パートナダンスの愉悦
ダンスを踊っているときに何を感じているのか、 言語化することは非常に困難です。 このため、なぜ踊るのですか、という問いは本当に応えにくいものです。
楽しいから踊っている、といえばそれは確かにウソではありませんが、 これは回答というよりも質問をかわしているだけですね。
いうまでもなくパートナダンスには様々な種類の楽しさがあります。 そもそも音楽と並んで「最も原初的な遊び」といわれるダンスには、 あらゆる遊びのエッセンスがぎっしり詰まっています。 身体運動に伴う快感があり、 競争的要素や演じる楽しみもあります。 これだけでも盛りだくさんですが、 さらにパートナダンスになると相手を模倣する昂奮や、 楽曲とパートナの組み合わせに関わるくじ引き的な一喜一憂まで加わります。 もちろん稽古事としての上達の喜びも数えていいでしょう。 これだけのフルコースなのでパートナダンスにはいろんな関心からのアプローチがあり、 スタイルや技量を問わずそれぞれにダンスを楽しむことができます。
しかし、これらのアイテムを抑え、 多くの直観力に優れたダンサ達がとりわけパートナダンスの最大の喜びとして挙げるのは、 相手や音楽との「一体感」です。 これこそがリード・アンド・フォローの深層部、コネクションの核心といえるでしょうか。 この「一体感」はしばしば「ケミストリ」とも呼ばれ、 あるいは 「共鳴」、「共振」、「噛み合っている感じ」、 「釣り合い感覚」、「駆け引き」、 「ゾーン」、「フロー」などの言葉で呼ぶ人もいます。 また文脈によっては「阿頼耶識」、「サルサガスム」、「ファナー」 といった表現も同じアイデアを意味することがあるようです。 それぞれ少しずつニュアンスに違いはあるでしょうが、 ここではとりあえずひとまとめにして「一体感」と呼ぶことにしましょう。
この「一体感」を感じるためにはリラックスと集中の両方が必要だといわれます。 身体的な前提のみならず、技術的にも精神的にも一定の条件を満足していないといけません。 フォローおよびリードの心技体、音楽との関係、フロアの状況など、 さまざまな条件が複雑に関係して「一体感」の強度を決定します。 ただ、これらの要素がどのように影響し合っているかを与える方程式は簡単には書けません。 単に身体能力が高ければいいわけでもなく、 技術があればいいということでもなさそうで、 音源の音質やヴォリュームはどのように関係するのか、 ペアの組み合わせや精神状態の影響はどうなのか、なかなか一筋縄ではいきません。 周辺で踊っている他のペアたちの動きやフロア全体のヴァイブスも 重要な関係を持っていそうだけどその寄与の仕方は複雑怪奇です。
こうした点が、 明確なゴールがあり、 戦術プログラムの有能さとトレーニングメニューの品質とを競う 近代スポーツとは異なる点ですね。 勝敗原理や合理主義の下ではなかなかこうした 「一体感」のようなアイデアは尊重されないようです。
実際、エスタブリッシュトなフォローとリードがよい音楽で踊れば常に 深い「一体感」の境地に至るとは限らず、 トップダンサたちでもすべてのパーティで会心のダンスができる訳ではないといいます。 むしろ滅多に経験できない心地、という見解の方が多いかもしれません。 例えば、 ある世界的に有名なサルセイラはこの問題についての洞察を喚起的に表現しています。
穏やかに問いが投げ掛けられ、応えが示される。 これは会話でのそれぞれの役割を互いに理解し尊重するときにのみ成立するもので、 自由に展開していく。
(……)
脳の無意識の領域を刺戟し、 滞りも躊躇も消していくもの。 これをひとり自分のこととして経験することも特別なことだけれど、 それが他の個体との一体感の中で生じるとしたらまさに純粋な調和といっていい。 (拙訳)
繊細で知性溢れる彼女は、 相補的にお互いを尊重しながら 深く自由を自覚できるような関係に裏打ちされた一体感のことを「調和」 harmony と呼びました。
こうした調和に触れることができるのはまさに僥倖の瞬間ですが、 いつも経験できるとは限りませんし、 しかもそれはあったと感じた瞬間に滑り落ちていく、どこか夢のような境地です。
踊る意味
ところで、ラテンダンスの故郷、 アフリカではダンスは生活そのものです。 祈りであり、医療行為であり、学びであり、 神話の語りであり、法律であり、神事でした。 バントゥー系の言語では「今日は何を踊るの?」 という意味の表現が日常的な挨拶言葉だともいいます。 もはや楽しむために踊るなどというせせこましい考えを遥かに超えていますね。
一方、11世紀か12世紀、 古代ローマ法が「再発見」されたことをきっかけにヨーロッパに近代の萌芽が芽生える頃、 歌やダンスの聖なる力が減少しはじめ、 原パートナダンスが南ヨーロッパのどこかで生まれました。 この原初のパートナダンスの動機は謎と秘密に隠されています。 もちろん見てきた人はいませんし、何の記録も残っていませんが、 その手つきや躍動やコネクションの一体感は 千年後の東アジアからでも精緻に想像することができます。
そうして、あるときアフリカのリズムがスペイン音楽と混淆し、 アフロダンスのムイェロ(バネ)の感覚とヨーロッパ由来のパートナダンスが継ぎ木されます。 そのきっかけは植民地主義と奴隷制という人類史上最悪の暴虐非道であったにも関わらず、 血と涙と叫び声を混ぜ合わせて出来上がったのは底抜けに明るく、楽しく、美味しい アフロ=カリビアンのパートナダンスでした。 その祖型のひとつがメレンゲです。
ちなみに、 メレンゲやサルサのハイライトは「マンボ」と呼ばれるホーンセクションの掛け合いですが、 「マンボ」とはもともとブードゥーのシャーマンのことです。 神と交信できる能力を持った女性がマンボであり、 その名が音楽=ダンスの最高潮を意味するのは決して単なる偶然ではありません。
メレンゲやサルサのようなパートナダンスは楽しいものですが、 一筋縄ではいかない難しいものでもあります。 利便性や合理性の点では役には立ちません。 勝ち負けもありません。 パーティでの1曲はそれ以上のことを意味しない、 ひとつのほんとうに小さな出来事に過ぎません。
結局、なぜ踊るのかといえば、理由らしい理由はないんですね。 それはクラーベに共振してしまったからであり、 「一体感」を感じてしまったからとしかいえないのかもしれません。 見てしまった人が証言しなければならないように、 読んでしまった人が書かねばならないように、 共振してしまった者は踊らざるをえないということです。 音楽やパートナを通じて、 偉大な何か(グランデ)に感応してしまったということなのでしょう。
あるいは、日々、合理主義を徹底しようとする脳に対しての、 カオティックな身体の叛乱を感じる人もいるかもしれません。 このように考えると、メレンゲは単に暇潰しや気晴らしの趣味としてではなく、 素朴な庶民的日常を生きる一人びとりにとって 抜き差しならない生命エネルギィの充填=放電の場であり、 ダンスフロアは「高度な必需」、 皆の大切な「社会的共通資本」であるといえます。 ダンスが生成する場に繰り返し立ち会うことは、 悲運にも絶望にも屈することなく一人ひとりが日々の小さな出来事を繋いでいくことです。
ですから、ここで「メレンゲ」と呼んでいるものは 必ずしも厳密な音楽ジャンルとしてのメレンゲのことでなくても構いません。 人が人として生きていくのに寄って立つべき身体性を再確認し、 その重さを感じ、動かし、働かせることによって、 生活を新鮮で泡立つメレンゲのように活性化させる場、 それがソーシャルパーティの現場なのだという考えです。
カタチが残らず、 作品であることもアートであることも拒み、 記憶されることも言語化されることもない一回性のパートナワーク。 ただちに忘却されることが定められた活動であり、 それでも静かにパートナの身体のどこか奥深くに刻まれるものでもあります。 千年後の誰かがふと思い出してくれるような反藝術、 地球の中心と引き合う重力に従う夢幻の社交、 それがメレンゲです。
生きるためのメレンゲ
生きるためにメレンゲを踊る。 あるいはメレンゲを踊ることが生きることである。 本サイトの文脈ではそういい切っていいでしょう。 メレンゲの危機=世界の危機は今も続いています。 それでも大洪水に抗してメレンゲを踊らねばなりません。 明日世界が滅びると分かっても来月のパーティを準備する人がいる。 メレンゲは終わらないし、メレンゲパニックもまだまだ続きます。
(了)