グランデ曼荼羅
噛み合う快楽、掛け合う快楽、融け合う快楽は それぞれどれも欠かせないラテンパートナダンスの重要な素材であることを見てきました。 いまこれをひとつの図にまとめて以下のように表すことができるでしょう。

リードとフォローが一緒に回る動きはいろんな種類のダンスに存在しますが、 相補的な運動であり、身体的な共振を伴う、 遠心力とコリオリの力が融け合った3者のアマルガムといえます。 公園で互いの腕を掴んでぐるぐる回る子供たちのもっともプリミティヴなパートナワーク。 そのサルサ的に洗練されたコンセプトがグランデであり、 3者の原点ゼロを作ります。
また、その内側にはグランデの五原論 に従ったエナジィフローの方向が斜めに配置され、 右上と左下が作る斜めの軸は リード性 vs フォロー性の軸であり記号操作的な方向と 身体感応的な方向の対立を作っています。 また、左上と右下の作る軸はアッパ系とダウナ系、 あるいは昂奮と陶酔という意識変性の方向を示しています。
このようにして快楽の三次元モデルをグランデ五原論と重ね合わせることで、 多様な快楽の見取り図とすることができたといえるでしょうか。
共生への動機
さて、このように様々ある快楽の指向性をどのようにダンスフロアは受け止めたらよいのか。 どのようなフロア、 どのようなパーティがほんとうに最高の1曲を踊れる場所なのでしょうか。 ある人は熱量高いフロアを望み、別の人は落ち着いて踊りたいと思い、 ある人はパートナワークを試したいが、別の人はシャインで乗りたい。 土着の空気をまとった人と都会的な人、 上手い人とそうでもない人、 小難しい人と能天気な人。 マンボな人、キューバンの人、 チャチャで決めたい人、クンビアで盛り上がりたい人、いろいろいます。
とはいえ、単に人々の嗜好に合わせ、みなが満足するようなパーティを企画すればよい、 というのではなんだかセコい話です。 おそらく棲み分ける方向にしか解決策を見出せません。
そもそも現今のダンスフロアが公正で効率的である仮定するのは無理がありますし、 いま観察できる各方面からの欲求自体も、 現状のサルサ環境を前提として生じたものでしかありません。 模倣的に生じた欲望の満足ばかりが追求されている現状もあります。
参加者の技量や見識の水準自体が問題になるともいえるし、 理想の環境の議論が広くコミュニティで共有されているのでもありません。 現代にサヴォイやパラディウムを想像してみてもそれが上手く合うかといわれれば、 やはりそう簡単でもないだろうと考えます。 環境も技術も音楽もずいぶんと変化していますからね。
ダンスフロアを構成するアイテムを並べてみても、 どれも経済的・物理的・人的・時間的な制約があり、 自由に想像するのもなかなか難しいかもしれません。 そもそもどんなに想像力を巡らせてみても、 理想郷のフロア でさえ不完全でしかありえないのでしたね。 ダンスフロアとは流転する混淆の境域なのでした。
ただ、ここまで見てきたように、 上図にあるどのスタイルも他のスタイルと共生できるし、 どの指向性も他の指向性と共生可能であることを強調しておきましょう。 しかもそれは倫理的態度やポリコレ的発想からそうすることを薦めるというのではなく、 むしろ、複数の次元の重なり合いがなければ、それぞれの欠点を補うことができず、 ダンスフロアが自壊してしまう可能性さえあるのだということを確認したのでした。 右に行き過ぎればばニヒリズムが、 左に行き過ぎればエゴイズムが、 下に墜ち切ってしまえばメランコリが待ち構えています。 様々な要素を混ぜ合わせることで その魅力をダブルアップさせるというのがメレンゲ的態度、サルサ的期待、 グランデへの信心というべきでしょう。
あるスタイルが別のスタイルを抑圧したり、征服したり、 その自由な振る舞いを制限したりするのは望ましくありません。 それぞれが自律し互いに補い合いながら共生するようなダンスフロア、 ぐずぐずでも、不安なことが残っていても、 多少の衝突はあっても、 コンヴィヴィアルなダンスフロアこそ ほんとうにダンスを生きようとする者たちが希求すべきフロアだといえるのかもしれません。 ダンス・エリートやソーシャル・エリートだけでなく、 半端者、無宿人、畸形、不具、クィア、ならず者、骨なしたちにも開かれたフロアです。
コンヴィヴィアルということ
さて、コンヴィヴィアルとは自立共生的という意味で「共に生かし合う」というのが原義。 ある道具がコンヴィヴィアルであるというとき、 人はその道具がどのように作られているか知っているし、 自分でそれを作ったり、他のモノと組み合わせて使ったりできるという意味です。 自分の好みによって形を与える自由を許しているような道具のことともいえます。 人間の方が道具に隷従させられたり、 不都合を強いるような道具はコンヴィヴィアルではありません。 ですから、ソーシャルダンスが「生きるための道具」であるというとき、 そのダンスがコンヴィヴィアルであることは譲ることのできない条件です。
例えば和服は大量生産の既製服よりもずっとコンヴィヴィアルです。 既製服は縫製が複雑であるだけでなく工業用のミシンでがっちり縫合してあるため、 破れにくいですが、自由に微調整することはできません。 ちょっと腰回りにゆとりが欲しいと思っても窮屈さに耐えて慣れるしかにない。 一方、着物は着方や帯の締め方だけでも様々な調整が可能ですし、 洗い張りすれば全く自由にサイズ調整できますし、孫の代まで受け継げます。 また、手に入れた布がどんな布でも直線裁断できれば着物に出来るので、 アンデスの伝統的な布帛を使って帯に仕立てたり、 誰かのお古の着物を羽織に直したりするのも自由自在です。
また、既製服は経済的にコストが圧倒的に安いため、 ビジネス的に他の衣類のあり方を駆逐してしまいます。 結果的に人々は既製服に依存せざるをえなくなり、 道楽としてしか着物を着ることができなくなりました。 こうした根源的独占をもたらすのも反コンヴィヴィアルな道具の特徴です。
別の例を挙げれば、土鍋は炊飯器に比べてコンヴィヴィアルといえるでしょう。 確かに炊飯器は操作も簡単で常にプログラム通りに安定した炊き加減を実現してくれます。 ただし、どのような仕組みでどう動いているのか、 普通の消費者には知ることができません。 米研ぎは炊飯器の領分ではないので人間がやりますが、 炊飯器のマニュアルには米を研ぐ手順が記載されていて、 まるで人間の方が炊飯器の部品であるかのように、 決められた通りに米を研いで釜にセットすることが期待されています。 一方、土鍋では毎回味や炊き加減が変化するのが普通で、 研ぎ方や水加減、お焦げの塩梅も毎回自分で自由に選択できますし、 その創意工夫や失敗自体が楽しい道具です。 人間は土鍋を使ってご飯を炊き、炊飯器は人間を使ってご飯を炊かせます。
コンヴィヴィアルな道具は一般に分解可能、修理可能、持続可能です。 そして、過度なフラストレーションを感じさせない道具です。
着物を畳むのには伝統的な手順がありますが、 もちろん、畳み方にはさまざまな応用があり、 慣れてくると自分なりのやり方が確立していくもので、 そのプロセスを含めて着物を着るといっています。 最初はなかなか上手くいかないですが、慣れてくるとこれほど気持ちのよいことはありません。 着物を畳むこと自体が充実した至福の時間になってきます。 上手くいかないのは自分の技量が足らないからで、着物が悪い訳ではありません。
一方で、既製服を畳むのは単に無意味な時間であり、 無駄なコストで、やらないですむならそれに越したことはありません。 脱ぎ捨てた服を畳まされるのはフラストレーションであり、 いくら慣れても畳むのは面倒くさいことのままです。 既製服はそれを畳むのが楽しくなるようにはデザインされていません。
コンヴィヴィアルな道具に人間は愛着を持ちます。 役に立つだけでなく、 自分で育てることができ、 満足感と快楽を与えてくれるからです。
一方でコンヴィヴィアルな道具は全体的な目的を指示したりはしないので、 人間の側が意志を持っていくつかの道具を上手の組み合わせて使う必要があります。 なので、使う側の技術や知見が問われるというのもコンヴィヴィアルな道具の特徴です。 ブラックボックス化されたオールインワンではなく、 個別の要素を選択する自由のあるオープンなシステムともいえます。
技術を要するという観点で、 日本剃刀や安全カミソリは電動カミソリよりもコンヴィヴィアルだといえますし、 同じ安全カミソリの中でも1枚刃のカミソリは カートリッジ式の多枚刃カミソリよりもコンヴィヴィアルです。 両刃の安全カミソリは技術を要しますが、そして下手をすると顔が血だらけになりますが、 慣れると両刃カミソリの方が多枚刃よりも肌を傷つけることなく、 気持ちよく髭を剃ることができます。 両刃カミソリではどんなホルダでも世界中のメーカの替刃と組み合わせて使えますが、 カートリッジ式はプロプライエタリなのでひとつのメーカにロックインさせられてしまいます。 さらに、カートリッジ式は電動カミソリ同様、環境負荷も大きい。 そして何より、これらを使う人にとって髭剃りは面倒なコストでしかありません。 両刃カミソリを使う人の髭剃りはそれ自体が快楽です。
もちろん、面倒くささが快楽を上回ることは日常的に生じますが、 それでもこうした快楽が生活を新鮮で泡立つものにしてくれることには変わりません。
ここでコンヴィヴィアルな道具のちょっと意外なしかし重要な特徴として、 発する音や感触が心地良いという点を確認しておきましょう。 正絹の着物を畳むときの衣擦れの音、 土鍋が沸いてきたときの中蓋と上蓋の間から漏れる「ゴゴゴゴ」という音、 両刃カミソリで髭を剃るときの爽快な「ジョリッジョリッ」、 これらの音が気持ちよいのはフェティシズムゆえとも理解できますが、 耳で味わえる道具が快楽的であるとはいってもいいはずです。 不快な音がする道具は根本的に共生的ではありえません。 炊飯器は無意味に「ピー」と叫ぶし、 電動カミソリは掃除機よりも高周波を含む嫌な音なしには動きません。
ただ、既製服を畳んでも嫌な音は出ませんし、 カートリッジ式のカミソリは弱々しく「シャリシャリ」と鳴るだけというのは、 これらは反コンヴィヴィアリティの度合いが相対的に小さいということかもしれません。 それでもなお、触覚的な心地良さでは化繊の既製服は天然素材の着物に劣りますし、 金属製の両刃カミソリはプラスティックの多枚刃とは持ったときの重量感が違う。 一般に、視覚よりも聴覚や触覚に訴える道具はコンヴィヴィアルといえます。
ここで、反コンヴィヴィアルな道具が発生してしまう機序を確認しておきましょう。 どんな道具も最初は人間が作り、失敗し、改良していきます。 人間と共生できないようなものは普通は作りませんから、 最初の道具はコンヴィヴィアルです。 技術と智慧を注ぎ込むことで、 段々その道具は人の役に立つようになり、 他の人たちにも普及します。 ここでもまだ道具はコンヴィヴィアルなはずですね。 ところが、ある地点(第二の分水嶺)を超えると、 人間が道具を使っているようで道具に人間が使われはじめるという逆転現象が生じます。 完成された道具が人間の意志とは無関係に自律的に発達していき、 望ましくない性質を身に付け始めることがある。 ちょうどいいのは役に立つようにはなったがこの地点を超えてしまわない道具です。 こういう道具なら人々を歓びに資するが不幸には与さないということなんですね。 こういう道具は作れる道具であって、手放そうと思えばいつでも手放せる道具です。
ですから、ドローンやスマートフォン、インタネットや核兵器、貨幣や奴隷、 学校制度、医療システム、刑務所などは極端に反コンヴィヴィアルな道具といえます。
コンヴィヴィアルなダンスフロア
さて、ダンスに戻りましょう。 ここまでの議論からも最も問題含みといえるコングレス的スロットサルサでさえ、 コンヴィヴィアルなスタイルでありえますし、そうであらねばなりません。 ダンススタイルがコンヴィヴィアルであるということは、 誰にも開かれており、自由にアレンジでき、 自分なりの個的スタイルとして受け入れられるようなものということです。
決められている通りに動かなければならないということではなく、 そのスタイルが排他的にフロアを独占するのでもなく、 その存在自体がダンサにとってのフラストレーションになるようなものではないということ。 極論的には、 切羽詰まったらついにはそれを手放すことができるようなものでもなければいけません。
コングレススタイルはそれなりにスタイルとして固定しており、 その意味で技術指向のスタイルでしたね。 調和と秩序を価値とするプロメテウス的ダンスであり、 グローバリスティックで市民社会的で商業主義に傾く危険があり、 暴走すると反コンヴィヴィアルなものにさえなりうる。 だからこそ、 ディオニソスや釈迦の次元にも根を持っておき、 最終的に虚無と退屈に向かって突き進もうとするこの危ない欲望を 抑制しなければならないのでした。
現在のサルサはコングレススタイルの恩恵なしには成立しません。 よいコネクションで踊る魅力が多くのダンサを引き付けるのだし、 フロアに最低限の秩序をもたらしてもくれます。 そして何より現代のダンスフロアと親和性の低い掛け合いや融け合いのダンスを 展開するフォーマットとしてもまたコングレススタイルは必要だといえます。

また、ディオニソス的ダンスもコンヴィヴィアルに踊れます。 パチャンガは象徴的にこの次元のダンスといえますが、 そもそもパチャンガとは「パーティ」とか「バカ騒ぎ」という意味なのでした。 ジャレオもバチャータもジャズも荒々しくいえば「バカ騒ぎ」という意味に繋がります。 そして「コンヴィヴィアル」という言葉の古い用法は「バカ騒ぎ」という意味なのでした。 自立共生という概念からこの「バカ騒ぎ」という成分を割り引いておきたいというのは、 イヴァン・イリイチの意図だったかもしれませんが、 ダンスや音楽の文脈では むしろ積極的にこのコンヴィヴィアリティの「パチャンガ」性を祝福しましょう。 もちろん、 過剰な「バカ騒ぎ」が独善と軽薄に堕すれば 無秩序はただの地獄であることを忘れてはなりませんが、 ダンスがダンスとして歓喜であるためにはまず 「バカ騒ぎ」のモードを通過する必要があることを深く肝に銘じる必要があるのです。
もちろん、グランデ曼荼羅からも確認できるように、 これをもっと洗練されたモードに接続することもできたのでしたね。 集団的熱狂からステップダウンして個的なあるいは二者的なマジックサークルに 引き込もることもまた、ラテンダンスのフロアでは自由に許されているのでした。 ふたりのダンスは環境因子としてのフロアのヴァイブスや 音楽のグルーヴに支えられていますが、 そこから遊離して5分だけの昇天旅行に飛び立つこともまた可能です。 ちゃんと帰ってきてくれなければ困りますが。
ともあれ、どの方向にも危機があるので、 秩序とルールを重んじる市民的メンタリティを持つダンサとしては、 「ならず者たち」を排除したくなるのは避けがたい気分も出てきます。 しかし同時に「不可解な岩」問題こそが最もフロアを破綻させやすい因子であり、 ダンス産業全体がこの岩に引き付けられる近代的な傾向を持つことを自覚するとき、 少しでも楽しい時間を引き延ばしたいと考えるダンサは、 掛け合いや融け合いにも開かれる勇気が必要です。
パートナワーク以前にダンスのアルカイックな動機は狂うことだったのだし、 サルサは最初から「コントロル」を伴って誕生したことを思い出せば、 音楽とも原ダンスとも遊離したリード・アンド・フォローだけで 自足することができないと分かるはずです。 少なくともソーシャルダンスに活力を与え、 コミュニティを持続させようと考えるならばこの認識は避けては通れません。
そのスタイルの可能性は既にいくらか見ても来ましたが、 具体的なイメジとしては掴みにくいですね。
冷静に熱狂し、根と翼を同時に持ち、 古代の呪術と現代の合理主義を止揚して そのトータリティの中で左回転するにはどんな風に踊ればよいのか。
明日に続きます!