Merengue Panic



Advent Calendar 2024 21日目の記事

パンドラとメレンゲを踊る (3)

サルサやメレンゲの充実感はくじ引きのようなもの。 どんな悦びが1曲のダンスから引き出されるのかを決めるのは自らの姿勢と偶然です。 毎回異なるダンスの満足度を予測する方程式は書きようがあるでしょうか。 誰といつ踊るべきか。何を何のために踊るべきか。そしてどう踊るべきか。 最高の1曲と遭遇する時の到来を占う拈華微笑の快楽論、 7回シリーズの3話目です!

禁欲主義の快楽

ところで、ダンスの快楽というテーマを考えるとき、 快楽主義と禁欲主義の系譜にも貴重な知見を訪ねることができます。

ギリシャの哲学者の中で快楽主義を説いたのはエピキュロス。 いまでも快楽主義者をエピキュリアンと呼ぶのはこの人の名前に由来しています。 一方で、禁欲主義の系譜もあります。 よく知られているのがストア派、ゼノンという人がその祖でした。 「ストイック」という言い方はこのストア派が語源です。 この両者は同時代人で、アリストテレスらより少し後に活躍した哲学者たちです。

しばしば勘違いされることですが、 エピキュロスのいう快楽主義というのは 性欲や食欲の過剰や耽溺をよしとする退廃的な趣味ではありません。

エピキュリアンは心の平穏と身体の健康を「快楽」と表現したのでした。 快楽原則を肯定することには間違いないのですが、 痛苦の源泉としての欲望はできるだけ統制するのが望ましいとさえ教えています。 とりわけ不自然な欲望は人を幸せにしないし、むしろ苦しみの源泉となる。 つまり苦痛や不幸の排除、すなわち消極的な幸福を指向していたともいえるのですね。

エピキュロスは身体的に痛みや不快のない状態をアポニア、 精神的な苦しみや恐怖からの解放をアタラクシアと呼び、 これらに至ることを究極善であるとしました。

身体的なアポニアというのはごく素朴には衣食住の満足ともいえます。 痛みや寒さ、飢えや渇きを取り除くための様々な技術はまさに プロメテウス的文明の恩恵でもある。 火と技術によってアポニアが達成されるという意味で快楽は文明的な要求でもあります。

一方のアタラクシアは不安や恐怖からの解放ということなのですが、 人間の不安や恐怖の源泉とは未来を想像できるようになったことにあったのでしたね。 つまりプロメテウス的智慧こそが人間の心の平安を乱すのです。 プロメテウスはアポニアには資するがアタラクシアを阻害してしまう。

アタラクシアに関するエピキュロス一派の教えを要約すれば、 それは「神を恐れるな、死を心配するな」ということです。 欲望についていえば、 衣食住の満足といった自然な欲望のみに従うべし、 富や名声への欲は最終的には不快感しか生まないのでナンセンスだと説きます。

Epicurus
from wikimedia.org

ちなみに、古代の人にとって神の仕打ちは最も恐しい恐怖の源泉でした。 洪水や旱魃、嵐や噴火、疫病や地震などの自然現象は 人間にはどうすることもできない災厄。 これらは神の怒りとして受け止められていたので、 古い社会では加持祈祷や供犠などが大きな社会的コストでもありました。 もちろん、ヒトの個体を含む、あらゆる生命に死が与えられていることは恐怖の源泉。 こうした不安の種について、エピキュロスは考えるだけ無駄だといって切って棄てたのです。

このように、エピキュリアンは神の全能を否定してしまうので、 西洋史においては徹底的に抑圧されてきました。 いわゆる「エピキュロスのトリレンマ」と呼ばれる定式化が、 悪の不滅を証明してしまうということは正統のキリスト教にとっては大問題だったのです。

分かったような分からないような説明ですが、 死んだときにはもう死んだと感じることはできないのだから 自分にとっての死というものは存在しない、ともいっています。 何やら現代風のプラグマティストにも思えてきますね。

一方、ストア派にとって人生の究極善は徳を実践すること。 智慧、勇気、節度、正義という4つの徳目を守り、 自然に従って生きること。 彼らにとって健康とか富などの快楽は善でも悪でもなく、 徳が作用する対象に過ぎないといいます。

徳を実践する者は痛みを感じていても幸せであり、 病んでいても幸せであり、 虐待されていても幸せであり、 追放されても幸せであり、 死にかけても幸せなのだそう。 怒りや嫉妬の感情から自由であり、 理性と自制心で破壊的衝動を克服する。 痛快なほどにストイックな思想ですね。

感情を抑圧し辛抱強く耐えることを美徳とする、 というのが現代の「ストイック」という語の一般的な意味ですが、 こうしてみると、本来の意味とそれほど違ってはいません。 エピキュリアンにしてみれば苦痛に耐えるなどというのはアポニアの否定ですし、 そもそも彼らにとっての徳とは苦痛の回避なので、 このストア派の考えとは反目する部分が多々あったのでした。

実際に、エピキュロスの弟子たちとゼノンの弟子たちは 広場や辻でしばしば哲学的な口論をしていたといいます。

ところが、いよいよエピキュロスとゼノン、 ボス同士が直接対峙するという場面になって、 周囲の子分たちは固唾を飲んで見守ったのですが、 ふたりは少し言葉を交わすとすぐに意気投合、 肩を組んで友人になってしまったというエピソードがあります。

まったく正反対の思想のように思われる快楽主義と禁欲主義ですが 深い次元で共通していたのは「自然に従って生きること」でした。 エピキュリアンはアポリアやアタラクシアを要求し、自然な欲望を肯定します。 一方の禁欲主義にとっても、 徳目の実践とは自然な人間の姿への回帰を目指しているのでした。 例えば節制という徳は両者に共通しますが、 過剰で不自然な欲望を抑えることはエピキュリアンにとっても快楽なのでしたね。

つまり両者は同じ目標を持っているのですが、その方法が真逆ということです。 エピキュリアンは消極的に、柔和に、逃避的に自然に向かう。 ストア派は積極的に、アグレッシヴに、前進的に自然に達しようと試みます。 結局、至らんとする境地にはほとんど差がなかったということなんですね。 一知半解の弟子たちは互いの違いにばかり気をとられて対立していたのですが、 親分同士になると表面上の差異よりも本質的なところで通じるものがあった、 というのはなかなか楽しいエピソードです。

つまり、禁欲主義も実は快楽を指向するということ。 あるいは快楽主義にも禁欲的な気分があるということ。 こうした思想はギリシャのものというよりもなんだかアジア的なものを感じませんか。 実際に快楽主義や禁欲主義の思想には 東洋の思想が影響していると考える研究者も多いようです。

東洋的な快楽主義

釈迦がいつの時代の人かということには様々な見解があるようですが、 原始仏教の思想が成立したのはおおよそ紀元前5世紀頃とされます。 エピキュロスやゼノンが活躍した時代はそれから100年から200年後くらいなんですね。

古い仏教の教えは要約すれば生老病死が苦しみの源泉であるということ。 ここから救われるには煩悩を消し去り涅槃の境地すなわちニルヴァーナに至れ、 ということなのでした。

大乗仏教のような何かを拝んで救われるという思想は後発のもので、 最初から強調されていたのは自力救済、つまり自分の努力によって自らの煩悩を超克し、 涅槃に至るということです。 あくまでも個的な思想、孤独な実践ということだったのですね。 それではあまりにも救われる人が少ないので 一切衆生を救済する論理として出てくるのが大乗仏教だったということです。

Budda
from wikimedia.org

生きることは苦しみである、というのはなんだか身も蓋もない感じなのですが、 仏教が面白いのはだからといって 短絡的な反出生主義とか安楽死みたいなものに墜ちないところ。 生きることは苦しみだが死ぬこともまた苦しみであるという矛盾したテーゼが 先回りしています。 「色即是空」といった後にすぐ「空即是色」と続けてくれる。 徹底的に世の無常を説いた上で、 無常を突き詰めた先に意味が生じるという逆転の論理があります。 よくこんなロジックを思い付いたものだと感心せざるをえません。

現代の「科学的な」ニヒリズムでいえば、 ヒトは必ず死ぬのだし死んだら終わりなのだから人生には何の意味もない。 仮に子孫や社会に拡大した自己を投影したとしても人類自体も必ずいつか滅ぶ。 地球も永遠ではないし太陽にも寿命がある。 宇宙紀的スケールで見れば人類の興亡など一瞬の煌めきにも満たないのだから、 個人に至ってはどんなに素晴らしい人生もミジメな人生も何ら差はない。 そういうことになってしまいます。 これはおそらく正しいし、仏教的無常観とも通じる。 こうした考えは宗教なき後の宗教としての科学主義の教義ともいえるかもしれませんが、 これでは生きる活力も悦びもあったものではありません。 無気力・無関心・無責任の冷笑主義にまっしぐらです。

この認識の上で、さて、どう生きるかが問われるのだし、 ここから先のヴァリエーションが人によって無限にあるのが現代の多様性の問題でもあります。

生きることには意味がない、 といってそこで終わってしまっては 「生きることはメレンゲを踊ること」と謳う本サイトのスタンスからしても、 ダンスを踊ること自体が虚しくなって困ってしまいます。 さて、君たちはどう踊るか。

パートナダンスの東洋的要素

それはさておき、 仏教は自力救済のために自分の身体感覚を抑制する修行を説きます。 瞑想の邪魔をする五蓋を排し、煩悩を滅却し、涅槃に至る。 これは何やら先の快楽主義と同じことをいっているようにも思えますね。 仏教的な修行というと禁欲主義の王者みたいなイメジもありますが、 ストア派の思想とも共鳴します。

こうした東方的快楽主義の思想群に共通するのは快楽や平穏は個的にしか追求できないこと。 ここでも身体性に根差した快楽主義の排他性が確認できます。 ところが、パートナダンスのソーシャルは、 それがソーシャルであるがゆえに博愛主義が要請されるというディレンマがあるのでした。 この快楽主義と博愛主義の接続 にこそソーシャルダンスの鍵があるのでしたね。

こうした禁欲の思想は身体的・行動的な修練を重視するので密教的な傾向にも繋がります。 言葉にしてもよく分からないし、 そもそもロゴスこそが煩悩の源泉なのだからとにかく無心に身体で感じてみろ、 というのですね。 この言語無力説は西洋的思想が「初めに言葉ありき」とくるのと対照的で、 東洋的には「不立文字」を旨とし、 「拈華微笑」で通じ合うのが理想ということになります。

ここでのポイントは、 こうした東洋的要素は、 先に見た通り、ギリシャ哲学にも西洋思想全体にも薄くない濃度で混ざっており、 ヨーロッパ文化の髄ともいわれるパートナダンスにも 確かに流れ込んでいることを確認したいということです。 一神教にでさえ神秘主義的な方向性はその周辺領域として混ざっており、 イスラームのスーフィズムやキリスト教の異端カタリ派などの実践にも共通するものでした。 そして、原パートナダンスの歴史的萌芽にはこれらの思想は 深く影響していると考えられるのでしたね。

この観点でパートナダンスを見返すとき、 そもそも踊ることと言語にすることが親和性が低いことを思い出します。 第一メディアが踊ることであるような人はだいたい言葉による表現が弱い。 懸命にダンスのリアリティを言語化しようとする試みは ほとんどのダンサの関心を引きません。 踊ることが狂うことを本懐とするならば、 そもそも踊ることはアニミスティックな前文化的、文盲的な運動ともいえます。

くるくる回ることの純粋形式であるスーフィズムのタンヌーラのようなダンスを思うとき、 どのような理論武装も言語化も無効にしてしまう狂気的な衝動が ダンスの根っこにあると感じます。

そうすると念仏や座禅も一種の音楽・ダンスに見えてきます。 外側はあまり動かない抑制的なダンスですが、 能や舞踏のようなほとんど動かないダンスを知る者なら別に驚くことはありません。 声明はアジア各地において古い音楽の起源ですし、 音楽とダンスが双生児であるというとき、この声明と共にあるダンスを考えることもできます。 印契や呼吸法といった秘術に、 パートナダンスの技法との隔世遺伝的な繋がりを感じる人もあるかもしれません。

身体運動では俗に「動に静あり、静に動あり」ともいいますが、 あえて身体の外側の動きを抑えることで涅槃的な快楽に至るテクニックもあるのでした。 これをニルヴァーナを指向する踊り方というならば、 抑制はパートナダンスにとっても重要なアイテムとなってきます。 まさに禅的サルサとでも呼ぶべき 「サルサ・イ・コントロル」 の「コントロル」に軸足を置いたダンスがあります。 「コントロル」とは音楽ジャンルとしては荒々しくいってボレーロのことを指すのでしたね。

3つの快楽

ここですぐさま付け加えておくべきは、 必ずしもこれはボレーロやその21世紀的な継承者であるバチャータの特権 という必要はないということ。 プロメテウス的ダンスをシャインのシラバスとして展開した on2 的方法があったように、 例えばコングレスサルサやヴァナキュラなメレンゲのようなスタイルでも、 この「コントロル」を指向したダンスは可能だろうということです。 一応、理念的には東方的快楽主義がボレーロのようなダンスに現れやすいとはいえそうですが、 もっと深いところでは様々なスタイルに通じてもいるのでした。

その一例を挙げれば、コングレススタイルのサルサにおける最重要人物であり、 on2 界の巨人でもある Frankie Martinez のスタイルを考えることができます。 Frankie はもともと超絶技巧のシャインとフラッシィなパートナワークで 初期コングレスサルサの大スターだった訳ですが、 禅や東洋思想をよくし、 そのスタイルを思想的な水準に練り上げてきた例外的な求道者的サルセーロでもあります。

高度のテクニシャンであるにも関わらず、 そのソーシャルのスタイルは非常に抑制的で、 釈迦的な禁欲主義を見てとることができます。 にも関わらず、 同時にアポロン的な知的さやディオニソス的な解放感をもまったく失ってはいないという、 統合されたダンスになっている点が特別な印象を与えるのでした。 単にダンスのカテゴリやスタイルに対応するのではなく、 いかなる踊り方にも浸透しうる、 快楽の3方向が統合されたあり方を考えることができるのかもしれません。

さて、改めてここまでの議論を整理すると、 西洋的でアポロン的な価値を体現するプロメテウス的ダンスがあり、 その内的なカウンタとしてのカオティックな価値を指向するディオニソス的ダンスがあり、 あるいはもっと東洋的な原理としてニルヴァーナへ渡ろうとする釈迦的ダンスがある。 これらのダンスは、それぞれコングレス的パートナワーク、 パラディウム的シャイン、 チークダンス的ボレーロというそれぞれのスタイルに象徴的に代表されるが、 同時にそれぞれのエッセンスはどのスタイルのダンスにも相互浸透しうる通路がある、 こういう図式を描いてきたのでした。

パートナダンスの快楽を3つの方向から観察すると、 その混ぜ合わせ加減の塩梅として「自分の踊り」 を持つことの可能性がうっすらと見えてこないでしょうか。

明日に続きます!

posted at: 2024-12-21 (Sat) 15:00 +0900