Merengue Panic



Advent Calendar 2024 20日目の記事

パンドラとメレンゲを踊る (2)

サルサやメレンゲの充実感はくじ引きのようなもの。 どんな悦びが1曲のダンスから引き出されるのかを決めるのは自らの姿勢と偶然です。 毎回異なるダンスの満足度を予測する方程式は書きようがあるでしょうか。 誰といつ踊るべきか。何を何のために踊るべきか。そしてどう踊るべきか。 最高の1曲と遭遇する時の到来を占う拈華微笑の快楽論、 7回シリーズの2話目です!

コングレスサルサのエリーティズム

20世紀末、無数のスタイルの統廃合によって コングレススタイルが登場した際、 サルサは規律と秩序を指向する高度に合理的なパートナワークを前提として 成立するようになりました。 スロットスタイルはその輝かしい標準化の果実であり、 正規の初等トレーニングを経たリードやフォローたちであれば、 初顔合わせで、初めて聴く曲に合わせて踊っても、 何ら問題なくきっちり噛み合って踊ることができるスタイルです。 世界中から同じコングレスに集まった者同士、朝まで踊り続けることができるんですね。 これはくらくらするほど感動的なことで、 バベル以前の共同体の意志疎通の気安さを思い出させてくれます。

言葉が通じなくても、 民族や膚の色が違っても、 一神教徒と多神教徒でも、 資本主義者と共産主義者でも、 アメリカ人とアジア人でも、 赤と青でも、 金持ちと貧乏人でも、 賢者と愚者でも、 一緒に踊れば簡単に噛み合うのがコングレススタイル。 しかも笑顔で向かい合って踊って一緒に楽しみを与え合うことができる。 スポーツやゲームのような対抗的な競技性に支えられている訳でもなく、 純粋に楽しむためだけのコミュニケーションです。 単にパーティで手を差し出せば踊り始められるという意味でもその気軽さは ミュージシャン同士のジャムセッション以上で、 パートナダンスの特筆すべき魅力ですね。

Various Salsas
from wikimedia.org

一方でそのドローバックが大きく2つあるのでした。 ひとつは音楽とダンスの分離。 もうひとつはレッスンやスクールのような制度的学習を前提としなければ 踊れるようにならないこと。

どちらもコミュニティの分断を生む要因ですが、 後者の問題はレッスンサルサを踊る人と ファミリーキッチンサルサの人の間の分断を作るということなんでしたね。 世界中のサルサダンサを統合しようとする意図は 必然的に招かれざるものたちとの分断を生みます。 コングレスサルサが統合した内側に含まれない人々がその外に向かって排除される。

ロックンロールの登場 が白と黒の混淆を促した一方で若者と大人の分断を作ったのと同じように、 ここでも統合と分断は常に同じ現象の裏表なのでした。 プロメテウス的人々、つまり秩序と調和を重視し、 コスモポリタンでルールに基づいた市民社会を体現しようとする人たちにとって、 コングレススタイルは親和性の高い踊り方です。

ドイツの哲学者に倣っていえば、 節度と明確な意志によって知的で調和的な世界を指向するという意味で、 こうしたプロメテウス的な人々はアポロン的価値を持つといってもいいかもしれません。 このシェーマで続ければ、 逆に反コングレススタイル、ヴァナキュラなファミリーキッチンスタイルには、 節度や個の境界を破壊し根源的な唯一者に融合することを目指す ディオニソス的な価値が指向されているともいえますね。 両者の間には深刻な敵対関係があるので、 アポロン的世界で踊りたい人々はまともにレッスンを受けていない人たちを ダンスフロアの「落ちこぼれ」として排除したがり、 一方のディオニソス的祝祭に惹かれる人々は「ダンスエリート」たちを 「キルジョイ」とか「ジョック」として罵ります。

ある文脈において、 コングレス的なレッスンは一部のダンサたちに踊る能力を与えると同時に、 それ以外のダンサたちを「落ちこぼれ」と見做すことを正当化する仕組みにもなっていきます。 それはちょうど学校教育が一部のエリートに進学と就職の機会を与えながら、 「落伍者」を大量生産することで機会不均等を作っていることと比較できますね。 実際に社会で役に立つかどうかは学歴とは無関係であることが分かっていますが、 生涯年収と学歴は見事に比例します。

これと同じことがサルサでもいえるんですね。 実際にフロアで必要なことのうち、レッスンで教えられることはほんのごく一部。 なのにレッスンを受けていないというだけで「落ちこぼれ」扱いすることが許されてしまう、 というのはヴァナキュラなスタイルに誇りを持つダンサたちの怨みを植え付けます。

こうした抑圧的な社会力学が生じるのは、 アポロン的サルサが周辺の「未開領域」に勢力を伸ばし、 自陣を拡大しようとする傾向、 つまりグローバリズム的傾向を持つことが原因でもあります。 もともとコングレススタイルは世界中のスタイルを統一しようという、 産業的な関心にも背中を圧されて登場したのでした。 そのため前線では常に紛争が起きています。 スタイル内部の覇権争いも過熱し、 on1 vs o2 論争などはその典型ですが、 分断と拡大・吸収を企図し続ける性格を持っています。

ただ少し透徹した目で眺めると、 先に見たようにプロメテウス的ダンスは漸進的な技術水準の高度化が必須で、 それが最終的に頭打ちするとその駆動力を維持することができなくなるため、 不可避的に「不可解な岩」に向かっていきます。 究極的には周囲のダンス環境を破壊した上で 自壊していくという悲惨な未来が宿命づけられています。

結果としてダンス産業はコングレスサルサが食べ尽くされたら新しいジャンルミュージックの 新しいジャンルダンスに乗り換えていくしかありません。 このことを見通すディオニソス的知性は徹底的にアポロンを攪乱し抵抗するのでした。

原的ダンスの欲求

一方のディオニソスが体現しようとするダンスのモードはより古いものです。 本来、原ダンスの欲求は狂うこと。 くるくる回るということ自体が日常的な秩序の世界からの離脱そのものなのでしたね。

この意味でもやはりアポロン的価値は原ダンスと相性が悪い。 アポロン的価値がパートナダンスという近代的な新しいフォーマットと 親和性がよいというのは当然のことともいえます。

このことは逆向きにいえば原ダンスの衝動はパートナダンスに向かないということです。 節度や秩序を破壊し、 個を破壊して世界と融合したいというのはおそらく人類のダンスの最も古い欲求です。 古代の原始人の踊りからブロンクスの乱痴気騒ぎまでを貫く ごく素朴なあり方といえるでしょう。 もともとダンスはハレの側、 すなわち日常的なケのルールや閉塞感を打ち破り、 熱狂によって日々に新鮮なエネルギィを循環させる文化的な役割を担っているのでした。

こういうダンスの動機はパートナワークになりにくいので、 これがダンスフロアに現れるときは典型的にはシャインやアニメーション、 ソロダンスとして展開するのでした。 ただ on2 あたりのシラバス化されたシャインは ここでいう原的ダンスとは違うというべきですね。 これはむしろプロメテウス的なコングレスサルサのサブジャンル。 パートナワーク対シャインというのはあくまでも分かりやすい模式的な構図です。

そう考えてみると、出鱈目でもいいから自由に踊りたいというのは 50年代のマンボレジェンドたちの主張に通じていますね。 強い衝動に突き動かされた身体にとっては、 リード・アンド・フォローなんてやっている場合ではありません。 合理的なシステムに回収されない衝動がここにはあります。

一方で、身体的欲求の解放と交響する昂奮は相容れない訳でもありません。 実際シャインの掛け合いはこのディオニソス的昂奮に支えられて部分もありますし、 パートナ同士のコミュニケーションは欲求解放による爽快という意味で エロース的な回路で通じています。

互いに自己を相手に開示し、 慎み深さや恥じらいをまったく棄てて掛け合うシャインというのを 純粋な形で見ることはサルサのダンスフロアでは少ないですが、 理念としてはこうした境地に向かっているとはいえるでしょう。 あるいは、こうした純粋に原的ダンス欲求を解放する能力を失ってしまっていることが、 シャインへの照れ ともいえますし、 その抑圧から放たれたいという潜在的な感情の抜け道として、 パートナワークの中のシャインが要請されるのかもしれません。 ダンサの中にある微妙な二律背反の感情の綱引きを見てとることができます。

協調的な秩序の中で整然と踊りたいというプロメテウス的な心地良さと、 原的な衝動に従って個を超越し自然や他の個体と融解したいというエロース的な傾きは、 誰しもダンスの中にその両者を同時に持っているともいえます。 その配合のバランスは個的なスタイルとして観察できることもありますが、 全体としてパートナダンスはプロメテウスに偏る傾向があるとはいえるかもしれません。

そしてここでもこの両者はそれぞれの価値を倍加させ合う関係がある点が重要です。 法の支配の下での退屈な毎日が週末のパーティの祝祭的気分を盛り上げるということはあるし、 お祭り騒ぎの週末を経ればこそ、 翌週の小市民的日常を真面目にこなしていく活力をを得るという部分もあるでしょう。 あるいは、 酸味や塩味が利いてこそ旨味が倍増される 自家製ケチャップのサボール を思い出すこともできるかもしれません。

ともあれ、退屈や虚無は死を予期するプロメテウスの必然的な帰結でしたが、 市民社会の合理性と居心地のよさは生活を維持していく上では欠かすことはできません。 文明的生活と技術によるサポートがなければ ヒトは弱すぎて生きていくことができないのでした。 それでもそうした高度に管理された生活はすぐに彩りを失い、 最終的に「不可解な岩」にぶつかって未来の不安に対峙し切れなくなる。 それゆえに死を無視し、 それを忘却するという偉大にして愚かな能力が人類には備わってもいるのでした。 ディオニソス的快楽は個の解体への誘引でもあります。

同じようにダンスを考えれば、 パートナワークの合理的で節度のある冷静な会話と、 即興的なシャイン表現を爆発させる法悦との往復運動こそが最高だという感覚は、 実際にそのように踊るかどうかは別にして、 多くのダンサが理解できるひとつのモデルではないでしょうか。

コングレススタイルがプロメテウス的悲劇と比較できるのは、 ターンパタンを求めてレッスンに通えば通うほどパタンの不足に苦しむようになる、 という矛盾に端的に現れています。

東方からやってきた神

さて、ギリシャの思想は秩序や調和を最高価値とする ヨーロッパ的世界観の礎石のひとつといわれますが、 こうしてみると、このディオニソスはかなり反ギリシャ的性格を持っていますね。 実際、もっと東方からやってきた異教の神だとされています。 集団的な狂乱と陶酔を伴う神秘主義的な教団の祭る神であり、 ギリシャにおいては女性たちの圧倒的な信仰を集めたことで知られています。 社会にとって脅威でもあるこの集団はしばしば抑圧もされましたが、 民衆的な支持を背景にだんだんとギリシャ社会に浸透していったようです。

Triumph of Bacchus
from wikimedia.org

酒と狂乱の神でもあり、陶酔的で激情的藝術の守護者でもあるディオニソス。 その生まれはゼウスが人の姿に化けてテバイ王の娘セメレに宿した半神半人の子でした。 ゼウスの正妻ヘラの嫉妬心がディオニソスに狂気を与えることになります。 ヘラはセメレの乳母に変身して次のように耳打ちしました。 「貴方の相手は本当にゼウスなのですか、真の姿を見せて欲しいと頼みなさい。」 セメレはこの助言を受け、ゼウスに「願いを必ず聞いて欲しい」と持ちかけ、 ゼウスの約束をとりつけると、ゼウスに本当の姿を見せて欲しいと迫りました。 ゼウスは神なのでその姿を表せば生身の人間は焼け死んでしまうのですが、 既に約束をしてしまったので反故にはできません。 結果、ゼウスはその姿をセメレに現し、彼女はその閃光で消え去ってしまったといいます。

この悲劇がディオニソスの自己形成に影響します。 ゼウスの血を引いていたディオニソスは胎児ながら焼死を免れ、 ヘルメスに拾われて、ゼウスの腿に埋め込まれて臨月まで匿まわれたといいます。 その後、母セメレの姉イノに娘として育てられました。 ここでも最初から性的な混線があるのがディオニソスたる所以。 またこのことが再びヘラの怒りを買い、 ディオニソスの育て親の家族も次々に狂気をもらって悲劇の連鎖に巻き込まれていくのでした。 こうしてディオニソスは狂気的な神としての性格を内蔵することになります。

彼はサテュロスという半人半獣の精霊たちやマイナスと呼ばれた舞い踊る狂女たちを引き連れ、 遠くインドの方まで布教して回ったといいます。 これはもともと東方からやってきた神であることに整合性を持たせているのですね。

ちなみに、このサテュロスたちを含め、 ディオニソスに関係の深い登場人物たちはダンスや音楽に関係があります。 サテュロスは笛やシンバルを演奏する上半身がヒトで下半身が山羊の姿の精霊ですが、 それは牧羊神パーンとも関連しています。 パーン自身も原インド・ヨーロッパ由来の神であるとされ、 田舎や牧草地、牧羊や音楽の神です。 パーンにはニンフたちとの様々なエピソードがありますが、 パンパイプの起源神話もそのひとつ。 オリュンポスの神々よりも古いともいわれ、 野性論理の神にして動物相の主というおどろおどろしい存在でもあります。 「パニック」とはこの牧羊神の叫びが世界を混乱させることで、 静かな森に入ったときにふと感じる理由のない不安のことともいわれます。

このように狂気と音楽やダンスは古くから近縁領域だったのですね。

ともあれ、こうしたカオティックな神々がギリシャ神話の内側に平然と入っていることは、 ヨーロッパ文化を理解する上でも肝腎で、 パートナダンスはヨーロッパの文化であるというときにも、 実はその奥にはこうした東方的文化の影響が最初から 埋め込まれていることにも注意が必要です。

パートナダンスは全体として調和を大切にするダンスであることは論を待ちませんが、 その核心部分にディオニソス的な動機を隠し持っているのかもしれないと知るとき、 全く違ったダンス観が立ち現れてくるかもしれません。 というのもパートナダンスを成立させる快楽論には、 もっと非ヨーロッパ的な動機も潜んでいる可能性があるかもしれないからです。 この点はまた後で戻ってくることにしましょう。

ともかくここではアポロン的な動機とディオニソス的な動機は相互に対立しつつ、 パートナダンスにおいては調和的なパートナワークと 即興的で原的なシャインに対応することだけを確認しておきます。

明日に続きます!

posted at: 2024-12-20 (Fri) 12:00 +0900