Juan Luis Guerra y 440
1980 年代はメレンゲのスタイルが完成した時代だといえます。 先行する Johnny Ventura や Wilfrido Vargas と彼らに連なる多数のタレントが切磋琢磨し、 EMCA サウンドと呼ばれるドミニカン・メレンゲのひとつの型が定着しました。
80年代のメレンゲのレコードのほとんどすべては、 サント=ドミンゴの 「EMCA スタジオ」というレコーディングスタジオで収録されました。 国内のラジオ放送やテレビ放送などで使う音源の多くも製作される場所で、 ここで活躍するスタジオ・ミュージシャンやエンジニアが、 当時のメレンゲ・サウンドを引っ張っていく格好になったのです。 若き日の 440 のメンバもここで仕事をしたといいます。
この 440 は Juan Luis Guerra が中心となって、 友人のギタリスト Roger Zayas-Bazán やヴォーカルの Maridalia Hernández 、 Mariela Mercado らと結成したバンドです。
ところでこの Luis Guerra は他のメレンゲ・ミュージシャンたちとはかなり毛色が違っています。 中流階級の生まれで、もともと大学で文学や哲学を専攻していました。 その後国内の音楽学校でギターを学んだ後、 アメリカに渡ってバークリーでジャズギターおよびジャズの作曲を修めています。
そもそも "440" というグループ名自体が、 A=440Hz という音響学的な知識に基いてつけられています。 これは楽器のピッチの基準となる A 音を 440Hz にチューニングするという意味で、 近代音律論の基礎となる考え方です。 バンド名にこんな名前をつけるという点をみるだけでも、 Guerra が知的な志向性を持つことが窺われますね。 なお、発音は "Cuatro Cuarenta" で、「四・四十」のように呼称します。
実際、デビュー当初の Guerra はジャズ・ミュージシャンでした。 文字通りジャズ理論としての「バークリー・メソッド」 を試す狙いで最初のアルバム "Soplando" を発表、 その後は Manhattan Transfer のジャズコーラスや Beatles のハーモニーに強く影響を受けた楽曲を発表しつつ、 さらに、 EMCA を代表するタンボレーロでもある Catarey の影響もあって、 ドミニカのリズムを深く探究していくことになります。
このように Guerra の音楽は、 これまでのメレンゲとはずいぶん異なるフィールを持っていました。 より柔らかく、うんと詩的で、 ずっとコスモポリタンに洗練されたを音楽でした。 そして1989年、 Guerra はその代名詞ともいえるアルバム "Ojalá Que Llueva Café" をリリースします。
そのタイトルトラックはとても楽しげで、 童謡のようなメロディに乗せて 「珈琲の雨が降ってくれますように」 というメルヘンチックな祈りを歌います。 バックグラウンドのキャッチィなコーラスは子供たちの声。 メレンゲとしてはあまりに優しく、柔らかいリズムなので、 これを「バチャータ=メレンゲ」とか「メレン=クンビア」と呼ぶ人もいるようです。 詞は「キャッサバやお茶のシャワー、ホワイトチーズの雨、 クレソンや蜂蜜の山(があったらな)」 と展開し、 「麦と山芋の丘を植えて、お米の小山から降りて来たら、 愛情を持って耕し続けて」 と歌い、「珈琲の雨が降ってくれますように」を繰り返します。 最後は「すべての子供たちが歌を歌えるように、 この土地に珈琲の雨が降ってくれますように」 と唱えます。
ここから様々なメタファを読むことができますね。 受け手の立場によって複雑に反射する多義的で見事な歌詞です。 農民の立場なら素朴な豊作祈願の歌とも読めますし、 貧しい人々にとっては空腹を満たす「最低限の必需品」 への願いであると解釈することもできます。 Guerra の秀逸なアレンジと優しいメロディも手伝って、 辛い日々を慰める楽しいおとぎ話としても聴くことだってできるでしょう。
とりわけ「すべての子供たちが歌を歌えるように、 この土地に珈琲の雨が降ってくれますように」という箇所を引き出すなら、 物質的なもの以上の希求であると解釈することもできるかもしれません。 すなわち、単に必要なだけ食べられるということだけではなく、 人として生きるための精神的基盤を含む「高度な必需」への切望。 歌うこと、踊ること、珈琲や酒を飲むこと、 愛情を持って畑を耕すこと、つまり詩的生活。 子供たちが楽しげに歌っているのを愛でること。 あるいは、外部からの搾取に苦しみ続けているカリブ海の歴史を考えれば、 雨のように作物が降ってくるというメタファは、 島の中で循環し充足する経済への嘆願と捉えることもできるかもしれません。 この歌からこうした希求のメッセージを読み取るとき、 Juan Luis Guerra はグリッサンらを20年前に先取りしていた、 というと言葉が過ぎるでしょうか。
ともあれ、貧しい農民が多いラテンアメリカにおいて、 この多義的で美しい曲は熱狂的に受け入れられていきます。 この歌は今でもドミニカ共和国のみならず、 広くラテンアメリカの農民たちにとってほとんどアンセムとして歌い継がれているそうです。 ラテンアメリカの人々はおよそ似たような現実を共有していますからね。 農民たちは農作業をしながら毎日この歌を歌うようになったといいます。 人生讃歌を歌うように、この歌とともに農場へ出掛けていくのです。
危機と分裂
ところで、この名アルバムは「メレンゲの危機」とも呼びうる状況の中で生まれた1枚でした。
このアルバム製作に先立ち、 440 のオリジナルメンバであった Maridalia Hernández は、 彼女のソロ活動を優先したいとの希望からグループを脱退、 440 はメンバチェンジを余儀なくされていました。 そうしてアルバムの曲を数曲レコーディングした後の1988年の7月、 Los Hijos del Rey のメンバと 440 はジョイント・ツアーでベネスエラに向かいますが、 そこで悲劇が起こります。
ツアーバスが事故を起こし、タンボレーロの Catarey 、 本名 Ángel Miro Andújar とふたりのローカルミュージシャンが亡くなってしまったのです。 この出来事はメレンゲコミュニティに深い傷を残しました。 これを機に 440 の新規メンバだった Milagros Taveras はグループを離脱、 Catarey たちがバス移動だったのに対し 440 が飛行機移動であったということを責める心ない中傷もあったようで、 Guerra はひどく塞ぎ込んでしまいます。
さらに Catarey の死をきっかけにして、メレンゲ界では大きな論争が巻き起こり、 音楽家の組合や政治家までも巻き込んで メレンゲの現状を憂う会議が立ち上がることになります。 議論は古いメレンゲと新しいメレンゲの対立にまで拡がり、 メレンゲはその正統性をどこに置くべきか、迷走した時期でもありました。
拡散するメレンゲ
こうした状況の中でもなんとか気を持ち直した Guerra はレコードを完成させます。 アルバム "Ojalá Que Llueva Café" のラストトラックは "Ángel para una tambora" (『タンボーラの天使』)という曲。 これは Catarey (Ángel) へのトリビュートでした。 奇しくもこのアルバムで 440 の人気は爆発することになります。
"Ojalá Que Llueva Café" は彼らのトレードマークとなり、 ヨーロッパツアーは大成功、ラテンアメリカでも不動の人気を獲得します。
Juan Luis Guerra y 440 の成功の後のメレンゲは、 もはや定義不能なほど様々な音楽と習合していきます。 Chichi Peralta はレゲエやテクノやロックなどとのハイブリッドを進め、 Pochy 率いる Cocoband は高速メレンゲの系譜を受け継ぎつつも ソカやクンビアとのクロスオーヴァを深化させました。 もはやメレンゲの正統性の議論は意味を失っていきます。
さらに Guerra は翌年のアルバム "Bachata Rosa" (『薔薇色のバチャータ』)において、 まだ粗野で荒削りのローカル音楽だったバチャータを島外の人にも楽しめるよう、 Sonia Silvestre の流儀を元に、より洗練された音楽に昇格させました。 ワールドミュージックとしてのバチャータの誕生はこのときといっていいでしょう。 こうして Guerra の音楽の射程はさらに拡大していきます。
90年代になるとサルサ・ロマンティカが台頭、 サルサ全体の復権が図られます。 これはメレンゲの市場にとって脅威になりました。 というのも「ロマンティカ」という商品価値のあるポジションがサルサ・メレンゲ それぞれが凌ぎを削るレッドオーシャンと化したからです。
一方、90年代後半にはメレンゲは EDM やラップとも軽快にフュージョンしていきます。 元 Cocoband の Kinito Méndez はアフロテイストたっぷりのレゲエ風メレンゲ "El suero del amor" を歌い、 Proyecto Uno や Los Ilegales はエレキトリック・ダンス音楽としての四つ打ちメレンゲの境地を開拓し、 メレン=ハウスというジャンルを確立していきます。 これが現在まで続くハウスシーンでのメレンゲの受容を準備しました。
また、世紀を跨ぐ頃には多くのドミニカの音楽家がサン=ファンに移住していきます。 奇天烈な Toño Rosario がマディソン・スクエア・ガーデンでのライヴを成功させ、 同時に Manny Manuel や 「火の女」こと Olga Tañón のようなプエルト=リコ生まれの 優れたメレンゲ・ミュージシャンが活躍し、 メレンゲの中心地は少しずつサント=ドミンゴから サン=ファンあるいはニューヨークへと移っていきます。 そして、そのスタイルも多様なジャンルに継ぎ木されていきました。 音楽的にも地理的にも文化的にもメレンゲのスコープはどんどん曖昧になっていきます。
留まるところを知らないメレンゲの混淆と拡散と蒸発は、 それ自体が逆説的にメレンゲの定義でもあるといえるでしょうか。 メレンゲの不死身の可塑性には改めて驚かされます。
他方、音楽の変遷とは別に、 90年代末から今世紀にかけてのカップルダンスシーンの世界的流行は メレンゲの新しい受容を導きます。 サルサシーンの拡大に伴いメレンゲは世界中で聴かれ、 踊られるようになっていきました。
ラテンアメリカ世界に珈琲の雨は降りませんが、 メレンゲの恵みの雨は異郷の人々を慈悲深く潤しています。