの願望ではなかろうかと推量します。
多様性を保つことはダンスフロアにおける究極善。 そして、真摯にパートナダンスを楽しもうと企む者は、 必然的にこの多様性に資する行動をせざるをえません。
ただ、いろんな事情でなかなかそうもいかないので ほとんどの人は特定のジャンルのフロアを中心に楽しみ、 それ以外の場所には足が向かないというのが正直なところではないでしょうか。 期待するものが違う人と踊っても楽しくないし、 場合によっては不快な思いをすることが多いのは事実なのですから。 結果としてスタイルや方向性、考え方やフロアでのノリによって、 多くの分断とディスコミュニケーションが発生します。 スタイルの違いがコミュニティの亀裂になるんですね。
ダンスという関心さえなければ音楽については どのジャンルにも比較的耳を開いている人は多いように思うのですが、 ついダンスフロアの都合が絡むと、 ドゥーラは嫌いとか、ブーガルーは無理とか、 ロマンティコは無粋だとかメレンゲはピンとこないとかいう人が出てきますね。 こうした態度は局所最適解にはなっているかもしれませんが、 もう少し広い視野で考えると決して誰にとっても望ましい状況ではありません。
というのもここまで見てきたようにそれぞれの音楽ジャンルが 固有のフィールを持っているのは、 そうしたフィールごとの色彩がダンスフロアの多様性を作るからです。 音楽の個性に支えられて無季節のフロアは抑揚と緩急を持つことができます。 そうした音楽の四季を楽しむことで、 昂進性を抑えつつ、パーティの熱量を上げていくことができるのでした。 「サルサとコントロル」の智慧ですね。
ひとつのジャンル、ひとつのスタイルに引き込もることは、 不快な出来事の生じるリスクを下げはしますが、 逆に積極的な楽しみや快楽の可能性も下げてしまいます。 季節の彩りもなく、期待とスタイルが似たような人たちだけで集まっていても、 同質空間への引き込もりはそれほど長く持続できません。 排他的な空気と権威主義さえ充満してくるかもしれません。 結果的にじりじりと居心地が悪くなり、人が減り、自分も楽しめなくなって去ることになる。 だからやっぱりサブジャンルの壁は壊した方がいい。 さもなくばラテン的な混淆性に裏打ちされているはずのダンスフロアは霧消してしまいます。
皆ただ楽しく踊りたいだけなのにどうしてついついこうなってしまうのか。 多様性が大事だとは思いつつも、安心できるいつもの場所は荒らされたくはない、 というのが人情ですね。
つまり、ダンスフロアをよき場所にしようとするとき、 ふたつの方向があるということ。 ひとつは消極的に不快の要素を排除しようとする方法。 もうひとつは積極的に多様性を認め、楽しみを増やそうとする方法です。 別の言い方をすれば、 幸福を追求するのが前者、快楽を追求するのが後者ともいえるかもしれません。 身体的な苦痛がなく、精神的な不安や恐怖もない状態を幸福というなら、 引き込もり戦略はまさに幸福を目指しているといえます。 しかしそもそもダンスとは自ら楽しみや悦びを経験しにいく積極的な行動だったはず。 踊りたいという欲求に従い、 仮にそこで多少の不快があっても快楽のためには突き進むという突破力が求められたのでした。 消極的で不確かな幸福と比較し、 確かな重量感やシズル感のある快楽を求めることが本来的には ダンスという衝動なのだろうと思います。 この点でも同質的集団の中に引き込もるというのは筋の悪い方略だといえます。
そういえば、サルサ的現実すなわちラテンアメリカの庶民の生活とは、 政治的にも経済的にも不幸を避けることは不可能であり、 人生を豊かにするには快楽を追求するしかないのでした。
ダンスフロアのポトラッチ
ところでダンスフロアの参加者はそれぞれまず自分自身が楽しみたいと思っているはずです。 これは広い意味での快楽主義的な原則で、快楽主義とはそもそも排他的なものでした。 食べ物でも恋愛対象でも名声でも無限にリソースがあるわけではないので 誰かが得をすれば別の人が損するゼロサムゲームだからです。 自分が得をするためには他者に構っていては駄目だというのが基本ルールなんですね。 ただし、ダンスフロアはこの点について特筆すべき例外、 快楽主義が博愛主義を要請する場所なのでした。
なぜならパートナダンスはひとりでは享楽できず、 お互いが楽しませ合わないことには始まらないからです。 自分がひとりで逆立ちしたってパートナダンスは踊れません。 しかもパートナチェンジを前提とした流動的な人間関係ですから、 契約や支配・服従関係で特定の相手のみと踊るということも期待できません。 だから自分の快楽は他人から与えてもらう必要がある。 その互酬として自分も相手を楽しませようとする。 このように、 ダンスフロアの博愛主義はそもそも利己的な動機に立脚しているとも見做せるため、 これは強力な駆動力を持ちます。 倫理や道徳を掲げた綺麗ごとではなく、 論理の帰結としてパートナダンサは博愛主義者になるしかないのですから。
実際、 ダンス環境というのは多くの人の献身と喜捨の精神によって成り立っています。 楽しく踊りたいならフロア全体を盛り上げなければいけないし、 上手い相手と踊りたいならダンス技術を普及して回らなければならない。 コミュニティを盛り上げたいなら初心者をウェルカムし育てなければいけません。
ギヴ・アンド・テイクという互酬的な経済を考えるとき、 テイクするばかりになってしまうフリーライダも一定数いますが、 むしろ注目すべきは、より多く与える力のある人の存在です。 驚くほど寛大で惜しみなくギヴする人々がいればこそ、 現在のサルサ・コミュニティは成り立っています。
例えば経済的には最もリスクがあって負担がいくのは箱。 単価の安いラテンダンスでクラブやバーを経営するのは決して簡単ではないと思いますが、 利益優先だけではやっていけないところを 頑張ってお店を守ってくれている人たちがいます。
また、ほとんど実入りのないラテン系の DJ さんたちの中には熱意を持って音源を掘り、 心を込めて編集したりセットリストを準備したりしてくれています。 これは地味に時間のかかる作業でもあり、 好きでなければできない仕事。 こういう人のスピンは特別なヴァイブスをフロアに伝えます。
そして、熱心に生徒を指導するために津々浦々まで駆け回るインストラクタたち。 これまた労多くして実入りの少ない仕事ですが、 とりわけ初心者向けクラスや単発のクラスで教えるのは 定着率や安定性などを考えても非常に効率が悪い。 それでも使命感を持って指導してくれる彼ら彼女らがインスパイアしてくれればこそ、 多くのダンサが踊る楽しみに開かれていきます。 未知のステップと出遭い、身体に新しい動きの通路を発見するのを手伝ってくれる。 例えば、世界中を飛び回って身に付けてきた優れた技術を 出し惜しみなく気前よく人々に伝えてくれる、 あるエナジェティックな素晴らしいダンサの姿は、 北米のインディオたちに伝わるポトラッチの贈与経済を思い出させます。

贈与経済というのは資本主義的な限定経済と異なり、 希少性ではなく過剰性に価値を置きます。 インディオの酋長は気前よく財産を人々に贈与する。 祝祭の日にすべての財産を最後の一滴まで他者に振る舞ってしまうのです。 そうすることで民衆はその酋長の徳を称賛し、彼に栄誉を与える。 そしてこの栄誉は、再び一族のもとに財産が集まってくる誘引力になり、 そのおかげでまた翌年もこの一族は 大盤振る舞いすることができるだけの財力を持てるということになるのです。
サルサの世界にもこうしたポトラッチの酋長あるいは女酋長たちがおり、 この産業はまだほんとうの意味では生産性と物々交換の原理では回っておらず、 贈与と互酬性を駆動力にしているのだと気付きます。 普遍経済の論理では贈与に対しては浪費で応じなければなりません。 熱心な DJ がよい曲を掛けてくれたら目一杯楽しんでそのダンスを踊る。 心あるインストラクタが何時間も運転してレッスンしにきてくれたら真剣に吸収する。 このような応対こそが「与える人」の徳に報いる「受け取る人」の義務です。 これが「与える人」の与える力を再び充填させるんですね。 パーティのフィーやレッスン代はサーヴィスの対価というよりも その場を成立させるために皆で持ち寄るチップのようなもので、 パーティもレッスンも実は交換というよりもポトラッチとしてしか成り立たないのでした。
そうであれば、優れたミュージシャンを称賛したり、 コミュニティに尽力するインストラクタをサポートしたりすることは、 どの参加者でもできるギフトの輪への参加となります。 限定経済の原理でもビジネスとしてサルサを回すことはギリギリ可能かもしれませんが、 それは決して自立共生的なものにはならないでしょう。
商業主義に依存するということは、 比較優位があればサルサは他のダンスに置き替え可能であるということですし、 新たな需要を喚起するために音楽もダンスも古いものを切り捨てていかざるをえません。 ところが、ダンスフロアのコモンズであるダンス技術というものは、 そう簡単に作ったり棄てたりできないので、 結局、悪貨が良貨を駆逐するのに任せるしかなくなります。
現在のサルサシーンでもこの例に該当するような事例を挙げる人もいるでしょうが、 それでも多くの魅力あるスタイルや音楽ジャンルがあり、 多様性と混淆性が確かな手触りで残っているダンスフロアは未だ失われていません。 利己的に自己の快楽を追求するのみという人でさえ、 ある範囲では博愛主義の輪の中に連れ込んでしまうこのパートナダンスの特異な社会性は、 社交というものが千年実践されてきたダンスパーティ文化のしたたかさが 古い贈与経済に接続されたところに立ち上がったのだと確認させてくれます。
そもそもダンスのステップやパートナワークは一切パテントを 主張することができないのでした。 それゆえ、ダンスはコモンズとしてしか存在しえず、 共有されるものであって、 誰かが独占したり私有したりできるものではありません。 ダンスジャンルとは海や島のようなもの、 誰かが所有できるようなものではなく逆に人々を抱く自律的な主体です。 ならばそれを学んだり練習したりすることは ビーチコーミングのようなものとはいえないでしょうか。 ひとりであらゆるジャンルに足を突っ込む必要もありませんが、 少なくとも相手の踊りを受け入れることは出来るように努めたいと思います。
これだけ玉石混淆のサルサ、自分とスタイルが合わない人ももちろんいるでしょうが、 それでもその人たちも含めてダンスフロアを支えているのだと自覚するとき、 決してひとりでは踊れないのがパートナダンスであることを思い出すとき、 超然孤高として仙人やエリートのように振る舞うことはできないのだと悟ります。 別に俗物みたいな人たちとまであえてつるむ必要もありませんが、 そういう人たちも確かに大切な存在であると 結論づけざるをえないのがダンスフロアなのでした。
この博愛主義は利己的な快楽主義に裏書きされているのですからどうしようもありません。
それぞれが絶えず自分のスタイルを探究し続けることは、 他者のスタイルを受け入れる探究でもあるという意味で、 フロアの多様性を守るために必要なコストです。 この贈与経済の原理を信じるなら、 ひとりびとりのダンサにとってこのコストを負担することは義務といえるかもしれません。 義務というのが強すぎる表現なら、 われわれに悦びと活力を与えてくれる サルサそのものへの返礼くらいにはいえるのではないでしょうか。 どうせすべてのスタイルをマスタすることは誰にもできないのですから、 せめて幻想の四季の喚起力に頼ってみるのもいいでしょう。 一次元の物差しでは決して評価できないのがダンス・スタイルなのでした。
春はメレンゲ、夏はチャチャ、 秋はパチャンガ、冬はボレーロ。 季節感なくいつでも光り輝く満月=ミラーボールは 尽きることなくダンスフロアを照らしてくれています。
明日は新しいテーマです!