お菓子のメレンゲ
音楽としての「メレンゲ」の語源については諸説あって、 確たる語源は分かっていないようです。
一般にいわれる説は大きくふたつあり、 ひとつはお菓子のメレンゲに由来するというものと、 もうひとつはネイティヴアメリカンのタイノ人の古い言葉に由来するというものです。 それ以外にもアフリカ系の言語がルーツであるという説などもあるようですが、 ここではお菓子由来説とタイノ語由来説を見てみましょう。
お菓子のメレンゲは卵白に砂糖を混ぜて泡立てたモノ。 ヨーロッパが発祥とされています。 メレンゲパイやマシュマロやパヴロヴァ、 ムースやスフレや淡雪などに使います。 あるいはベイクト・アラスカやシフォンケーキ、 カクテルのトム・アンド・ジェリーなんかでも使いますね。 もちろん、メレンゲ菓子の Johnny Ventura もといマカロンを忘れてはいけません。 このお菓子の方のメレンゲも正確なルーツがよく分かっていませんが、 一般に、スイスはベルンの小さな村「マイリンゲン」の名前に由来するとされるようです。 文献として残っているものとしては、フランス人シェフのフランソワ・マシアロットが 1692年に書いたレシピ本に掲載されているのが初出とのこと。 ですから、「メレンゲ」ないし「ムラング」という言葉はこの頃までには お菓子の名前として誕生していたということになります。 卵白を泡立てて作るお菓子そのものはもっと古くから存在していたようですが、 ガスパーニというイタリア人シェフが改良したのがこの頃といわれています。
ちなみに、このマイリンゲンという村は、 「ライヘンバッハの瀧」とよばれる250mもある大瀧の近郊にあることで知られています。 シャーロック・ホームズが 宿敵モリアーティと最期の対決を行った場所として有名ですが、 アーサー・コナン・ドイルがこの村で長期療養した経験があるそうで、 それでここが小説の舞台に選ばれたとのことです。
それはさておき、このお菓子のメレンゲがメレンゲ音楽の起源になった、 という説にはあまり確かな根拠はありません。 ドミニカ音楽としてのメレンゲは19世紀中葉頃には記録があるのですが、 それがどうしてヨーロッパのお菓子の名前を持つことになるのか。 ひとつの説明ではメレンゲを泡立てるときの音と グィラの音が似ているからという説。 もうひとつはメレンゲ音楽の軽薄な印象が、 卵白の泡っぽさと響き合うというもの。 どちらもイメジだけの俗説の域を出ず、 ちょっと苦しい印象です。
タイノの人々
メレンゲという言葉の起源を説明するもうひとつの仮説は、 コロンブス以前からカリブ群島で生活していたアラワク族、 タイノ人の言語に由来するという説です。 まずは、タイノ人について簡単におさらいしてみましょう。
ご存知の通り征服者クリストーバル・コロン(クリストファ・コロンブス) がアメリカを「発見」したのは1492年のこと。 そして、クリストファの弟 バルトロメ・コロンブス(バーソロミュー) がサント・ドミンゴ(現在のドミニカ共和国の首都) を建設したのが南北アメリカでの最初のヨーロッパ人による植民地でした。 ヨーロッパの目線での「アメリカの歴史」が始まったのは、 まさにここサント・ドミンゴからということになります。
「イスパニョーラ」はイベリア半島の古名ですから、 「イスパニョーラ島」という呼称は「スペインの島」という意味です。 この島はもともとタイノ語では「アイティ」(高い山々の地)、 「キスケーヤ」(大地の母)などと呼ばれていました。 島は5つの区域に分かれ、 それぞれが「カシーケ」と呼ばれる酋長のもとに社会生活を営んでいたといいます。
ヨーロッパ的な意味での「所有」の観念を持たないタイノ人たちは、 当初、島にやってきたコロンブスたちを「まれびと」として歓待しました。 何かが欲しいと言われれば言われるままに提供したといいます。 一方で、黄金探索が目的のコンキスタドール(征服者)たちは、 タイノ人たちを誘拐し、奴隷化し、欲望のために使役していきますが、 それ以上にタイノ人を苦しめたのはヨーロッパから持ち込まれた様々な病気でした。 結果、多くの人々が病死していきます。
いよいよマグァナ区の酋長カオナボ、 あるいはマグァ区の同グァリオネクスらによる抵抗が展開されますが、 圧倒的な武力を持つヨーロッパ人に制圧され、捕えられてしまいます。
ちなみに、ジャラグァ区のカシーケ・ボエチオの妹であり、 同時にカオナボの妻でもあったアナカオーナの伝説は有名です。 夫の死後、郷里で兄の補佐をしていた彼女は、 兄が逝去するとそのカシーケの座を継承しました。 ところが、コンキスタドールたちをもてなす饗宴の最中、 他のカシーケたちと共に、 アナカオーナは統治者ニコラス・デ・オバンドによって惨殺されてしまいます。 サルサを聴く人ならきっと一度は耳にしたことがある Cheo Feliciano の重要な名曲、 "Anacaona" はこの悲劇のカシーケを歌ったものです。
1513年頃までのスペイン帝国によるジェノサイドの結果、 数十万から数百万ともいわれるタイノ人が犠牲になり、 島の人口の 95% が失われたともいいます。
シバオの歌
こうして、ほぼ絶滅し文化的にも消滅してしまったタイノ人ですが、 彼らの言葉は古い地名や土地の言葉の響きの中に残っています。 ここで再びメレンゲの語源に話を戻しましょう。 時代はうんと下って19世紀に至ります。
折からの革命と政変の連続の中、 1844年にハイチの勢力を押し返し、 スペインからも独立を果たしてドミニカ共和国が成立します。 このときの独立を祝う歌が既にメレンゲと呼ばれていたという記録があるようです。
この頃以来の伝統的なメレンゲの音楽は、"Merengue Cibaeño" と呼ばれています。 "El Cibao" とはキスケーヤと同様、 もともとはタイノ語でこの島全体を表わす言葉。 "ciba" が岩、 "o" が土地という意味で、 「岩ばった土地」のように解釈できるとされています。 シバオの名の通り、島中に山脈が走る掘りの深いこの島には、 中央に大きな山脈が東西に横たわり、また島の北岸にもこれに並行する山脈が走っています。 ちなみに、現在シバオと呼ばれているのはこの両山脈に挟まれた低地部分のみで、 ここは米やコーヒーがよくとれる肥沃なエリアだそうです。
つまり、 "Merengue Cibaeño" のうち後半の方がスペイン語化したタイノ語なら、 前半の "Merengue" もタイノ語ではなかろうか、 というのがメレンゲ=タイノ語説の主たる論拠です。 ここでの「メレンゲ」が何を意味するのかは不明ながら、 「歌」とか「音楽」といった意味があったのではないかと推測する研究者もいるようです。 すなわちメレンゲ・シバエーニョとは「シバオの歌」あるいは「島の歌」 くらいの意味ではないかという推論です。
とはいえ、19世紀といえばもうずっと以前にタイノの人々は滅びていて、 アフリカから連れてこられた奴隷たちに置き換えられたあと。 もはや言語の痕跡から精確に意味を辿っていくことは困難でしょう。 したがって、この仮説にしても決定打には欠けるものであり、 厳密なメレンゲの意味はどこまでもいっても闇の奥です。
さまざまな巡り合わせの中でメレンゲと呼ばれるようになった音楽とそのダンスが 記録としてはっきりと参照できるのはせいぜい1930年台以降のことです。 メレンゲの父ともいわれる Juan Bautista Alfonseca は20世紀初頭に活躍した クラリネット奏者で、大量のメレンゲ曲を書いたとされる人ですが、 彼の仕事でさえほとんど残っておらず、 それがどんな音楽だったのか、いまでは知る方法はありません。
音楽的な詳細は不明ながら、 せいぜい妥当な類推としていえることは、 19世紀のメレンゲは郊外のダンスミュージックであり、 政治風刺や噂話を伝える吟遊詩人の歌であり、 素朴なギターとパーカッションで伴奏される 恋愛歌あるいは労働歌だったろうということです。 つまり、ほとんどキューバにおけるソンや プエルトリコにおけるプレーナと同じ役割ですね。 こうした性質は、 後の時代に政治的プロパガンダを伝達する役割として メレンゲが利用される理由にもなるのですが、 それはまた別の話。 人も文化も音楽もダンスも、 常に混淆し続けるのがアフロ=カリビアン世界なのでした。
改めて現代のメレンゲを思ってみても、 周辺領域のジャンルと様々に融合してどんどん新しい音楽を生み出しています。 メレンゲ・ロマンティコ、サルサ=レンゲ、ジャズ=レンゲ。 さらには、メレン=ラップ、メレン=ハウス、テクノ=レンゲなどなど。 「純血性」や「純粋性」という概念そのものをあっさりと跳び越えていく この島の人々のフットワークの軽さを思うとき、 ただただ驚嘆し、圧倒されずにはいられません。
想像するのもおぞましいほどのむごく悲惨な歴史の中から、 メレンゲのような心底陽気で楽しい音楽が生まれてきたというのは 眩暈がするほどの驚くべき奇蹟です。 この意味で、人間のしたたかさ、文化の力強さを教えてくれるのがメレンゲです。
こうしてみると、メレンゲの語源について、 純粋なオリジンを辿ることが出来ないことそれこそが、 メレンゲのメレンゲらしさともいえるかもしれません。 少なくとも数百年にわたる様々な文化や人々の交錯と混乱の連続の中で、 かの島で生きた人々のうちにしたたかに湧き上がってきた音楽とダンス、 それがメレンゲなのだと信じます。