Merengue Panic



第7打 メレンゲの曲折と近代化

社会の変動は音楽も変化させていきます。 20世紀の初頭までは素朴なローカル音楽だったメレンゲ。 一方でメレンゲが政治的に濫用された時期もありました。 そのメレンゲを改めて民衆音楽として再生させたのは Johnny Ventura の功績でした。 1960年代にセンセーショナルなスタイルで 新しいメレンゲを作り出した先駆者の仕事をみてみましょう。

メレンゲの曲折

20世紀初頭、 ワルツやフォックストロットを優雅に踊っていたドミニカの上流階級にとって、 メレンゲは「アフリカ的でうるさくて下品な田舎のダンス」として疎まれ、 公的な空間で踊ることは厳しく取り締まられました。 このあたりの事情はキューバのソンとよく似ていますね。 1875年に Ulises Espaillat が市街でのメレンゲを禁止すると、 この禁止政策は1910年まで継続されます。 都市部を追われたミュージシャンたちは郊外や地方で活動を続けました。

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marimba from wikimedia.org

前回触れたメレンゲ・シバエーニョは、 主に「メレンゲの揺り籠」ことシバオ地方のホームパーティやバーや闘鶏場などで 演奏されたようです。 この頃のバンドスタイルには、 タンボーラとグィラに加えてマリンバとアコーディオンがいました。 マリンバは親指ピアノのバケモノのような大きな箱で、 今ではベースに代替される役割です。 また、1870年代頃にドイツからアコーディオンが持ち込まれ、 以前のバンドゥリアやトレスに置き代わることで、 古いティピコのかたちが成立していったといいます。

この頃のメレンゲの中でも特に高速で騒々しいジャンルはペリーコ・リピアーオ perico ripiao と呼ばれました。 直訳すれば「むしりとられたインコ」くらいの意味ですが、 これはシバオの中心街サンティアゴ・デ・ロス・カバジェロス にあった娼館の名前であり、 あるいは娼婦そのものやコカインの隠語でもあったといいます。

また、ゆったりしたスタイルで現在でも重要なリズム "pambiche" も生まれます。 パンビーチェは "palm beach" のドミニカン・クレオールの発音。 合衆国海軍の演習着のことを指したそうです。 アタマのタンボーラのふたつ打ちが特徴のこのリズムは、 アフロ=カリビアンのディープなポリリズムについていけない 合衆国のアメリカ人向けに作られたという側面も持っています。

これは1916年にプエルト・プラタを占領した合衆国が、 1924年までドミニカを支配したことと関係しています。 必然的に民族主義やナショナリズムに火をつける結果ともなり、 ドミニカ共和国の音楽としてのメレンゲ熱が高まる要因になります。

翻弄されるメレンゲ

さて、ローカルな民衆音楽あるいはダンスとして楽しまれていたメレンゲに、 大文字の役割が与えられるようになったのは 独裁者ラファエル・トルヒーヨ の統治になってからです。 1930年、クーデタによって権力を奪取したトルヒーヨ大統領は、 人心掌握の道具として民族的な音楽として人気のあったメレンゲを利用しました。 メレンゲの社会的立場は急上昇します。

トルヒーヨは政治キャンペーンにペリーコ・リピアーオ系のメレンゲバンドを動員し、 サント・ドミンゴのホテルのバンドにもメレンゲを演奏するように指示しました。 そこで開かれるパーティでトルヒーヨは、 ほんの少し前まで農民や召し使いだけが踊っていたダンスを強要される 軍人や企業家とその妻たちを楽しそうに眺めていたとも伝えられます。

1936年、公式にドミニカ共和国の国の音楽・ダンスに指定されたメレンゲは、 トルヒーヨのお抱え作曲家 Luis Alberti の活躍とラジオの普及もあいまって 一気に広まっていきます。 1918年に Juan Francisco García がオリジナルを作っていた "Ecos del Cibao" という曲を、 Alberti が "Compadre Pedro Juan" として改作し、これがトルヒーヨの公式テーマソング/ 準国歌になりました。 ちなみに、1944年にジャラグアホテルのカシーノ・ナイトクラブで結成された Luis Alberti 率いる Orquesta Generalísmo Trujillo (トルヒーヨ将軍楽団) には、 ファニアの設立者 Johnny Pacheco の父親もピアニストとして参加していたといいます。

こうした経緯を経て「農民の音楽」だったメレンゲは上流階級にも受け入れられる、 より都会的なフォーマットを獲得していきます。 卑猥な歌詞はより「真っ当な」歌詞に置き替えられ、 30年代のアメリカはスウィング・ジャズ・ビッグバンドの全盛に影響を受けて、 ホーンセクションがどんどん追加され、テンポも上がっていきます。

一方で、メレンゲの「純粋性」を吹聴するトルヒーヨは、 あらゆるジャズや外国の音楽との関連を否定しつづけていました。 トルヒーヨのラジオ局では当時のアメリカのジャズは御法度だったそうです。 同時に、トルヒーヨはメレンゲのアフリカ性も徹底的に否定しました。 自身の祖母がブラックハイティアンであるにも関わらず、 トルヒーヨはイスパニョーラ島からアフリカ性を排除することに心血を注ぎます。 ドミニカ共和国の白人化を掲げ、ハイチ系黒人を虐殺しました。

ともあれ、1961年にトルヒーヨが暗殺されると、メレンゲにも転機が訪れます。 トルヒーヨのラジオ局で作られたバンド "Orquesta San José" でコーラスをしていたひとりの若き歌手がメレンゲ界に旋風を起こしました。

近代化するメレンゲ

政権崩壊前夜の1959年、 ソウルミュージックに傾倒していた Juan de Dios はその名をアメリカ人風の Johnny Ventura に改名します。 そして、数年の後、 派手な衣装のコンボにキャッチィなユニゾンのダンスを仕込んで 一世を風靡する大スターになっていきます。 彼以前のバンドでは、ミュージシャンは坐って演奏し、 フロントマンもほとんど眠そうに踊っていたといいます。 ところが、 Ventura のコンボでは、ミュージシャン全員が立ってプレイし、 また、コロやホーンセクションも含めて皆が同じ振りを踊ったのです。 Ventura のこのステージはテレビ番組『コンボショー』で毎週日曜日に放送されました。 視聴者は曲ごとに異なるコンボのステップを覚えようと、 テレビに夢中になったそうです。 トルヒーヨ政権下のメレンゲがラジオの時代にちょうどオーヴァラップするように、 Ventura の音楽はまさにテレビ時代のパフォーマティヴな音楽だったといえます。 日本でいえば、ハナ肇のような存在と比較できるかもしれませんね。

歌詞の面でもコミカルで性的なテーマを扱い、 過剰に腰を振るその振り付けを多様することで、 テレビ的なパフォーマンスとして見事なショーを展開しました。 「メレンゲ界のエルヴィス・プレスリー」は熱狂的にファンに支持されます。 一方で、 Ventura はキューバのコンガを導入してメレンゲを更新していきます。 アコーディオンをピアノに置き替え、 ビバップやビートルズの方法を導入しました。 これらの革新にも関わらず、古いメレンゲのコラソンを損ねないそのアレンジ手腕は まさに天才的な改革者だったといえます。 また、ラジオ局での従量課金システムを確立し、 コマーシャル的にもメレンゲの成立に大きく貢献した当事者でもありました。

ちなみに Ventura は音楽家であると同時に政治家でもあります。 45年以上の政治活動の中で、サント・ドミンゴの市長を努めたこともあるんですよ。 いうなれば、ハナ肇が新宿区長を務めるようなもので、まさにアッと驚く為五郎です。

Ventura の音楽

ここで少し Ventura の楽曲を聴いてみましょう。

Ventura のメレンゲは前時代を振り切るように高速化しました。 このため、ちょっとパートナダンスとして展開を楽しみながら踊れるテンポを 超えた曲が多いのも事実です。 このため、彼の曲をパートナと踊りたいなら、 よりオーセンティックなダンススタイル、 つまりずっと組んだまま、ひたすらベーシックを踏む 「エンパリサーダ」スタイルでトランスするというのがオススメです。 例えば彼の代表曲のひとつである "Yo Soy el Merengue" はまさに古いメレンゲのテイストと、 リッチになったビッグバンドサウンドの融合を高速テンポで味わえる名曲です。 ダンサ目線でいえば、 よほどエナジェティックな雰囲気で踊るのでなければ、 ペアで踊るのは控えて、 お酒でも飲みつつ揺れながら楽しみたいメレンゲです。

一方、 "Patacón Pisao" はとてもゆっくりで綺麗なメレンゲです。 メレンゲとしては限界に近い遅さなので、 これはこれでちょっとパートナダンスに向かないのですが、 フォンキィなスラップベースとキーボードのトゥンバオのグルーヴがとてもよく、 素晴らしいリズムの名曲です。 ちなみに、この曲を歌っているときの Ventura のステップは、 テンポが遅い分、体幹のムーヴメントが綺麗に連動しているのが分かりやすく、 優れた歌い手は優れたダンサであることを確認させてくれます。

ところで、 Ventura のコンボショー時代のモノクロ動画はネットで探すといくつか出てきます。 音楽的にはとても真似のできない超絶技巧だと感じる一方、 コロの人なんかが意外にぎこちなく踊っているのをみると、 ラテンダンスは決して生まれで決まるものではなく、 練習の成果だとなんとなく安心することができます。 ともあれ、こういうステップのヴァリエーションを覚えておくと ソロダンスでメレンゲを踊るのに役立ちますね。

また、 Ventura はメレンゲだけでなく、 サルサ・ミュージシャンとしても多大な功績を残しています。 例えば海外のソーシャルダンスフロアでよくかかっている "Dilema" は有名ですね。 実は彼のサルサにはこれ以外にもソーシャルで踊りたい隠れた名曲が多いんですよ。 むしろパートナダンスを踊ることだけに限定していえば、 Ventura の曲はメレンゲよりもサルサの方が需要があるとさえいえるかもしれません。

ともあれ、このように紆余曲折を経ても、 政治や時代に振り回されながらもまったくその魅力を減じないしたかな音楽、 それがメレンゲです。 どんなに汚されても、切り裂かれても、駄目にされても、 横領されても、馬鹿にされても、埋められても、決して死なない。 さらには、忌まわしい混合や混濁を洗い流そうとするのではなく、 あらゆるものを受け入れ、溶かして、攪拌してしまい、 気付けばいつの間にか洗練された音楽になっている、そんな不思議な生命力さえあります。 こういうところにもメレンゲの魅力を感じるのではないでしょうか。

posted at: 2021-07-11 (Sun) 23:00 +0900