パートナダンスの快楽モデル
普段からソーシャルを踊っている人に「サルサやメレンゲは何が楽しいのですか」とか 「パートナダンスの魅力は何ですか」 という質問をするとその回答の圧倒的第1位は「楽しいから」というものです。
もちろん、正直な答えだとは思うのですがほとんどこれでは議論になりません。 今一歩踏み込んで「何がどう楽しいのですか」と更問いしてもほとんどの場合、 「楽しいから楽しい」という同語反復が返ってくるのみです。

先にも触れたようにダンスの楽しさというのはそれを言語化することがほんとうに難しい。 難しい上に踊って楽しんでいる人にとってはその必要性もほとんどありません。 別に言葉にしなくたって楽しいものは楽しいのですからそれでいい。 あるいは、ダンスが言語以前のものであり、 言語にはダンスのリアリティを受け止める表現が存在しえない という真理を深く諒解した上で、 語りえぬことには沈黙を守るという熟慮深いダンサが多いのかもしれません。
それでもここではままよと思い切り、これまで見てきた3つの快楽という切り口を使って、 なんとかパートナダンスを解剖台に載せてみましょう。
すなわち、ここまで議論してきた3種の快楽の次元を前提とし、 サルサやメレンゲなどのラテンパートナダンスの快楽はこれらの混合物である、 という仮定を、 C.W. モリスの三次元モデルを参考にしつつ、 メレンゲパニック流にアレンジして提示してみたいと思います。
噛み合う快楽
では最初はアポロン的価値を指向するプロメテウス的次元です。 これまでも議論してきたようにここでの踊り方は調和と秩序を重視し、 象徴的にはコングレスサルサに体現されたパートナワークのスタイルです。
リードとフォローは非対称なルールに則って役割を果たすことで、 ふたりのダンスはしっかり噛み合います。 しかもそれはユニヴァーサルに通用するというメリットがある。 地球の裏側からやってきたダンサと初めて会って挨拶するよりも先に踊れます。 ある程度の訓練を前提としているのでコネクションが機能し、 複雑なターンパタンも流れるように展開できる。 分業と均衡の価値が共有され、市民社会的な制度が暗黙の内に諒解され、 やっていいことと悪いことの分別が要求されます。 未来指向のダンスでもあり、 フォロワブルなリードが予期され、リーダブルなフォローが応じ、 未来に開かれた現在という契約的関係性指向の「舞い」でもあります。
一方ここでは音楽の比重は小さく、 その評価においてはテンポや長さが最大の関心事になります。 パートナワークで踊りにくい曲が避けられる次元です。
知的なスポーツとしての側面が強調され、 コネクションの質が徹底的に問われるのもここ。 上手いとか下手という価値が常に評価される次元です。 その必然としてレッスンやワークショップの需要が生じ、 ダンスを産業化させようとする圧力を高めます。
コングレスとの親和性が非常に高く、 文化的・音楽的な楽しみよりも徹底的にダンスを稽古事として囲い込む動きも出てきます。 その結果、この次元で踊るリードはターンパタンを延々と学習しつづけなければならず、 同じことばかりしていると フォローに飽きられるよりも先に自分で自分のダンスに飽きてしまいます。 当然、初歩的なパタンのみではダンスは成立せず、 基本的には高度化し続ける技術を前提として、 「コーカサス山の不可解な岩」にぶつかるまでのチキンレースという側面も持ちます。
また、フォローからすれば、 リードのようにターンパタンの学習というエンドレスに見える吸引力がないため、 シャインステップの習得やスタイリングクラスに出ること、 パフォーマンスチームへの参加という動機により引き付けられるのかもしれません。 むしろ、リード個人の中の多様性よりも、 様々なリードと踊るという動機に開かれることがサンドゥンゲーラスの期待であり、 中級以上のフォローにとっては上手いリードがたくさんいる場所が天国となります。
エフォートレスでスムースなリード・アンド・フォローの技術もまた、 この次元での価値であり、 敬意と感謝(グラシア)が尊ばれ、 ダンスの味付けとしてはスウェッティでスポーティな塩味、 合理的で機能的な噛み合いが作る旨味が好まれるといえるでしょう。
掛け合う快楽
次はエロース的価値を指向するディオニソス的次元です。 エロースとは身体的欲求の解放の謂で、 ここでは個を超越した原ダンス的欲求の解放と内爆する表現欲求の衝突が期待される、 象徴的にはファミリーキッチンスタイルの、 ヴァナキュラで自由なシャインの応酬に体現されるスタイルです。
秩序や節度は軽視され、カオティックな解放感と身体的衝動が肯定されます。 ここに見られるのは、ソロやアニメーションを踊ろうとする古い動機に裏打ちされつつ、 個的な表現をお互いに提示し、魅力を引き出し合い、 クリエイティヴなステップを掛け合う遊戯的な「踊り」です。
ここでは即興性が重視され、 リードとフォローの関係も必ずしも固定的な役割ではありません。 リズムに駆動されたお互いの昂奮を差し出すことでその交響を楽しむモードが支配します。 欲求解放による爽快があり、 フロアのヴァイブスや音楽と一体化しながらステップを踏むことで循環するエナジィに、 エロース的な官能や陶酔感があるでしょう。 リードとフォローの間には交感的な関係が結ばれます。 過去でも未来でもないまさに現在にフォーカスする次元です。
音楽が駆動力としての意味を持つのもこの次元で、 外的誘引力としてのサウンドスケープに一体化してしまうことが大切です。 力を抜き、音楽の小径に運動の抜け道を探すような態度が観察されます。 テンポや長さという基準ではなく、 リズムのよさ、クラーベ感の有無、パルスの黒さが問われます。
ダンサは特別な訓練を前提とせず、 むしろ照れや遠慮を取り払って踊り狂えるという先天的気質が問われます。 「誰も見てないかのように踊れ」というアドヴァイスは、 まさにこの次元において最重要な箴言となります。 ステップの完成度や審美性はさほど問題になりません。 熱狂と昂奮の緊張感が問われ、 テンションの持続が求められます。
また、 ローカルなダンスシーンにおける非正規ダンサの酔っ払い的なノリも 感じ悪くない範囲で許容され、 タバコとロンというサルサの重要な伝統的付属品への愛着が充満します。 「ルンバ・ブエナ・イ・ワワンコ」という気分がダンス以前に祝祭的ムードを盛り上げます。 個がダンスフロア全体に群体として膨張するときには、 自然発生的なアニメーションやマイアミダンスとして展開せざるをえません。 古代、焚き火の周りで踊っていた頃の原始的ダンスにも通じる呪術力を受け継いでいます。
パワフルさやセクシィさも個性として肯定的に表現され、 お互いを刻み合う衝動(グラフィティ)に動機づけられたダンスの味付けはスパイシィな辛味、 衝突や食い違いをもあっけらかんと突き抜ける爽やかな酸味が好まれます。
融け合う快楽
そして、ニルヴァーナ的価値を指向する釈迦的次元。 ニルヴァーナとは涅槃のことでアポニアやアタラクシアに通じる心身の平安状態を意味します。 もはや外向きの表現とか昂奮する内爆とかではなく、 座禅のように心を研ぎ澄ますスタイルで、 象徴的にはエフェメラルな男女の親密さをテコとして2者の一致・融解を希求する、 共振と共鳴に震える古いボレーロに見るような踊り方です。 静謐で充実した恍惚の中で、瞑想的心地良さに「揺れる」ダンスです。
ここでは身体運動はギリギリまで抑制され、 その昇華としての内的消滅、明鏡止水の境地の持続を目指します。 うっかりするとそのまま彼岸に渡ってしまうのではなかろうかという危機感は、 静かに沈めておかねばなりません。 ふたりのエナジィレヴェルは最も低い位置で安定しカイロス的な無時間に溶け込みます。
音楽的エナジィを上げ過ぎては駄目で、 マンボや強いクラーベ感はこの種類の踊り方のときには遠慮されます。 むしろ、そうした熱狂と距離を置くことでサルサ的昂進性を中和でき、 テンションをクールダウンさせる「コントロル」としての機能を果たします。
ここでは技術らしい技術というのは出番がないのですが、 一致し共振するためには確かな一体感を作り出さねばならず、 相手をミラリングする共感力に加え、 身体の揺れを駆動するエナジィフローが重視されるのでした。
正規のトレーニングというよりもレッスンでは決して学習することができないが、 フロアでの学習を経なければ体得できない実践知が要求される次元でもあります。 エクセレントなレッスンの果実でも、 ファミリーキッチン的で先天的ノリや才能とも異なる、 個的修行の帰着点としてのフローの境地です。
複雑な味わいが混ざりつつも全体は重力(グラヴェダード)感のある佇まいで、 コーヒーのような優しい苦味とサトウキビのように悲しい甘味のハイブリッド、 ビタースイートな味わいです。
巴構造の相互連関
モデルとしてこのように3者を区分していますが、 それぞれの次元相互に重なり影響し合ってもいます。
アポロン的に噛み合う舞いはニルヴァーナ的に溶け合う揺れと知的な秩序という点で共通し、 溶け合いの非制度的内的探究の精神はカオティックに掛け合うステップと響き合います。 またディオニソスがパートナと自律的に関係しようとする構えはアポロン的ともいえます。 どの1曲のパートナダンスにもそれぞれの成分がいくらかずつの割合で配合され、 そのダンスの個性、サボール、スタイルを作っているといえるでしょう。
そして、どの次元のダンスのクオリティも別のふたつの次元によって ダブルアップされるという点も確認しておきましょう。
折り目正しいパートナワークはカオティックな即興性を差し挟まれることによって 音楽との噛み合いを回復しますし、 内的静謐を保って展開することで常にターンパタンの新奇さを争う不毛から降りられます。 独りよがりの暴走になりやすい解放的ステップは、 身体運動の過剰を抑える構えによって制御された解放という掛け合いに引き上げられますし、 個的で攻撃的な表現は定型ステップの参照と互酬的な配慮を併せ持つことで、 相手に恐怖や不安といった感情を与えることなく通じ合うようになります。 ふたりの合一を指向する単純なフレームワークは、 熟練のリード・アンド・フォローによって 絶妙なコネクションで溶け合いの速度をスローダウンできるようになりますし、 即興的な音楽への反応力はダウナのグルーヴにも 微かなブレイク・アンド・ヒットのスパイスを付け加えます。
NY on2 のスタイルでパートナワークをしながら 溶け合うダンスを踊ることもできますし、 パチャンガで掛け合いながら噛み合うこともある。 メレンゲのベーシック中に掛け合いのフレーヴァを入れた足技で遊ぶこともできます。 このように、理念的な標準型を超えて様々なエッセンスを 自由な配合に混ぜる技術があります。
このような観点でこの三角形の連関を見るとき、 自分のスタイルをどれかひとつの方向に決めたとしても、 他の次元のあり方を無視してよいということにはなりません。 単一の次元にはそれぞれ危機を孕んでもいるのでしたね。
プロメテウス的な次元には未来の不安と虚無が待ち受ける「不可解な岩」があり、 ディオニソス的な次元には相手を置き去りにした独善に陥る罠が、 釈迦的な次元ではエナジィレヴェルが衰退し切って眠りや停止に至る危機がある。 どれもパートナダンスを破綻させる危険です。
とりわけプロメテウス的ダンスには他の領域を抑圧し占領しようという傾向がある点を注意し、 周囲を食い荒らすと結果的に自身も延命できないことを忘れてはいけません。 3者それぞれが混ざり合うことでそれぞれの魅力を増し、 耐久力を高め、欠点を補い合うことができます。
3者の相補的な関係の中ではじめて統合された 「自分の踊り」というものが可能になるのであり、 それは一次元的な意味での上手い下手ということではありません。
実際、パートナダンスとは会話と表現と恍惚である、というとき、 レッスンで教えることが可能なのは会話の方法、噛み合い方だけ。 表現の方法や恍惚に至る回路はきっと教えようがないので、 それぞれの個人が個的な方法によって積み上げていくしかありません。

実際、パートナワークについては一定数の教えられるインストラクタがいますし、 教則ヴィデオも技術指南もあります。 レッスンに行けば必ず上手くなる訳ではありませんが、 レッスンなしではなかなか上達は望めません。
一方で、表現としてのパートナワークを教えてもらうことは出来ません。 それなりに目が肥えていれば、ソーシャルを観察して、 表現の観点で駄目なところを指摘するだけならそんなに難しくないでしょう。
例えばフロアの端っこのテーブルでラムか何かを啜りつつ、 ソーシャルを踊る人々をぼうっと眺めているときには、 いろいろとケチをつけることができます。
あのダンスは貫禄がなく、全体的に雑。 隣りのダンスはこまごましたことにこだわり過ぎてまとまりがない。 そのまた隣りは思想的な深みがなく上滑りしている。 奥のふたりは大袈裟なわりに勢いがなく、 その向こうのは盛り沢山でてらっている感じ。 反対の角のは散漫でぐだぐだ、 その手前は趣味が悪い。 あっちのダンスは魅力がなく、 こっちのダンスは下品、などなど。
優れたインストラクタならこれらをいちいちクリニック的に改善方法と合わせて 提示することもできるはずですが、 この手の問題は他人に指摘されてもあまり役立たないようです。 結局自分がどう踊りたいかという点を自覚し研鑽を積むのが一番の近道。 教科書も方法論もろくにないのですが、他人の踊りを見て学ぶというのがひとつと、 他の表現領域から参考になるアイデアを拾ってくるというのがもうひとつでしょうか。
さらにパートナワーク的恍惚に至ってはどんな努力で到達できるのか、 いまいちよく分かりません。 ただ坐ればいいのかあるいは念仏を唱えれば上手くなるのか、 ソーシャル三昧による直観が飛躍に繋がりそうですが、 やっぱりそういうことではなさそうな気もします。
決まった型の徹底的な反復というストイックな禅的修行のイメジもありますが、 明確なディシプリンを持つのはむしろコングレススタイルで、 ファミリーキッチンスタイルの延長にあるバチャータはむしろ親鸞的なのかもしれません。 サルセーロなおもって往生を遂ぐ、いわんやバチャテーロをや、といったところでしょうか。
いずれにしても、噛み合い・掛け合い・溶け合いのどれをとっても基礎となるのはベーシック。 これがなければパートナワークもシャインもフレームワークもはじまりません。 舞うにも踊るにも揺れるにもはじめの一歩はベーシックから。 これは練習さえすればとりあえず習得できるものですから3者を統合する基礎として 身に付けておかねばならないといえます。 ここでもベーシックの重要性を強調しすぎることはありません。
また、3つの快楽のモードがそれぞれ自立共生的であるためには 音楽の選曲とジャンルの混ざり具合が問題になってきます。 それぞれのモードで要請されるグルーヴには違いがあるため、 ラテンミックスのようなフロアでなければ実現できないからです。
それではいよいよこの3つを統合した快楽を実践できる場としての、 理想のダンスフロアを想像してみましょう。
明日に続きます!