Merengue Panic



第12打 メレンゲを生きる

メレンゲの何がいいのですか、 なぜメレンゲを踊るのですか、 という問いに応えることがこの連載の基本テーマでした。 最終打では改めてなぜいまメレンゲが重要なのか、 という問いに立ち戻ってメレンゲを言祝ぐことにします。

パートナダンスの愉悦

ダンスを踊っているときに何を感じているのか、 言語化することは非常に困難です。 このため、なぜ踊るのですか、という問いは本当に応えにくいものです。

楽しいから踊っている、といえばそれ確かにウソではありませんが、 これは回答というよりも質問をかわしているだけですね。

いうまでもなくパートナダンスには様々な種類の楽しさがあります。 そもそも音楽と並んで「最も原初的な遊び」といわれるダンスには、 あらゆる遊びのエッセンスがぎっしり詰まっています。 身体運動に伴う快感があり、 競争的要素や演じる楽しみもあります。 これだけでも充分に思えますが、 さらにパートナダンスとなると模倣する昂奮やくじ引き的な一喜一憂まで加わります。 もちろん稽古事としての上達の喜びもあるかもしれません。 これだけのフルコースなのでパートナダンスにはいろんな関心からのアプローチがあり、 スタイルや技量を問わずにそれぞれにダンスを充分楽しむことができます。

しかし、これらのアイテムを抑え、 多くの直観力に優れたダンサ達がとりわけパートナダンスの最大の喜びとして挙げるのは、 相手や音楽との「一体感」でしょう。 これこそがリード・アンド・フォローの深層部、コネクションの核心といえるでしょうか。 この「一体感」は「ケミストリ」とも呼ばれ、 あるいは 「共鳴」、「共振」、「駆け引き」、「フロー」といういう言葉を使う人もいます。 「ダンサガスム」や「サルサガスム」 といった表現もどうやら似たアイデアを意味するようです。 それぞれ少しずつニュアンスに違いはあるかもしれませんが、 ここではとりあえずひとまとめにして「一体感」と呼ぶことにしましょう。

macaron and tomato
マカロンとトマト

この「一体感」を感じるためにはリラックスと集中の両方が必要だといわれます。 身体的な条件のみならず、技術的にも精神的にも一定の条件を満足していないといけません。 フォローおよびリードの心技体、音楽との関係、フロアの状況など、 さまざまな条件が複雑に関係して「一体感」の強度を決定します。 ただ、これらの要素がどのように影響し合っているかを与える方程式は簡単には書けません。 単に身体能力が高ければいいわけでもなく、 技術があればいいということでもなさそうで、 音源の音質やヴォリュームはどのように関係するのか、 ペアの組み合わせや精神状態の影響などはどうなのか、なかなか一筋縄ではいきません。 周辺で踊っている他のペアたちの動きやフロア全体のヴァイブスも 重要な関係を持っていそうだけどその寄与の仕方はとても複雑です。

こうした点が、 明確なゴールがあり、 戦術プログラムの有能さとトレーニングメニューの品質とを競う 近代スポーツとは異なる点ですね。 勝敗原理や合理主義の文脈ではなかなかこうした 「一体感」のようなアイデアは尊重されないようです。

実際、エスタブリッシュトなフォローとリードがよい音楽で踊れば常に 深い「一体感」の境地に至るとは限らず、 トップダンサたちでもすべてのパーティで会心のダンスができる訳ではないといいます。 むしろ滅多に経験できないコトという見解が多いかもしれません。 例えば、 とある世界的にも有名なフォロワはこの問題についての洞察を喚起的に表現しています。

穏やかに問いが投げ掛けられ、応えが示される。 これは会話でのそれぞれの役割とお互いを理解し尊重するときにのみ成立するもので、 自由に展開していく。

(……)

脳の無意識の領域を刺戟し、 滞りも躊躇も消していくもの。 これを独り自分のこととして経験することも特別なことだけれど、 それが他の個体との一体感の中で生じるとしたらまさに純粋な調和といっていい。 (拙訳)

繊細で知性溢れる彼女は、 相補的にお互いを尊重しながら 深く自由を自覚できるような関係に裏打ちされた一体感のことを「調和」 harmony と呼びました。

こうした調和に触れることができるのはまさに僥倖の瞬間ですが、 いつも経験できるとは限りませんし、 しかもそれがあったと感じた瞬間に滑り落ちていく、どこか夢ような境地です。

踊る意味

ところで、ラテンダンスの故郷、 アフリカではダンスは生活そのものです。 祈りであり、医療行為であり、学びであり、 神話の語りであり、法律であり、神事でした。 バントゥー系の言語では「今日は何を踊るの?」という意味の表現が、 日常的な挨拶言葉だともいいます。 もはや楽しいから踊るなどというセコイ次元を遥かに超えていますね。

また、11世紀か12世紀、 古代ローマ法が「再発見」されたことをきっかけにヨーロッパに近代の萌芽が芽生える頃、 歌やダンスの聖なる力が減少しはじめ、 原パートナダンスが南ヨーロッパのどこかで生まれました。 この原初のパートナダンスの動機は謎と秘密に隠されています。 もちろん見てきた人はいませんし、何の記録も残り得ませんが、 その手付きや躍動やコネクションの一体感は 千年後の東アジアからでも精緻に想像することができます。

そうして、アフリカのリズムがスペイン音楽と混淆し、 アフロダンスのムイェロの感覚とヨーロッパ由来のパートナダンスが継ぎ木されました。 たとえそれが植民地主義と奴隷制を背景にしているとしても、 それがラテンパートナダンスであり、 その祖型がメレンゲです。

ちなみに、 メレンゲのハイライトは「マンボ」と呼ばれるホーンセクションの掛け合いですが、 「マンボ」の最も古い意味はハイチのヴードゥー教のシャーマンのことです。 神と交信できる能力を持った女性がマンボであり、 その名が音楽=ダンスの最高潮を意味するのは決して単なる偶然ではありません。

パートナダンスあるいはメレンゲは楽しいものですが、 一筋縄ではいかない難しいものでもあります。 利便性や合理性の点では役には立ちません。 勝ち負けもありません。

結局、なぜ踊るのかといえば、理由らしい理由はないんですね。 それはクラーベに共振してしまったからであり、 「一体感」を感じてしまったからとしかいえないのかもしれません。 見てしまった人が証言しなければならないように、 読んでしまった人が書かねばならないように、 世界と共鳴してしまった者は踊らざるをえないということです。 音楽やパートナを通じて、 外部の偉大な何か(グランデ)と共振してしまったということなのでしょう。

あるいは、日々合理主義を貫徹することが要請されている脳に対する、 カオティックな身体の叛乱を感じる人もいるかもしれません。 この意味で、メレンゲは単に暇潰しや気晴らしの趣味としてではなく、 庶民的日常を生きる一人ひとりにとって抜き差しならない生命エネルギィの充填=放電の場、 つまり「高度な必需」としてダンスフロアがある、といえます。 この連載でみてきたように、 少なくともサント=ドミンゴをはじめとするラテンの民衆にとっては きっとそういっていいのではないでしょうか。

ですから、ここで「メレンゲ」と呼んでいるものは 必ずしも厳密な音楽ジャンルとしてのメレンゲのことでなくても構いません。 人が人として生きていくのに寄って立つべき身体性を再確認し、 その重さを感じ、動かし、働かせることによって、 生活を新鮮で泡立つメレンゲのように活性化させる場、 それがソーシャルパーティの現場なのだという考えです。

カタチが残らず、 作品であることもアートであることも拒み、 記憶されることも言語化されることもない一回性のパートナワーク。 ただちに忘却されることが定められた活動であり、 それでも静かにパートナの身体のどこか奥深くに刻まれるものでもあります。 千年後の誰かがふと思い出してくれるような反藝術、 地球の中心と引き合う重力に従う夢幻の社交、 それがメレンゲです。

生きるためのメレンゲ

生きるためにメレンゲを踊る。 あるいはメレンゲを踊ることが生きることである。 本サイトの文脈ではそういい切っていいでしょう。 メレンゲの危機=世界の危機は今も続いています。 それでも大洪水に抗してメレンゲを踊らねばなりません。 明日世界が滅びると分かっても来月のパーティを準備する人がいる。 メレンゲは終わらないし、メレンゲパニックもまだまだ続きます。

posted at: 2021-09-13 (Mon) 10:00 +0900