末期のダンス
想像してみてください。 あなたはいまから今宵のダンスパーティに出掛けようと思っていますが、 一方で明日死ぬことが確実に分かっています。 さて、誰とどんな曲をどんなふうに踊りたいですか。
最後のダンスというのはなかなか想像しにくいかもしれません。 死ぬ前に何が食べたいですか、というよくある質問のパラフレーズでしかないようで、 食事以上にいろいろな条件が絡んでくるので難しい。
もちろん、この回答は人によって様々に異なると思います。 ある意味で人生観やダンス観が丸ごと露出する思考実験です。 どんな回答であれ、これくらい切羽詰まった状況であれば、 虚栄心とか、惰性とか、現状追認とは無関係に、 あるいは他者のそれを模倣しただけの借り物の欲望ではなく、 ほんとうに自分が踊りたいダンスが何なのかを再確認できるというものです。 ある人は相手にこだわるかもしれませんし、 ある人は曲にこだわるかもしれません。 もちろん両者の組み合わせが大事だという人もいるでしょう。

死刑囚が広場の処刑台の上に立つと、 空も花も樹々も人生で見たことないくらいに美しく見えるといいます。 それまではなんとも思っていなかった景色が これが今生の見納めとなると途端にその存在感を発散し始めるのですね。 喪失こそが曖昧だった意味をくっきりさせます。
ひとつだけ確実にいえることは、 誰にも必ず最後のダンスの瞬間があるということ。 死は確約された未来ですが、 そんなことは差し迫ってくるまで思い出したくないという人も多いのではないでしょうか。
忘れられがちなエピメテウス
そういえば本稿の議論はエピメテウスの神話を語るところから始めたはずなのに、 ずっとその存在が忘れられてしまっていましたね。 忘却の神はすぐに忘却される神でもあります。 人類にとってプロメテウスは火と智慧をもたらしてくれた英雄ですが、 エピメテウスはその生物学的弱さの原因だからか、 あまり関心の対象になりにくい存在です。
ヒトは弱く、脆く、怠惰な生き物。 人が不安を覚えるのは未来があるから、そしてその未来が不可測だからですが、 ヒトにだけ未来があるのは技術や智慧を持ってしまったことが原因です。 技術がなければ未来はないので危機もありません。 未来は不可測ですが、死だけは確実な未来として厳然として知らされています。
智慧を持たないヒト以外の動物たちは未来に対する不安から自由です。 人間の怠惰は未来への不安の現れですが、 同時にこの不可測な未来への不安があればこそ、 危機や不条理への対抗としての技術や文化を発展させてもしてきました。 動物に戻れば危機は解決しますが、人類はその選択をしませんでした。 技術や文化の力で弱さを補おうとしましたが、 生存のための強さを持つことはヒトとしての弱さを捨てることではありません。 弱さや不安を失うとヒトはもはやヒトでなくなる。 不安は愛の源泉 でもあるのでしたね。 文化とは人類が持つべき強さと弱さのバランス棒のようなものともいえます。
このように智慧・技術・文化・死そして未来は同根で、 エピメテウスとプロメテウスの失敗に由来するのでした。
しかし、プロメテウスは最終的に「不可解な岩」に磔にされる宿命です。 技術がなければ生存できない人類ですが、 発達してしまった技術は人間の関心とは別に自立して自走し、 人間に対立するものにもなりえます。 機械に乗り越えられてしまった人間が機械によって滅ぼされるという恐怖は、 フランケンシュタイン以来の古い SF 的創造力。 技術が人間の幸福を増加させるのは それがコンヴィヴィアルである限りにおいてでした。 それを超えた技術は単にコストと不快を増やし、 人々を隷従させ、生物学的な能力をさらに奪い、 フラストレーションの原因になります。 この釣り合いを保つのは難しい。
だからこそ、人類知はプロメテウス的知性とエピメテウス的知性が一体となっています。 要領よく時代や環境に適応することはエネルギィ効率の面で合理的ですが、 一方で環境の変化が起こるとたちまち圧倒的な非効率に転落します。 未来を予知する知性のプログラムは常に更新されねばならず、 そのためには後知恵、 すなわち後悔と反省によって得られたエピメテウス的知見が重要な貢献を果たします。
プログラムは「前もって書かれた一連の手順・手続」という意味ですが、 エピグラムは「警句・箴言」という意味なのでした。 生物の遺伝的進化の基本戦略もまた多様性に依拠するのであって 特定の方法に全面的に依存することを回避しています。 プログラムは常にエラーを起こす可能性を孕み、 エピグラムは失敗からの学びを後世に伝える人類知の結晶です。 プログラムを書くには強さと自信が必要ですが、 エピグラムは弱さを自覚して始めて紡ぎ出されます。
人は愚かなので自分たちの弱さをすぐに忘れてしまいます。 危機や運命をコントロールできると過信してしまう。 それが不可能であることを古くから人類はよく知っていますが、 このこと自体が忘れられがちでもあります。 未来はいつも突然やってきては人類を裁くのでした。
忘れることを忘れさせるのが現代の技術の病理ともいえます。 ここで大事なのは何を得られるかではなく何が失われるのかということ。 人類が経験から引き出した最重要のエピグラムは "Memento Mori" 、 つまり「死を忘れるな」だったはず。 あるいは "Mors carta, vita incerta" 、 「死は確かであり、生きることは不確かである」 という古い警句(=エピグラム)も響き合います。
ところで、ダンスフロアを貫く快楽原則では、 アタラクシアすなわち心の平穏がキーワードでしたが、 エピキュリアンからのアドヴァイスは「死を心配するな」でしたね。 不安はアタラクシアの反対概念ですから「死を忘れる」 ことが快楽をもたらしてくれるというのは道理ではあります。 死を忘れなければ快楽はないが、死を忘れれば簡単に自滅してしまう。
ここに忘れることの偉大さと危険があります。 忘却と想起を繰り返すことが文化のダイナミズムなのであってみれば、 ダンスフロアに訪れる個人もまた、 その身振りを身体で覚えておかねばなりません。 忘れてしまったエピグラムを覚えておいてくれるのは人間の身体に他ならないからです。 後で思い出すことを後知恵と呼ぶならこれもまたエピメテウス的知性の側面なのでした。
人類はプロメテウスの子孫であると同時にパンドラとエピメテウスの子孫でもあります。 プロメテウスの息子デウカリオンとパンドラとエピメテウスの娘ピュラーの夫婦が、 ゼウスの起こした大洪水を生き延びた唯一の人類なので、 全人類はこのふたりの子たちです。
ヒトが智慧以外に持っているほとんど唯一の生物学的タレントは歩く能力。 二足歩行できるということが前肢を自由にし、モノを掴める手を与えたのでした。 この二足歩行こそ、ヒトがパートナダンスを踊れる基礎条件でもあります。 そして、自由になった両手で世界を把握し、 未来と技術を発展させてきました。
ところで、どうしてヒトは二足歩行できるのか。 これはどう考えてもあの最初のときにエピメテウスがその能力を与えたからに違いありません。 すべての力を分配し尽くしてしまったと思ったエピメテウスでしたが、 実はこの重要な能力だけは既に身体構造として付与済みで、 それを与えたことさえ忘れてしまうのがこのウッカリ者の神なのです。
人類が智慧を持っているのはプロメテウスの罪のおかげですが、 同時にエピメテウスの子孫たるヒトは非常に忘れっぽい生き物でもあります。 ほとんどすぐに忘れる。 忘却は失敗を誘発しますが、失敗した後に後悔する。 後悔は警句を分泌しますが、喉元過ぎればその後悔さえもまた忘却してしまう。 ただし、再び同じ失敗をする前にその忘れてしまっていた警句を思い出せるなら 今度は前もって備えることができます。 この機序でもプロメテウスはエピメテウスによってバックアップされており、 一心同体でなければ知性を発揮できません。
いま、 スロットサルサがプロメテウス的知性であることを振り返れば、 その魅力をダブルアップし、同時に破綻からも防ぐためには、 ダンスフロアにエピメテウス的知性を呼び出さねばなりません。

ここで先のグランデ曼荼羅を思い出せば、 右上に引力のあるプロメテウス的近代サルサに対し、 ちょうど正反対の位置にあるのがメレンゲであることを発見します。 ディオニソスと釈迦の成分を少しずつ分け持ち、 プロメテウスを相対化して釣り合うエピメテウスの場所に メレンゲがある。 ゆえにサルサ場にメレンゲが必要なことを説明する最も端的な表現は、 「サルサのプロメテウス性をメレンゲのエピメテウス性でダブルアップするため」 となるでしょう。
知的さや秩序を指向するサルサを粗雑さや奇天烈さを指向するメレンゲで相対化する。 しかし両者は単に対立するのではなく、 実際にはほとんど同じものの裏表であることも分かります。 サルサもメレンゲも充分にトランスカルチャ化されたダンスであり、 音楽的な複雑さや魅力も比肩するものがある。 反サルサではなく裏サルサとしてメレンゲを捉えるとき、 サルサが死なないようにするためにはメレンゲの支えがどうしても必要だという主張は 説得力があります。
自走する技術に抗して踊る
サルサの危機はメレンゲの危機でもあります。 イリイチのいう「エピメテウス的人間」を再生せねばなりません。 そしてこの「エピメテウス的人間」はサルサをダブルアップするためにメレンゲを踊ります。 災厄の源泉であるあの箱を再び開くパンドラと踊る。 この世では災厄の源泉と幸福の源泉は常に同じものなのでした。 生きることは苦しみの源泉であると同時に幸せの源泉でもあり、 メレンゲを踊ることは愚かの極みであると同時に至高の快楽でもある。
エピメテウスは愚者であるがゆえにメレンゲを踊ります。 エピメテウスはパンドラと踊る。 パンドラとはすべてを与える者という意味なのでしたね。 彼女が携えているエルピスが希望であるのか絶望であるのか、 それはエピメテウスにとっては重要ではありません。 なぜなら未来を裁くのは人類ではないからです。 逆に人類の方がエルピスに裁かれるのだと諒解するとき、 未来は決して優しいものとは限らないけれど、 それに希望を持つことも絶望を持つこともできるものとして突然降ってくる。 ダンスフロアのエルピスはミラーボールのように四方八方に光を放っています。
我々はどう生きるかと問うとき、何のために生きるのかを問うよりも、 どのように生きる道を見つけるのかを問うことが大切です。 君たちはどう踊るか、と問われたらコングレススタイルのサルサを踊るとか、 パチャンガを踊るというのは方便に過ぎず、 本当に問われているのは、どんな姿勢で、どんな笑顔で、 どんなベーシックとどんなコネクションで踊るのかということです。
いま、ダンスフロアが社会の縮図であることと、 技術の先に虚無と破局が待っていることを深く鑑みるとき、 エピメテウスを忘れたプロメテウスたち、 すなわち能天気なテック・アニマルたちの主張にも警戒しなければなりません。 彼らは未来が不可測であり制御不能なものであることを超越しようとしています。
人間の身体の限界を超えるトランスヒューマンとなって、 不老不死の呪われた夢を見ようとし、 AI が人類知を超えるシンギュラリティを実現しようとする。 空を目指し宇宙への生活圏拡大を画策し、 合理主義と効率化だけを価値とする世界の統治原理を信仰しています。 利他主義でさえ全知の視点から与えられた効果測定の評価によって選別され、 億年紀のスケールからの視点で今を生きる個々の生命の価値を矮小化する。
これらの発想で作られる諸々の道具や技術は決してコンヴィヴィアルではありません。 人間の弱さや脆さを否定するのはエピメテウスの拒否です。 宇宙開発やナノテクノロジィが進歩しても、 ロボットや AI が進んでも、 ダンスパートナロボットは決して作ることができないし、 ダンスのよさを測る評価関数を書くこともできません。
なぜならダンスフロアの快楽は エピメテウス的知性に裏打ちされて始めて回り始めるものだからです。 エルピスがどのように人類を裁くかはプロメテウスにも AGI にも予測できないし、 パンドラが与えてくれるものを受け取るには、エピメテウス的な柔弱が必要なのでした。
いっぽんどっこ
さて、エピメテウスがパンドラと踊るメレンゲはどんなふうでしょうか。 最初にも見たようにこのリードは忘れっぽいのであまり複雑なことはできません。 ただゆっくりと、低く、優しく陶酔的で身体的に踊るスタイルです。 しかし、この愚者には頭で覚えられなくても身体が記憶していることがあります。 忘れても忘れてもベーシックの練習を反復するエピメテウスには 忘却と後悔の反復の結果、身体に染み付いた技術、 血肉になったリード力があるのでした。
普段はちょっとしたターンとふとしたブレイクのヒットくらいしかアクセントは使いませんが、 彼の手足がアルカイックに記憶している特徴的なパタンもあります。 それは左方向に回転し続けるエピメテウスの周りをパンドラが右方向に回る動き。 左回転と右回転のバランスで三次元の重ね合わせを象徴するムーヴです。 ふたりで一緒に回るというのはパートナワークの最も古い素朴な手組みでもありました。
件の曼荼羅によれば、 プロメテウスがディオニソスや釈迦との釣り合いによってバランスを保ち、 この平衡が左回転の遠心力とコリオリの力によって支えられているとき、 その重心であり原点となる位置をグランデ (Gr.) と呼ぶことができるのでした。
グランデはサルサにおける固有のターンパタンの名称でもありますが、 これもふたりで一緒に回るという単純な動きです。 この最古のパートナワーク原理のメレンゲ・ヴァージョンを考えるとき、 コネクションを維持しながらリードが左に回転し フォローはその周りを右に公転するという動きもまた、 このコンセプトを体現した動きといえます。
実はサルサや先行するスウィングなどにこれは既にあって、 ジャンルによってはスナップターンとかトスアウトとも呼ばれています。 ただ、これをメレンゲで行うと、 タイミングと回転速度を自由に裁量できるというメレンゲ的特性が加わり、 他ジャンルでは作れない独特なアウラを醸す三次元統合の象徴的パタンになります。 フォローがずっとリードの腹回りを腕でなぞってコンタクトしている点が面白い。 リードの腹回りとフォローの腕の間のこのコネクションは 遠心力とコントラクションを同時に遣うことで両者の逆回転の釣り合いを作ります。
これをコンセプト的に「メレンゲのグランデ」と呼んでも差し支えないのですが、 瞬発的な遠心力で両者が共に左回転するグランデとは外形的な違いもありますから、 何か別の名前にした方がいいかもしれません。 メレンゲでは広く共有されたターンパタン名はほとんど存在しませんから、 もしこれに名前をつけるとすれば独自に名付けねばなりません。 そしてその名はコンヴィヴィアルなアイデアを提示するものがいいでしょう。
ところで、先にコンヴィヴィアリティのための道具の一例として和装の例を挙げましたが、 和服が楽しいのは長着と帯の組み合わせが自由であるところ。 そして自立共生的な道具はその使い方も個的な創意工夫が許されるのですから、 帯を裏返しに締めることもできます。

角帯のスタンダードである博多織の献上柄は、 表に「華皿」と「独鈷」と呼ばれる模様が平行する美しい幾何学模様ですが、 その裏は一本線がずっと入っているだけなのです。 「華皿」も「独鈷」も仏具ですが、「独鈷」はもともと両側に刃のついた武具。 涅槃的静謐を求めるというのに、 煩悩を打ち砕くためには荒々しさが不可欠ということでしょうか。 そして、 裏側の一本線もまた「独鈷」の連なりであると解釈して俗にこれは 「一本独鈷(いっぽんどっこ)」と呼ばれています。
ダンスフロアにおいて、 メレンゲが裏サルサとしてサルサの価値をダブルアップする エピメテウス的役割を担っていることを自覚するとき、 裏返した角帯の真っ直ぐの線はまさに両者の間の深い友情関係の象徴でもあります。 そしてこの一本線はちょうどフォローとリードのコンタクトが持続する コネクションの線でもあるのでした。 ただ、実際は男性の角帯は腸骨のラインで締めるのが普通であり、 コネクションがこのラインでは低すぎます。 いわゆる「バカボン状態」と呼ばれるヘソ回りまで帯を上げた状態の いっぽんどっこに触れようとするとき、ちょうどコネクションがワークします。
エピメテウスは愚者なのであり、 パンドラはそんなエピメテウスの子らにこそすべてを与える全人類の 妣 であることのシンボリズムを見てとるとき、 この「メレンゲのグランデ」を「いっぽんどっこ」 と呼ぶこともできるのではないでしょうか。 愚神を礼賛する孤高の精神はくるくる回ってフォローを苦笑させますが、 技術の暴走を鎮める反技術としてのリード・アンド・フォローもとい アンド・フォロー・リードです。 バカボンポジションに裏返した角帯を締める愚者が、 妣なるパンドラと踊るとき、 プロメテウスの知的狂気はエピメテウスの愚かな叡智によって鎮められるのでした。
エピメテウスとしてパンドラとメレンゲを踊る。 これが最高に「美味しい」1曲であることは間違いないですが、 真の愚者となることもすべてを与える者を降ろしてくることも簡単なことではありません。 最低限、ベーシックとクラーベ感のふたつの前提を身に付けた後は、 何をどうすればその彼岸に近づけるかは不明瞭、闇の奥です。 ここには科学的なトレーニング方法も到達度を測る物差しもないので、 合目的的な努力は通用しません。
結局、時の到来の待ち方は人それぞれですが、 混ぜれば混ぜるほど美味しくなるのがソースの基本であることは忘れないでおきましょう。 甘味も苦味も旨味も塩味も辛味も酸味も、すべて大切なサボールです。 好き嫌いなどいっている場合ではありません。 なんでもよく噛んで食べれば美味しいかもしれない。 味の決め手はトマト・ケチャップです。
ササはザマニの永久の反復、 人生はキャラバンサライ だとサンタナは歌いました。 目の前の1曲を楽しく踊れるように祈ること以上に大切なことはありません。 いかに現実が厳しくとも、 真に刺戟的で楽しい時間を想像する悦びは決して諦めてはいけないと肝に銘じます。
覚えるや否やすぐに忘れてしまうのに 今日も一生懸命ベーシックやリスニングの練習をしているエピメテウスは、 明日世界が終わると告げられても笑いながらその練習を続けるでしょう。 パンドラは傍らで優しく微笑んでいます。
Advent Calendar 2024 はここまで! 2025年もメレンゲパニックをどうぞよろしくお願いします。 よい年を!