Merengue Panic



第8打 コネクション

コネクションはリードにとっても大変な難関ですが、 とりわけフォローにとっては厄介なコンセプト。 ソーシャルダンスでは最重要の基本テクニックともいわれるけれど、 感覚的で繊細で言語化しづらい領域なだけに、 人によって評価や説明がばらつきがちです。 結局どんなコネクションがいいのか、悪いのか。 今回はコネクションの観点からパートナダンスの魅力に迫ってみます。

パートナダンスの原理

メレンゲやサルサのダンスはふたりの人が一緒に協調して踊ります。 こうしたダンスを「パートナダンス」とか「カップルダンス」といいますが、 ラテンクラブダンス以外でもタンゴやリンディホップ、 ボールルームダンスなども同様にパートナダンスです。 一方で、ヒップホップとかジャズダンス、あるいは多くの民族舞踊などは、 ダンサが独りで踊るソロダンスか、集団で踊るグループダンスと呼ばれます。

パートナダンスでは片方がフォロー、もう一方がリードと呼ばれる役割を踊ります。 特にソーシャルパーティが存在するジャンルでは、 初顔合わせのふたりが初めて聴く楽曲に合わせて即興的にダンスを踊ります。 知らない人からすれば、 打ち合わせもないのにどうやってふたりがシンクロして踊れるのか、 手品のように感じる人もいるかもしれません。 これができるのは、暗黙の申し合わせとしてそれぞれが 「フォロー役」と「リード役」という役割を担当することが決まっているからなんですよ。

パートナダンスのジャンルごとにそれぞれのスタイルはあるのですが、 基本的なパートナワークの原理そのものはどれもだいたい共通しています。 それが一般に「リード・アンド・フォロー」あるいは 「パートナワーク」と呼ばれる原理です。

ミラリングとコネクション

さて、このパートナワークですが、 大きくふたつの領域に分解して理解できます。 ひとつがミラリング、 もうひとつが今回のテーマであるコネクションです。 コネクションの話題に入るための前提として、 先にミラリングのコンセプトをみてみましょう。

「ジンジャー・ロジャースはただフレッド・アステアのする通りに動いた。 ただし鏡映しに、そしてヒールを履いて。」

"Ginger Rogers did everything Fred Astaire did, except backwards and in high heels."

Rogers and Astaire
Rogers and Astaire / public domain

この有名な文句は、 パートナワークにおけるミラリングのエッセンスを端的かつ見事に表現しています。 ジンジャー・ロジャース(=フォロワ)は、フレッド・アステア(=リーダ) が右を踏めば左を踏み、左を踏んだら右を踏むという意味ですね。 ふたりがコネクションなしに踊るとき、 つまり距離をとって踊るときには、 フォローはほとんどただリードの鏡映しに動いているだけなのです。 (ヒールの有無というのもとても大事な問題なのですが、今回は措いておきましょう。)

とはいえ、フレッド・アステアの映画を観ても、 決してふたりは鏡映しに動いているだけではないですよね。 例えば、分かりやすいのは「アンダ・アーム・ターン」。 これはリードがフォローをターン(=回転)させる動きですが、 リード本人は回転していませんから鏡映しの動きではありません。 こういう動きは単純なミラリングのルールだけでは説明できませんよね。 そこで必要なのがコネクションというわけです。

ちなみに、ミラリングというのは人が赤ん坊の頃から自然に身に付けている偉大な能力です。 人の動きをミラリングすることはお互いの信頼関係を高めたり、 共感する心を育んだり、乳児が母語を覚える際のキーとなる身振りといわれます。 さらには、このミラリングする能力こそが、 ヒトが高度な象徴能力を獲得できた決定的な要因であると考える学者もいるようです。 このように、ミラリングというのは人にとっては本能のようなもので、 初心者フォロワさんでもそれほど難儀するケースは少ないと思います。 やはりパートナワークの最初のハードルはコネクションの体得といえるでしょう。

コネクションの考え方

とはいえ、ただ言葉にするだけなら、 コネクションの原理自体はそれほど難しいアイデアではありません。 フォローの反応の方法は以下のたった5つのポイントに集約できます。

  • 圧されたら圧し返す
  • 引かれたら引き返す
  • 反対方向に
  • リードと同じだけの力で
  • ただし反発力の上限に達したら力をキープ

圧されたら圧し返す、引かれたら引き返すということ自体は難しいことではないでしょう。 加えられた力の方向を感じることやその反対方向に抵抗して、 相手との接点の部分が動かないようにすること、 これも言葉にすれば複雑な処理ですが、 やってみれば難しいことではありません。

コネクションに関わる難しさは大きくふたつ、 ひとつはパートナダンスのコネクションの多くが腕・手で生じるという点、 もうひとつは「反発力の上限」が直感に反するという点、 このふたつが課題になる場合が多いようです。

腕・手が接点であることの問題を考えてみましょう。 フォローがリードと接触するのは手と手が一番多いです。 もちろん、リードがフォローの背中を触るとか肩に触れるというコネクションもあるのですが、 一般にリードが展開されるのは手を触れているときが最も多いのです。 これの何が問題か。

人間の身体の中で一番力が入りやすいのが前肢だということです。 人は手を身体の先端として使って生きていますから、 どうしても手を使うときに身体が緊張しやすい。 具体的には肩と肘が上がって力が入りがちになります。

リードの観点でいえば手と手でコネクションしていても、 動かしたいのはフォローの足です。 肩肘に力の入ったフォローでは反発をもらっても綺麗に重心を動かすことができず、 手だけ、上体だけが動いてしまうのでリードがうまく利きません。

したがってフォローするときのポイントとして、 リードとコネクションしているときは肩肘の力をできるかぎり抜いておく、 ということが挙げられます。 もちろん、これはいうは易し、 中級以上のフォロワにとっても肩肘の余計な力を完全に抜いておくというのは 大変に難しいことです。 ですから、初心者の皆さんはひとまず「腕の力はできるだけ抜く」 を意識することから始めるといいと思います。 あるいは肩と手を両端とするハンモックをイメジして、 肘を重力に任せて落としておく、と意識する方が上手くいく人もいるようです。

それにしても、余計な力を抜くのがなぜこんなに難しいかというと、 リードしてもらうには最低限の抵抗(トーン)が腕に必要だからです。 全くトーンのない腕は圧せません。 気が抜けてふにゃふにゃになった腕は「スパゲティ・アーム」と呼ばれ、 パートナワークの世界では NG とされます。 とはいえ、逆に無駄な力の入ったガチガチの腕では、 圧せるには圧せるが身体や足が暴れて精確なリードができないし、疲れます。 つまり、フォローに必要充分な量と方向にだけ抵抗がある「適度なアルデンテ」 になっていることが大事なのですが、 これは頭で理解しているだけでは駄目で、身体がそのバランス感覚を知っており、 絶妙な加減を反射的にコントロールできなければなりません。 力は入っていないが気は入っている、そんな腕が求められます。

もうひとつの問題は「反発の上限」に関わる反応の仕方です。 このコンセプトが難しいのは時間経過による変化を伴う概念だからです。 リードには持続時間があり、 その時間経過の過程で適切に振る舞いを変化させなければならないというのは、 アイデアとしても実践としても難度が高いといえます。 しかもその持続時間は時計の時間でいえばコンマ数秒というオーダなので、 初心者のうちはそこに時間や変化があること自体を感じられません。 この意味で、コネクションの感覚が身に付くというのは、 この持続時間が細かく文節可能な豊かな時間として感覚できるようになること、 といいかえることもできます。 あるいはフォロー・アンド・リードを点ではなく線として認識できるようになること、 といってもいいかもしれません。 ソーシャルダンスの喜びの源泉は、 コネクション中の文節されたコンマ数秒の中から湧き出します。

ところで、圧されたら圧し返す、 引かれたら引き返すといってもいつまでもそれをやっていたらただの力比べですね。 そこでフォロー側はリードから一定以上の力を加えられたら 抵抗する力をそれ以上増大させることなく、 そこでキープするということになります。 別の言い方をすれば、 それ以上の力がリードから加えられるとようやくフォローは体重移動を始めるのです。

反発から始めて一定のレヴェルに達したらキープいう反応は、 身体で覚えていないととっさにはできないもの。 抵抗する感覚と相手についていく感覚が混ざった動きなので混乱しやすいようです。 人によって「抵抗しつつも相手についていく」 とか「相手に動かしてもらうために反発を返す」 と表現したりします。 あるいは別のフォローなら単に「リードを感じて動く」 とだけいう場合もあり、 「抵抗」しているとさえ感じていないことも多いようです。 感じ方や言葉の選び方は人によって様々なので、 それぞれが自分なりに腑に落ちる表現を見付ける必要があります。

ひとつのポイントとして、 リードが始まってからフォローの重心が動きはじめるまでには 時間差があるということを改めてはっきりと意識してみるといいと思います。 つまり力が加わった瞬間に動くのではないということ。 力が作用している継続時間、 その間にダイナミクスが大きくなったり、小さくなったりします。 この感覚は人によって、 「待つ」、「任せる」、「預ける」、「ノビ」、「タメ」、「ゴム紐効果」 などと様々に呼ばれます。

この点はリーダにとっても大事な観点で、 すなわち、リードするのにガツンと一発で入れてはいけないのです。 そうするとフォローもガツンと反発しなければいけませんから、 「ジャーキィなリード」としてフォロー陣から嫌われます。 したがって、リードはゼロから連続的に力を加えていくのが上手いやり方です。 持続時間としてはほんの1拍とか半拍、 コンマ数秒の時間ですがその間にもしっかりグラデーションがあるのです。

パートナダンスの非対称

このように、ごく基本的なことだけをさらっても コネクションの話はややこしくなってしまいます。 実際に体感するのが一番の近道なのでコネクションの分かる人に 圧したり引いたりしてもらってみましょう。

こうしたコネクションの原理は初心の段階できちんと理解しておくことが肝腎です。 これをなおざりにしてカタチだけで動くことを覚えてしまうと 先読みするフォロワになってしまいます。 先読みはフォローとは全くの別モノ。 フォローしているつもりが単なる先読みになっていないか、 ときどき意識してみるといいと思います。

ところで、フォローとリードは協調してコネクションを作っていきますが、 どちらにより責任があるでしょうか。 しっかりしたコネクションは、 きちんとリードを受け止められるだけの「トーン」が入っていて、 かつ力の抜けているフォローに適切な緩急をつけたリードが加わることで感じられます。 最初にフォロワがトーンを調整します。 そのトーンをしっかり読んだ上で、 リーダがそれに合わせたリードを加えていく、 というのが一連の過程になります。

こうして考えてみると、 パートナワークでイニシアティヴを持っているのは リードだかフォローだか断定しづらいことが分かります。 結局、リードとフォローはお互いがお互いを存在の根拠としつつも、 それぞれが自律的に動いていく、 そういう関係ですから優劣ではないんですね。 リードがいなければフォローはできませんし、 フォローなしにはリードは存在さえしません。

それにしても、 こんなにややこしいコネクションを持ち出さないと踊れないだなんて、 パートナダンスって面倒だなと感じる人もいるでしょうか。 そもそもダンスは独りでも踊れるのになぜふたりで踊る必要があるのでしょうか?

洋の東西を問わず、ダンスや音楽を持たない文化はありえませんが、 一対の男女がボディ・コンタクトしながら踊るという意味での パートナダンスというのは近代ヨーロッパにだけ誕生した特殊な形式です。 近代ヨーロッパが生んだもののなかで特別美しいモノは 和声学とパートナダンスだけ、という人もいますが、 ともかく、必ずしも人類にとってユニヴァーサルな方法ではないんですね。 現在世界中に存在する数多のパートナダンスは すべてヨーロッパのダンスを系譜に持っています。

この意味でパートナダンスにはヘブライズムの人工的な「合理性」が存在します。 リードとフォローに役割を分けるというのは 独りの身振りや所作の中で身体を右と左に分けて使うということに比較できます。 つまり、リードは全体で左半身に、フォローは全体で右半身の役になります。 結果的にふたりの身体それぞれが作る「運動の運動」が、 全体でひとつの運動として働くという複雑な構造が生じます。

ご飯を食べるときは右手に箸を持って左手にお茶碗を持ちますね。 両手に箸を持ったら食べにくいですし、両手でお茶碗を持ったら犬食いしかできません。 右手と左手にそれぞれ異なる役割があって両者が調和して動くことで、 美味しくご飯を食べることができます。

左右の使い方と同じく、フォローとリードは非対称な関係です。 非対称であること自体がダイナミズムを生み出す原動力になっているのです。 ただ、右利きに生まれた人が左手で箸を持つこともできるように、 フォロー/リードの分担を伝統的なジェンダロールに合わせることは 絶対ではありません。 そもそもソロダンスのときには自分の中で右半身と左半身で役割を 分けてやっていることなのですから。 もっといえば、右半身の中にもさらに左右を分けて考えることができ、 どこまでもフラクタルな構造だとみることもできます。 同じように、濃淡の違いこそあれ、 リード/フォローそれぞれの役割の中にも リード/フォローがさらに入れ子になって存在していると考えることもできます。 得意・不得意ということはあるでしょうが、 難しいことをやるべきではないとする理由はありませんから、 やりたい人はどんどん自由に逆の役割をやってみればいいのだと思います。

いずれにしても、本来独りでできることをわざわざ役割分担してふたりでやってみる、 というのは面白いですよね。 あえて一度不自由になってみることで、 その不自由を克服する方法としてのコネクションを体得することができるのかもしれません。 そして段々とコネクションがあるパートナダンスが血肉化してくると、 ソロダンスよりもずっと有機的で自由だとも感じられるようになってくるから不思議です。

自然や神々のために踊られる輪舞でも、 共同体のために踊られる祈りの独り踊りでもないパートナダンス。 自然から疎外された都市生活者となり、 さらに共同体からも疎外された個として生きていかざるを得ない現代の多くの人々にとって、 自覚的に半人前に成り下がることは苦く酸っぱい通過儀礼なのかもしれません。 その向こうにどんな偶景が待っているのか、 それもやっぱりそれぞれの個的な経験で、不透明な霧の中です。

このパートナダンスの妙を経験してみる入門に最適なのが塩気の利いたメレンゲなのです。

posted at: 2021-07-21 (Wed) 23:00 +0900