Merengue Panic



Advent Calendar 2024 24日目の記事

パンドラとメレンゲを踊る (6)

サルサやメレンゲの充実感はくじ引きのようなもの。 どんな悦びが1曲のダンスから引き出されるのかを決めるのは自らの姿勢と偶然です。 毎回異なるダンスの満足度を予測する方程式は書きようがあるでしょうか。 誰といつ踊るべきか。何を何のために踊るべきか。そしてどう踊るべきか。 最高の1曲と遭遇する時の到来を占う拈華微笑の快楽論、 7回シリーズの6話目です!

心に通じるベーシック

念の為改めて確認しておくと、 初心者の人にとって、 サルサの ソーシャルデビュー に必要な知識や技量は それほど大したことではありません。 ただ飲んで踊るのに、やれプロメテウスがどうのとか、 ディオニソスがこれこれとか、お釈迦さんが云々というのは全く不要な議論です。

本サイトでお願いしているのはとりあえず、 悪いことはいわないのでベーシックだけはちゃんと練習して、 上半身と下半身の連動 くらいは出来るようになっておいて下さい、というそれだけです。

これは学習の手順として、入門時にちゃんとやっておかないと、 後で再訪問できなくなる可能性がとても高いトピックであり、 しかも、これなしではどんな次元のどんなスタイルで踊るにしても不味いことになるから、 という老婆心からのアドヴァイスでした。

噛み合う踊りだけでいいなら、 リード・アンド・フォローやターンパタンの練習は必要ですが、 ソロダンスは別にやらなくても構いません。 掛け合いだけの人なら全くレッスンに行かなくても 音楽に合わせて元気よく動けばよろしい。 融け合うダンス専科という人は少ないかもしれませんが、 この方向の人はフレームの組み方くらい覚えればパタンもステップも要りません。

そういう意味ではコネクションもステップもフレームワークも 必要ないと思えば身に付けない選択ができるアイテムでもあります。 ところが、 どの次元の専門家を主張するにしてもベーシックが踏めない人は どこでもやっぱり残念な感じになってしまいます。

そもそもコネクションはベーシックを前提としてしか成立しませんし、 シラバス的なシャインであれ、即興的に自由に踏むステップであれ、 キューバンモーションのない動きはアフロ=ラテンダンスの文脈では見映えがしません。 上手くなくても別にいいじゃないかと主張できるのは ディオニソス的方向の特徴ではありますが、上手くて困るものでもありません。 フレームを組んで揺れるだけというのはむしろベーシック100%のダンスであり、 リードもフォローも確かなベーシック力がなければ逆に不快でさえあります。

コスモポリタンな人もヴァナキュラな人も、 レッスンに行く人も自然に覚えたい人も、 男性も女性も、年配者も若者も、 とりあえずソーシャルダンスに参加するならベーシックだけはどうやっても避けて通れない すべての基礎なのでした。

そしてこのことは逆に、異なる全次元のダンスを一番下から支えるベーシックを通じて、 他の次元との通信を試みる回路があるということを意味します。

多くの人が30歳を過ぎてから始めるのがラテンパートナダンスで、 身体能力的にも特別な運動経験や筋力や柔軟性などを要求しないため、 身体を作るという意識は非常に薄い。 もちろん、 筋トレや柔軟というのはソーシャルダンスにあまり必要なアイテムではありません。 立って歩けるならとりあえず踊れるのがサルサやメレンゲなのでしたね。

ただ、キューバンモーションをはじめ、姿勢維持や内観力、 掌や足の裏の繊細さ、目に依存しない空間把握など、 身体能力を全く要求しない訳ではありませんし、 初心から中級・上級まで身体を練っていくという練習メニューは豊富にあるように思います。 キューバンモーションのごく初歩的な体幹連動というテクニックでさえ、 インタロックできる身体がなければ成立しえないのでした。

藝事や稽古事ではよく「心技体」といいます。 この3段階を練っていくのが稽古の目的といいますが、 できあがっていくのは逆の「体」、「技」、「心」の順なのでした。

ある「技」が出来るようになるためにはその「技」ができる「体」が必要で、 身体が練れていないうちはどんなに頑張っても「技」は習得できない。 「技」の練習は「体」の不足を確認し、 それを通じて「体」を作っていくプロセスでもあります。 もし、既に「体」が出来上がっているなら、 「技」を覚えるのはそんなに難しい話ではありません。 的を得たインストラクションがあるなら反復練習すれば遅かれ早かれできるようになります。 ただ、その「技」が要求する「体」の能力が備わっていない場合は、 まずそれを身に付けねば「技」の完成は全く期待できないのでした。

これは包丁の機能が「切る」であるというとき、 包丁という「体」が「切る」という「技」を発揮していると考えることもできるのですが、 そもそも包丁がよく研がれていて、 切れる包丁でなければ「切る」ことはできないということです。 ベーシックを踏むのにインタロックできる体幹が必要というのは、 この「技」と「体」の関係になっているともいえる訳です。

そしてこの「技」と「体」の関係は「心」と「技」の関係と同様です。 ある藝の「心」を掴むというのは漠然としたイメジで、 どうやってその「心」に到達するのかという問いがありますが、 「心技体」という考え方でいえば、 「心」は「技」を徹底的に練ることの先に段々感得されてくるという諒解があります。

スロットサルサの「心」を掴むには ある程度のターンパタンをそれなりの程度まで 血肉化していかないとよく理解できません。 カシーノの「心」を掴むということも、やはりある程度基本的なシラバスをこなし、 「技」を磨いて後のことになるのでしょう。

なので、入門初日から「心」を説かれたとしても それは最初はなんだかよく分からない禅問答のようなものか、 謎としてしか認識できないものです。 理論や方法論ではなくそれが「心」と呼ばれる所以もまた、 身体的フィールとしてしか身に付けようのない何かだからといえます。

何度でも繰り返しますが、ベーシックはその道程のすべての出発点、 ベーシックを面倒くさがってしまうとサルサやメレンゲの「心」に触れる機会を失います。 どれだけ情熱があっても「技」なき「体」は能力を発揮できませんが、 「心」なき「技」もまた点睛を欠いており、 「心」を作る「技」と「技」を支える「体」の総体が その人のパフォーマンスを決定するのでした。

二本の足で立つこと

このようなパートナダンスの基礎は、 不自然な美しさを人工的に作り上げていくバレエのような 文明的ダンスに対する反動として誕生したのだ、ということがあります。 ナチュラルウォークムーヴメントの帰結として、 歩くということがダンスの核心的な価値として設定されているのがパートナダンスです。

このため、 ジャンプしたり、 リフトしたり、 寝転がったり、 逆立ちしたりする動きはパートナダンス的ではありません。 バレエやヒップホップではアイコニックな動きにさえなっているこれらのムーヴは、 補助的に借用されたりステージダンスとしては取り入れられたりもしますが、 それはパートナダンス的発想とはちょっと違う動機です。

二本の足で立ち、ふたりで歩くこと。 そこで回ったり踏んだりしますが、遊戯性のみが運動を支えており、 何処か遠くへ行くための歩行ではありません。 前後左右に行ったり来たりするだけの意味から解放されたステップ。

移動を目的としない歩行を散歩というならば パートナダンスはリズミカルな散歩という感じもあるでしょうか。 ひとり音楽の森に分け入っていくのも楽しいですが、 ふたりであれこれお喋りしながら森を散策するのも魅力的です。 森を歩き回るには確かな健脚が必要で、 ダンスフロアではベーシックが足腰です。

H. D. Thoreau
from wikimedia.org

不安ならよく整備された遊歩道を行くこともできますし、 もっと獣道を行けば面白い動物や珍しい植物に出会えるかもしれません。 熊に出喰わすことにも注意しておく必要があります。 老木の精や半裸の狂女や木登り名人の少年にも遭遇するかもしれない。 インディオの残した古い矢尻を発見することもあるかもしれませんし、 季節のわずかな変化や知らなかった曲がり角に気付くこともあるでしょう。 途中でパートナとはぐれてしまうこともあるかもしれませんし、 湖の側のほったて小屋でばったり再開するかもしれません。

その小屋には3つの椅子が置いてあります。 ひとつは孤独のための、ふたつ目は友情のための、そしてみっつ目は社交のための椅子。 運がよければ髭面で柔和な雰囲気の超絶主義のオジサンがいて、 お茶を出して歓待してくれるかもしれません。

ダンサはこの3つの椅子のどれにも坐ることができます。 社交は内容ではなく形式だけが重視されるという点が面白いところですが、 孤独や友情との往復において初めて重量感が生じます。

両極を合わせ持つこと

世界のどこの街でもいいのですが、 都市のダンスフロアにおいて一見相容れない指向性を合わせ持ち、混ぜ合わせ、 コンヴィヴィアルなスタイルで踊ろうとするとき、 アポロン的秩序を相対化するのが一番難しいことなのかもしれません。 それはダンスフロアが現実社会と切り離された楽園ではなく、 むしろまったく社会そのものの縮図だからです。

ここまで議論してきた文脈でいえば、 97年以降のサルサ が魅力的なのは それが単に近代的な合理主義のシステムを体現したダンスであるからではなく、 むしろそうした現代の市民社会的価値観が古代の呪術的世界、 ディオニソス的原ダンスの欲求とも連続しているという点にこそあるのでした。 あるいは逆の方向を振り返れば、 求道的な精神性を男女の陶酔の中に包摂するビタースウィートとも通じており、 表向きは健全なダンススポーツのフリをしつつ、 反社会性もオカルトも抱え込んだおもちゃ箱のような散らかり具合に 快哉を叫びたくなるのでしたね。

それがラテン的混淆性とトランスカルチュアリズムとグローバリズムの複雑な網目の中で、 幾重にも屈折し、変質し、偽装されつつもその人類知としての強靭さを失わないことに、 感嘆の溜息を漏らさずにはいられないのです。

ロシアのロケットサイエンティストが縄文時代からきた女子とパチャンガで掛け合い、 光源氏がスプリングフィールドのハイチ移民の少女とバチャータを踊り、 あるいは六条御息所の霊とマッカンダルのダピーが、 ラングドッグで火炙りに掛けられそうな魔女とラカン派の精神科医が、 怪しい化粧水で大儲けした美容研究家の女社長とコンゴ広場の大道藝人が、 みんなで一緒に Celia Cruz の音楽でスロットサルサを踊っている。

夢か現か分かりませんが、 もし人生に「最高の1曲」を踊る機会があるとしたら こういうヴァイブスに包まれてのことであるに違いありません。

界面活性する音楽

パートナダンスのコンヴィヴィアリティを証明するためにダンスの快楽を分解し、 全次元を規定する身体的基礎としてのベーシックを確認してきたのですが、 もうひとつ、全次元のダンスの肝腎となっている音楽を考えねばなりません。

音楽のエナジィは踊る人々の血流を促進し、否が応にも足を動かします。 この感覚をグルーヴとかスウィングとかいろんな呼び方をしますが、 リズムがいいということなんですね。 そしてアフロ=カリビアン音楽において、 リズムがいいというのは クラーベ感 があるということなのでした。

プロメテウス方面の人たちの刑罰は、 パートナダンスの手組みの自由度を上げるために 音楽との結び付きをほとんど失ってしまったことに由来していたのでしたね。 そのため、この方面から例えば掛け合いに向かっていこうとしても、 ディオニソス方面でのダンスを支えているのは完全にリズムの力なので、 もはやダンスと音楽の有契性を回復できなくなっているコングレスダンサたちは、 レッスンで習ったルーティーンのおしきせを反復する以外になく、 それならばパートナワークで踊った方が安心感があるし、 やりやすいとなって曼荼羅右上の方に引き込もってしまうのでした。

頑張ってもマンボかもうちょっといってもチャチャまで、 パチャンガはちょっと、というくらいの気分のダンサは多いのではないでしょうか。 そこにさらに文化的な謙虚さとかはにかみ屋さんの気質などが加わると、 スロットスタイルから一歩も出られないということになってしまいます。

ではコングレススタイルの人々にとって音楽とは何でもいいということなのか、 というと一応そういうことでもない。 「サルサの音楽は好きですか」という質問にはほとんどのダンサが好きだと答えます。 実際のコングレスや毎週のローカルパーティでも、 サルサを踊る人たちはまだほとんどの場合サルサらしい曲で踊っています。

ただ、その耳が本当にサルサあるいはアフロ=カリビアン音楽に向かって 開かれているかというと、なかなか厳しい現実も認めなければいけません。 ダンサにとっていい曲とは長さとテンポが適切で、 拍節感があって耳馴染みのある曲というのが中央値的な意見でしょう。

最新の商業シーンにおいてサルサが上位でチャートアクションすることはほとんどなく、 例えば2024年の年間チャートでは、 Rauw Alejandro がカヴァーした Frankie Ruiz の名曲 "Tú Con Él" 1曲のみです。 レゲトンやムーシーカ・メヒカーナがサルサを押し退けているというよりも、 人々の音楽に対する情熱自体が全体的に減衰しているという指摘もあります。

強いリズムがなくても陶酔系のダンスは踊ることができますが、 それだけを続けていたらクラーベもマンボも長生きできません。 「サルサ・イ・コントロル」とは音楽を持続させるための智慧であると同時に、 ダンサにとっても深い教えなのでした。

ほんとうにリズムのいい音楽が残っていくのなら、 それは新しいフィールを獲得して新ジャンルを作るかもしれませんし、 既存ジャンルにフレッシュな解釈を付け加えるかもしれません。 マーケットはいいリズムの曲よりも売れる曲にしか関心を示しませんから、 結局はリスナの側がしっかりした耳を持つ、ということしかありません。

いいリズムを作り出せるようになるのは大変な努力を要しますが、 ポリリズムの快楽を味わい分ける聴解能を身に付けるだけなら それほど難しい訓練を必要としません。 ベーシックよりは少しばかし大変かもしれませんが、それでもたかが知れています。 一度体得したら言葉が話せるうちは失われる能力でもありません。

どうやっても大衆ダンスは大衆音楽なしに成立しませんから、 なんらかの楽曲は必要で、 もしそうならコンヴィヴィアルで美しい音源で踊ればよいはずです。 しかし、最初の少しのハードルを面倒くさがってしまう心性が世の中に蔓延しているため、 反コンヴィヴィアルな音源による独占を許してしまうのは人類にとっての大きな損失です。

音楽に対する関心や好みに共有するものがあるなら、 3つの異なる次元に住むダンサ同士も共通言語を持つことができ、 対話と共感の活路が開けてこようというものです。 ロマンティカが好きな人もドゥーラが好きな人もティンバが好きな人も、 結局はクラーベのある音楽を味わっているという点は共通するのですから。 音楽こそが境界を溶かし、乳化させ、新しいソースのアイデアの霊感源となると信じます。

ふたつの前提

ベーシックとクラーベ感をダンスフロアで共有されるべきミニマルの前提とする、 というのはそれほど無謀な要求だとは思いません。 両者とも正規のレッスンを要するほどハードルが高いものではありません。 ここで議論してきたようなすべてのダンスジャンルやダンススタイルは どれもこの両者に根差して成り立っているので、 ここだけ踏まえればあとはどこへでも飛んでいけます。 そのときの気分や相手や選曲に応じて、 自由に噛み合うことも、掛け合うことも、融け合うこともできるなら、 ダンスフロアはもっとコンヴィヴィアルな場所になります。

そしてそれぞれの方向性の危機を補い合い、 魅力をダブルアップし合う三次元が総合的に構築する釣り合いの快楽がフロアを充満するとき、 まさにそのホールこそ「最高の1曲」が到来するべき場所ではないでしょうか。 いまこの釣り合いの快楽をグランデと名付けるなら、 それはあらゆる快楽と不快がまぜこぜになって加法的にプラスマイナスすれば和はゼロだが、 その積を考えれば極大に大きくなるような壮大な風景の原点を示します。 それは実際のダンスフロアの快楽とも通じる、 中毒性と依存性を伴うほどのスリリングな祝祭空間です。

All-In Seafood Rice Bowl
from wikimedia.org

それは枯淡とか詫び寂びなどいうハイソな文化ではありません。 代わりにもっと大衆グルメ的「全部載せ」の美学がここにはあります。 ややメタにいえば、その「全部載せ」の上で詫びたり寂びたりしてもいいのですし、 脂っこいさっぱり感を偽装することもできます。 現実のフロアでもふたつの前提は不完全な形ではあっても なんとなく共有されている感じはあって、 充実度がどの程度かを問わなければ、 この「全部載せ」の気分を隠し持っているかもしれません。

この気分がヴァイブスとして拡散するフロアには、 身体を動かすのが気持ちいいとか、いろんな人に会えて嬉しいとか、 異性と手をとって跳ね回っていれば楽しいとかいう水準とはまったく違ったところで、 俗っぽい姿に身をやつしつつも真摯な快楽を追求していくモードが確かにあります。

ところで、「最高の1曲」をフロアに降ろすためには このふたつの前提は確かにミニマルな必要条件とはいえそうなのですが、 それだけで時の到来を待っていれば十分なのでしょうか。 その間にダンサの方が自滅したり売り切れたりしてしまっては困るのですが、 誰とどのように踊りながらその時を待てばよいのか。 いよいよ最後に忘れていたあの存在を思い出さねばなりません。

明日に続きます! Merry Christmas!!

posted at: 2024-12-24 (Tue) 14:00 +0900